7-17
氷嚢を頬に当てたオルダスは、わずかに顔を顰めると血の混じった唾を吐き棄てた。
「……痛ってえな、くそ。馬鹿力の癖に思い切り殴りやがって」
呻く相手を尻目に、ウォルター・ロビンソンはしれっとした表情でソファに腰掛けている。
彼の話を要約すると、こうだ。
―――アビゲイル・オブライエンは、かつて船で諸外国を巡る旅をしていた。まだ彼女が少女だった頃の話だ。コニーもアビゲイルから聞いたことがある。そして、その船の持ち主こそが、当時まだ駆け出しの商人に過ぎなかったウォルター・ロビンソンだったという。
アビゲイルとウォルターはただの顧客と商人ではなく、古くからの友人だったのだ。
「最初は数人乗るのがやっとのちっこい商船だったんだ。そんな船に貴族の嬢ちゃんが乗り込もうだなんて性質の悪い冗談だと思うだろう? ま、金払いがよかったから小汚い番犬つきでも目を瞑って乗船させたけどな。泣き言一つでも言ったらすぐに降ろすつもりだったよ。なのに、蓋を開けてみたら泣くどころか商売の仕方に口は出すわ手は出すわ、挙句の果てには率先して他国との交渉に参加してくるわでとんでもない奴でな。実際アビーの機転で救われたことも何度もあったんだ。これはもう俺の女神に違いないと思って求婚だってしたんだぜ」
「まったく本気にされてなかったけどな」
「うるせえ、くそがき」
ウォルターが悪鬼のような形相をオルダスに向けた。それから大仰に溜息を吐くと、ふと表情を消して真顔になる。
「とにかく、状況はわかった。事態は思った以上に深刻だってことだ。ついでに打開策もないときた」
まさにその通りだった。誰も言葉を発することができずに室内がしんと静まり返る。
その中で、ウォルターの声だけがはっきりと響いた。
「だから、俺がアビーを脱獄させて出航する。海にさえ出ちまえばこっちのもんだ。そのままアデルバイドと国交のない国にでも行けばいい」
その言葉に、ランドルフは険しい表情を浮かべた。
「……懸念材料が多すぎる。賛同しかねるな」
「だからアビーが処罰されるのを黙って見てろと? それこそ冗談じゃねえ。多少強引な手を使えば充分勝算はあるんだ。……まあ、二度とこの国には戻って来られなくなるけどな」
「商会はどうする」
「自慢じゃないが、うちには優秀な人材が多いんでね。俺がいなくても何とかなるさ。……もともとアビーがいるって理由だけでこの国に腰を下ろしたんだ。あいつを助けるためなら一文無しになったって惜しくも何ともねえよ」
オルダスも小さく頷いた。このまま計画が推し進められてしまいそうな雰囲気に、コニーは反射的に口を出していた。
「る、ルチアちゃんはどうするんですか? セオドア公爵だって……!」
「落ち着いたら呼び寄せればいい」
「でも……」
それでは根本的な解決にはなっていない。言い淀むコニーに、ウォルターは困ったように眉を下げた。
「俺だってまさかこれが最善の策だとは思ってないさ。あんたの言いたいことはわかる。けどな、お嬢ちゃん―――他に何か方法があるのか?」
コニーは話し合いを進めるウォルターたちから一度離れ、壁にもたれかかると小さく溜息をついた。
『辛気臭い顔ね』
スカーレットが腕を組んだままこちらを見下ろしてくる。
「……アビーさんは、たぶん、脱獄なんて望んでないと思う」
彼女なら、きっと自分のために相手を危険に晒したくないと考えるはずだ。けれど、アビゲイルを助けたいと思うウォルターたちの気持ちも痛いほどわかる。
けっきょくのところ、コニーは何もできない自分に一番腹が立っていた。
無力な己が悔しくて俯いていると、スカーレットはどうでも良さそうに肩を竦めた。
『頭に血が上った男たちなんて放っておきなさいな。わたくしたちは、わたくしたちのやり方があるでしょう?』
「でも、どうしたら……」
アイシャを殺害した実行犯の見当もつかなければ、無実の証拠も探し出せそうにない。頭を抱えていると、頭上から軽やかな声が降ってくる。
『あら、わたくしを誰だと思っているの?』
コニーは弾かれたように顔を上げた。
「ほ、方法が、あるの……!?」
『その前に、わたくしになにか言うことがあるんじゃなくて?』
ふふん、と得意気に唇を吊り上げるスカーレットに、思わず縋るように口を開く。
「助けて、スカーレット……!」
その言葉が意外だったのか、それとも必死な形相が間抜けだったのか―――スカーレットは驚いたように紫水晶の瞳を丸くした。それから、ふっと笑みをこぼす。
『―――仕方ないわね。助けてあげる』
◇◇◇
『アビゲイルは貴族だから、その処遇はグラン・メリル=アンの星の間で開かれる裁判で決定するはずよ。現段階でアイシャ殺害の確たる証拠はないわけだから、彼女を首謀者とする主張の甘さに気づく人間が出てきてもおかしくないと思うの。状況によっては無罪もあり得るわね。それを避けるために、敵は自分たちの息のかかった判事を用意してくるでしょうね』
「なら、早く真犯人を……」
焦るコニーに、ばかね、と呆れたような声が掛けられた。
『真実とか証拠とか、そうやって馬鹿正直に解決しようとするから手詰まりになるのよ。そもそも、先に非礼な振舞いをしてきたのはあいつらの方じゃなくて?』
「……ん?」
『いいこと、あいつらが用意する判事なんてどうせ後ろ暗いことがあるに決まっているの。だからね―――先にそいつの弱味を探り当てて、裁判でアビゲイルを無実にするように脅してやればいいのよ』
一瞬、沈黙が落ちた。それからコニーはぽかんと口を開いた。
「おどす」
気のせいだろうか。何だか急に物騒な言葉が聞こえてきた気がする。
『ええ。無礼者にはこちらの流儀で挨拶をしてやらないといけないでしょう? それが、正しき淑女の礼儀というやつよ』
スカーレット・カスティエルはそう胸を張って主張すると、どうだ、と言わんばかりに得意気な笑みを浮かべた。




