回想(リリィ・オーラミュンデ後編)
スカーレットが処刑され傷心を装った私は、そのお陰で結婚という監獄送りを免れ、慈善活動に打ち込む日々を送っていた。
ランドルフ・アルスターとの婚約を発表したのは、スカーレットの死から六年あまりが過ぎた頃だった。その頃になるとさすがに「見合いをしろ」という周囲の圧力に耐えきれず、両親の用意した山のような釣書を掻き分けては火にくべるという日々を送っていた。
ある日、そこに見知った名前を見つけた。一目見て、これは利用できると思った。
そこに書かれていたのは、死神閣下ことランドルフ・アルスターの名だったのだ。
「すまないが、今は誰とも結婚する気はないんだ」
母に頼めば、大喜びで夫候補と会う手筈を整えてくれた。もともと親しくはないが知人ではある。母が「あとは若いお二人で」とお決まりの発言をして席を外すと、ランドルフは「これは叔父が勝手に決めたことで自分にはそのつもりがない」とすぐさまこちらに釘を刺してきた。こちらから断れという意味だろう。
私はにっこりと微笑んだ。
「知っているわ。だから、私と契約しない?」
ランドルフの眉が訝し気に顰められる。
「契約?」
「ええ。実はね、私も結婚なんてまっぴらなのよ。でも、このままでは一生両親からの小言を頂戴する羽目になる。私の精神安定のためにもそれは避けたいわ。だから、とりあえず結婚はすることにしたの―――同じ考えの人と、契約上のね。だから実際の生活は結婚前と変わらないわ。まあ、私はあなたの家に引っ越すことになるけれど。条件は、お互いの生活に干渉しないこと。これまで通りあなたは好きなだけ仕事に打ち込めばいいし、その代わり、私も好きにさせてもらう。教会で宣誓をして、籍を入れるだけよ。それだけで煩わしい圧力からおさらばできるんだから、魅力的じゃない?」
紺碧の瞳が思案するように細くなる。彼にとっても悪い話ではないはずだ。
「……いいのか?」
「あなたこそ、本当にいいの? 言っておくけれど、私は子供はいらないわ。今の活動に人生を捧げたいの。跡継ぎが欲しいなら他所で作ってもらうことになる。それでも?」
その点についても青年はあっさりと頷いた。
「奇遇だな。俺もだ」
これは願ってもない好物件である。私は上機嫌で手を差し出した。
「それではこれからよろしくね―――共犯者殿」
結果的にランドルフ・アルスターほどの適任はいなかった。まずほとんど自宅に戻ってこない。自分の時間を優先したい私にとってこれは重要である。それに、女が表立って活動していても文句を言わない。むしろパートナーとしての立場を尊重してくれる。
契約で始まった関係だが、印象としては悪くない。私にとってのランドルフ・アルスターはたまに顔を合わせる同居人のようなものだった。
◇◇◇
「久しぶりね、リリィ! 会いたかったわ!」
子爵令嬢から王太子妃になった女は、薔薇色の瞳を輝かせながら心の底からの喜びを表現した。
―――相変わらずの、演技派である。
「……妃殿下も、ご息災のようで安心いたしました」
そう言うと、お互いに微笑み合う。
セシリアは賢い女だ。腹の内を決して悟らせない。
私は顔見知りの修道女たちから預かった孤児院の子供たちへの教育に関する嘆願書を手渡すと、その場を後にした。
長い廊下で褐色の肌の商人とすれ違う。おそらくセシリアの御用商人だろう。
そのまま一度モーリス孤児院に寄ると、修道服を借りて貧民窟に赴く。貴族の服装でのこのこ出向けば身包み剥がされても文句は言えないが、修道女であればだいたいは目こぼしされるのだ。
饐えた匂いのする道端では浮浪者や物乞いが屍のように寝そべり、人通りのある往来では年端も行かぬ子供たちが花を売っている。
その光景を目に焼きつけ、いずれはここでも子供たちに教育を行いたいと強く思う。
となると拠点はやはり教会だろうか。
そう思って目指した地区教会は、まるで襤褸小屋のようだった。壁には穴が空き、天井は所々抜け落ちている。私は溜息をつくと、まずは寄付金を集めて修繕しようと固く心に誓う。
その時、フードを目深に被った女性の横顔が視界に入ってきた。
「……セシリア?」
私は思わず呟いていた。
その姿は数刻前に会ったばかりの王太子妃に瓜二つだったのだ。
気がついたら後を追っていた。幸いにもフード姿の女性はこちらには気づかず教会内へと入っていく。彼女は躊躇いなく祭壇まで足を進めると、長椅子に腰掛けていた相手に話しかけた。
「―――キリキ・キリクク」
奇妙な言葉だった。男が顔を上げ、小さな声で何かを返す。女は頷き、フードを外した。
淡い金髪に薔薇色の瞳。そこにいたのは、やはりセシリア王太子妃であった。
「朗報だ」
男の声が聞こえてきた。
「もうすぐ【エリスの聖杯】が再開されるらしい」
「―――遅すぎる。何年待ったと思っているの」
「仕方ないだろう。二度目の失敗は許されないからな―――我々も、ファリスも。わかるだろう?」
セシリアは忌々し気に舌打ちをした。
「それで、リュゼ領の具合はどうだ?」
「……子爵はすでに重度の中毒者のようだから【ジャッカルの楽園】さえ与えておけば何でも言うことを聞くでしょうね。領地の実権を握っているのはこちらの息がかかった者よ。定期的にメルヴィナから密輸した爆薬を離れに運ばせている。いつでも反乱は起こせるわ」
「それは重畳」
男が低く嗤った。
セシリアが再びフードを被り、話が終わりそうな気配があったため、私は慌てて教会から飛び出した。
―――今のは、なんだ?
爆薬? 反乱? どくどくと早鐘を打つ心臓に手を当てながら、震える声で呟いた。
「エリスの、聖杯……?」
◇◇◇
エリスとは不和と争いの女神。聖杯は国に恵みをもたらすもの。どちらも帝国時代のファリスを起源とする言葉だ。
そしてセシリアが言っていた反乱という単語。
つまりこれは、ファリスによる侵略行為を意味するのではないだろうか。
「リリィさまー!」
きらきらと飛沫を上げる噴水の向こうから、ジョージが息を切らせてやってくる。
「見て見て! 俺、名前が書けるようになったんだ!」
そう言うと、くしゃくしゃになった紙切れを手渡してくる。広げれば、ミミズがのたうち回ったような文字で、ジョージ、と書かれていた。
「あ、ずるい、俺も!」
「あたしもー!」
「キャロルもキャロルもー!」
次々にやってくるのは年中組のミラ、マーク、キャロル。
どの子も嬉しそうに、名前が書けるようになったのだと満面の笑顔を浮かべている。
―――もし本当に戦争になれば。
そんなことになれば、真っ先に犠牲になるのは身寄りのないこの子達だ。
その日から私は密かに情報を集めることに決めたのだった。
◇◇◇
使える伝手はすべて使った。その結果、例の計画には【暁の鶏】という組織が絡んでいることがわかった。
ランドルフに相談しようと考えなかったわけではない。けれど、憲兵内部にも組織の人間がいることがわかっていた。あの堅物を疑っているわけではないが、信頼できるほど彼を知らないというのもまた事実だった。
それに、最近、何者かにつけられているような気がする。おそらく気のせいではない。情報を求めるあまり、派手に動きすぎたのかも知れない。
まさに八方塞がりだった。所詮私はただの小娘だったのだ。敵はあまりに強大で、太刀打ちできる術はなかった。
だから、最後にひとつ賭けに出ることにした。
◇◇◇
「―――いずれは貧民窟の子供たちにも教育を施せたらと思っております」
今後の福祉教育について話がしたいとセシリアに謁見を申し出ると、驚くほど迅速に日時が取り決められた。果たしてそれは偶然か、それとも―――
「さすが、リリィね。素晴らしい考えだわ」
「ありがとうございます。実は、すでに何度か様子を見に行っているのです。あそこの地区教会は修繕が必要でしょうね」
そう告げると、セシリアは何の表情も浮かべずに私を見てきた。私はにっこりと微笑みを浮かべる。
「ああ、そう言えば、先日妃殿下を拝見いたしました」
「……私がそんなところに行くとでも?」
「どこで、とは言っておりませんが」
笑みを貼りつけたまま、私はゆっくりと首を傾げた。
「そういえば妃殿下は、キリキ・キリクク、という言葉をご存知ですか?」
セシリアの目つきがわずかに鋭くなった。沈黙が落ちる。私は立ち上がると優雅に一礼をした。
「どうか計画は御慎重に。もう二度と、失敗は許されないのでしょう?」
―――悔しいが、所詮貴族の箱入り娘に過ぎなかった私に奴らの計画を阻止することはできなかった。
だが、このまま負けっぱなしなど冗談ではない。せめて最後に奴らの足を引っ張ってやる。
リリィ・オーラミュンデは、昔から、負けることが大嫌いなのだ。
足早に宮殿を出ると、待たせていた馬車に飛び乗った。御者にはアルスター邸ではなく、オーラミュンデの屋敷に行ってもらうように告げてある。
この日を迎えるための準備はすでに済ませてあった。暗号を刻印した鍵を製造し、知り得るすべての情報も資料館に置いてきた。万一に備えて孤児院の子にもメッセージを伝えてある。
【暁の鶏】はすぐにでも私を捕えようとしてくるだろう。鍵の存在はわざと周囲に仄めかしておいた。命よりも大事なものを隠してあるのだ―――と。
自慢ではないが私は今まで荒事などしたことがない。ましてや拷問など耐え切る自信もない。
つまり、こうして賭けに出た以上、私に残された道は先手を打つことだけなのだ。
失敗は許されないとセシリアたちは言っていた。ならば、そこを利用してやる。一体どこまで知られているのか。そして、私以外に誰か知っている人間がいるのか。それがわからなければ、奴らはしばらく身動きが取れないはずだ。
◇◇◇
観光用の小冊子の一頁を破き、揺れる車内でメッセージを書く。書き終えると鍵の入った封筒にしまい、封をした。残った冊子は馬車の窓から投げ捨てる。
屋敷に到着すると、封筒を握りしめて礼拝堂に向かった。手の中にあるのは、私の心からの願いだ。
『エリスの聖杯を、破壊しろ』
―――私には無理だったけれど。
けれど、時間は稼いだ。そこから先は誰かがやってくれるだろう。そうでも思わないとやってられない。
聖画の裏を暴き、聖典を破き、危険を承知で国の危機を救ってくれるような誰かが、きっと、現れる。
スカーレット・カスティエルのように神を神とも思わぬ傲慢さ持ち、それでいて、誰かのために奔走できるとんでもないお人好しが、きっと―――
そこまで考えて、私は思わず噴き出した。そんな人間がいたら、まさに奇跡ではないか!
でも、と思う。でも、未来は誰にもわからない。私は懐に忍ばせていた毒の瓶を指でなぞった。それは、かつて処刑を控えたスカーレットに渡そうとして断られたものだ。まさか自分が使う羽目になるとは思ってもみなかった。
私はゆっくりと顔を上げた。目の前には荘厳な三女神の聖画がある。女神と目を合わせながら取り外すと、その裏に封筒を貼りつけた。
奴らは来ない。
賭けは、私の勝ちだ。
―――最後に笑うのはこのわたくしだということを嫌というほど思い知らせてやるわ。
ふいにスカーレットの言葉を思い出す。確かにスカーレットは死の直前まで希望を失わずに笑っていた。彼女は、どうしてあんな顔ができたのだろう。
わからないが、その事実は救いでもあった。スカーレット・カスティエルにできて私にできないことなどあるわけがない。
だって、リリィ・オーラミュンデは―――昔から負けることが大嫌いなのだから。
私は悠然とこちらを見下ろす三女神に向かって誇らしげに微笑むと、そのまま毒瓶を飲み干した。




