回想(リリィ・オーラミュンデ中編)
それからエンリケは少しずつ外出を好むようになった。棒のような体にはうっすらと肉がつき、青白かった肌も日光を浴びて少しずつ赤みを取り戻していった。
◇◇◇
「あ」
地面に転がっていく焼き菓子を見て、エンリケが呆然と呟いた。
その日は、天気も良いので中庭でおやつを食べましょうと侍女が仕度をしてくれていた。
中央に日傘の刺さったテーブルの上には、すでに一口大の小菓子がそれぞれの皿に乗せられている。口に入れるとほろほろと崩れていく雪玉のようなクッキーや、貝殻の形をしたキツネ色のマドレーヌ。スパイスのたっぷり効いたオレンジ色のキャロットケーキ。とりわけ近くの森で採れる苔桃をたっぷり使ったタルトはエンリケの好物で、いつも最後まで取っておいてゆっくりと味わうことにしているようだった。
どうやらそれを落としてしまったらしい。
「……私の、タルトが……」
「どんくさいわね」
スカーレットの心のない一言で、赤紫色の瞳にじわりと涙が滲んでいく。私の分をあげても良かったのだが、生憎すでに食べ終えてしまっていた。
「しょうがないわね」
その時、空になったエンリケの皿に赤い宝石のような焼き菓子がころんと乗せられた。
「はんぶんこよ」
「し、しかし、お、お行儀が……」
「いいのよ。わたくしがゆるすわ」
―――何度思い出してみても、一体お前は何様かと頭を抱えたくなるような台詞である。
けれどこういう時のスカーレット・カスティエルは絶対の自信に満ちていて、その場にいるとなぜかそれが正しいのだと思ってしまうから厄介だった。
「なによ、レディにはじをかかせるき? わたくしがゆるすと言ったのだから、お前はただお礼を言えばいいのよ!」
よく食べ、よく歩くようになったエンリケは、かつてないほど活動ができるようになったらしい。
その結果、今まではおざなりだった帝王学を受ける時間も増えた。
グリーンフィールズに滞在してから数週間ほどが経つと、遊びに誘いに行っても何かの授業をしていることが多くなった。
特に午前中は、大抵、史学関係が入れられていたようだ。鷲鼻の初老の男は授業の最後に口頭試問を行うことにしているらしく、合格すれば遊びに出かけることが許された。
しかし、その日のエンリケは問題に手こずっているようだった。
「そんなことでは優秀な弟君に追いつくことなどできませんよ」
教師がため息交じりに告げると、エンリケの顔が目に見えて曇った。そんな言い方をしなくていいのに、と私は嫌な気持ちになった。確かに第二王子は賢いと言われているが、そもそも病弱なエンリケは一年の半分をベッドで過ごすような生活をしていたのだ。比べる方がおかしいだろう。
「―――エンディエル王の時代に栄えた交易商人のための都市だったわね? 王都オルスレインの西方に位置していたマルクランド地区でしょう。今はもう存在しないそうだけど」
その時、軽やかな声が室内に落ちた。
「え?」
全員がきょとんとした表情を浮かべて声の主の方を見ていた。
「これでお勉強はおしまいね。さ、行くわよエンリケ」
しかし注目を浴びることには慣れ切ってしまっているのか、当の本人はまるきり気にした様子もない。これで用は済んだと言わんばかりに立ち上がり、エンリケに声をかける。
「い、いったいどこでその知識を!?」
驚く相手に、スカーレットは冷ややかな視線を向けた。
「お前が昨日しゃべっていたじゃないの」
「……そ、それでは、当時のエンディエル政権はマルクランドを監視するために地区が一望できる鐘楼を王都に建設したのですが、その名前は?」
「サンマルクス広場にある聖マルク鐘楼でしょう。それも昨日言っていたじゃないの」
鷲鼻の教師は愕然と目を見開くと、拳を震わせてスカーレットに詰め寄った。
「素晴らしい! 素晴らしい才能です! スカーレットさまこそ教師をつけるべきです! よければ私が―――」
「うるさいわね。無礼よ、下がりなさい」
スカーレットは耳に手を当て、思い切り顔を顰めた。それから座ったままの殿下を見下ろすと、首を傾げる。
「どうしたのよ」
エンリケは暗い表情を浮かべたまま俯いていた。
「……かない」
「は?」
スカーレットが眉を寄せる。弾かれたようにエンリケが顔を上げた。
「いかない! スカーレットなんて―――だいきらいだ!」
そう叫ぶと、部屋から飛び出してしまった。護衛が慌ててその後を追っていく。
おそらくそれは子供の癇癪のようなものだったのだと思う。けれどエンリケは久しぶりに走ったことで発作を起こし、そのまま安静を余儀なくされた。
そして、その後エンリケと一言も会話を交わすことなく、私たちは王都に戻ることになったのだった。
◇◇◇
瞬く間に数年が過ぎ、病弱な少年だった殿下は健康な体を手に入れ立派な青年になっていた。
もちろん私たちが顔を合わす機会は何度もあった。その度エンリケはスカーレットに何か言いたげな素振りを見せていたが、彼女はあの日「だいきらい」と言われたことがよほど腹に据えかねたらしく、いつもわざとらしく無視をしていた。
私はそんな二人を見ながら、どちらも子供だなと呆れていたものだ。
関係が変わったのは二人の婚約が発表されてからだった。もともとグリーンフィールズでの私たちは兄弟のように仲が良かった。婚約の関係で否が応でも顔を突き合わせることになり、ゆっくりとわだかまりは氷解していったようだった。
実のところ、私は、セシリア・リュゼに関しては特に問題視してはいなかった。もちろん牽制の意味も込めて小突いて遊ぶ程度のことはしたが、積極的に潰そうとは思っていなかった。
恋とは熱病のようなものだと言ったのは誰であったか。確かにセシリアはエンリケにとって初恋の相手になるのかも知れないが、いずれは冷める日が来るだろう。いずれ王位を継ぐ彼に必要なのは影響力だ。その意味ではカスティエルほどふさわしい家柄はない。だから、たかが子爵令嬢にいちいち目くじらを立てる必要はないと、そう思っていたのだ。
―――スカーレットが投獄されたと知ったのはその矢先のことだった。
「……毒?」
それは、スカーレット・カスティエルが婚約者の浮気相手であるセシリア・リュゼを暗殺しようと毒を仕込んだという話だった。最初に聞いた時は、あまりにも馬鹿々々しくて笑うこともできなかった。
けれど次々に証拠や証言が持ち上がり、挙句の果てはリュゼ邸に彼女の耳飾りまで落ちていたと聞く。
そして極めつけは、あのエンリケ殿下がグラン・メリル=アンでスカーレットを弾劾したというものだった。
◇◇◇
「殿下!」
モルダバイト宮に乗り込んだ私は無礼を承知で声を掛けると、裾を持ち上げ、おざなりに一礼をした。そして、そのまま返事も待たずに口を開く。
「いったいどういうことでしょうか。本当にスカーレットがあんな姑息な手を使うとでも?」
厳しい口調で詰問すると、エンリケの顔が明らかに強張った。
「……思っていない」
「でしたら、なぜ」
「―――あの日、リュゼ邸で月虹石の耳飾りが見つかったと耳にした」
私は、はっと息を呑む。
「だから、疑いを晴らしてやろうと、確認しに行ったんだ。私なら見分けがつく。だってあれは―――婚約が決まってすぐに私が彼女に贈ったものだったから」
そこまで告げると、エンリケの唇がわずかに震えた。
「間違いなく本物だったよ。裏切られたと思った。彼女はもう、私の知っているスカーレットではなくなってしまったと。それで、追及を」
そこで一端声がとまる。
「……でも、処刑になるなんて、思ってもみなかった。そんなこと、私は望んでいない」
エンリケの顔は今にも泣き出してしまいそうだった。
「よく考えれば、彼女の仕業ではないとわかったはずなのに。でもあの時は、頭に血が上っていたんだ。……ランドルフ・アルスターがいれば冷静な助言をくれただろうに」
私は小さく溜息をついた。しかし、起きてしまったことはしょうがない。
「……何とか、ならないのですか?」
「無理だ。父が―――陛下がご決断された」
「いったいどうして……」
私はこの状況にどうしても納得がいかなかった。確かに物的証拠はある。けれどスカーレット・カスティエルという人間を知っていれば暗殺などまずあり得ないと思うはずだ。むしろ、何者かに仕組まれたと考える方が自然である。それに子爵令嬢の暗殺未遂ごときで陛下が動くというのも妙だった。
そもそも、娘が処刑されるというのにカスティエル公爵は何をしているのだ。
動けないのか、それとも―――動かないのか。
「私が、愚かだったんだ」
振り絞るような声がする。
「……リリィ」
鮮やかな赤紫の瞳と目が合った。紫は王家の色だ。度々その系譜に王族の血が入るカスティエル家の瞳もそうだった。しかし、こうして見ると、同じ紫と言ってもスカーレットの瞳は青みがかった紫水晶だったことに気がついた。
「スカーレットは処刑される。だから、私がセシリア・リュゼと結婚することを許して欲しい」
おそらくそれは、愛する人と一緒になりたいという意味ではないだろう。そうと言うには、エンリケの顔はあまりにも悲壮過ぎた。
けれど、許しを求められても私には答えることなどできない。なぜなら―――
わたくしがゆるすわ、と自信たっぷりに微笑んでくれた子は、もう、ここには、いないのだ。
エンリケが覚悟を決めたように言葉を落とした。
「―――昔から、毒を喰らわば皿までと言うだろう?」
エンリケの告げた、毒、という言葉で思い立ったことがある。
私は処刑を見たことがない。けれど、それが群衆に晒され囃し立てられる品のないお祭り騒ぎだということくらいは知っている。
あのスカーレット・カスティエルがそんな最期を迎えるなんて耐えられなかった。
だから、すぐにそれを手配した。
即効性があり、なるべく苦しまずに逝けるもの。少なくとも、これで処刑は免れる。
「―――けっこうよ」
冴えない灰色のワンピースを纏っていてもスカーレットの美貌はまったく損なわれていなかった。
「まったく、どいつもこいつも、わたくしを一体誰だと思っているの?」
そう言って不愉快そうに鼻を鳴らす。その姿はまるきりいつもと変わりない。
「このわたくしに背中を向けて逃げろというの? 冗談じゃなくてよ」
私は、ぽかんと口を開けたまま彼女を見つめていた。
「公開処刑ですって? 上等じゃない。最後に笑うのはこのわたくしだということを嫌というほど思い知らせてやるわ」
そう告げたスカーレット・カスティエルは初めて会った時のように美しく―――
非常に悔しいことに、私はまた目の前の少女に負けたと感じてしまったのだった。




