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ああ、どうしよう。
温室から大広間につながる廊下。見事な装飾が施された大理石の柱に背を当てて、コニーはふう、とため息をついた。目をつぶって、眉間に拳を押しつける。
どうしよう。というか、どうしようもない。
(こうなったら今見たことをニールに正直に話すしかないわよ、コニー・グレイル。腹をくくりなさい。それで、これからどうするかふたりで話し合うの。それがたぶん一番誠実だわ。大丈夫、私たちは恋愛結婚じゃない。向こうは貴族の伝手、私は借金の返済。愛がなくてもなんとかなるはず。そりゃあね、ちょっとはときめいたりもしたけれど。だってハンサムだったし。優しかったし。でもきっとあれは小匙いっぱい分くらいの、ううん、小指の爪先ほどのときめきだったはずよ。たいしたことない。きっとそうよ。きっと……。だってもう婚約公示はしてしまったわけだし、今さら無効にするなんてできないんだから。それは、道義に反する行いだもの。大丈夫、主導権は私にあるわ。いくらニールがパメラを愛していたとしても、あちらから破棄なんて出来ないのよ。だって、私は『悪女のスカーレット』ではないのだもの)
スカーレット・カスティエルにはそうされる理由があったのだ。セシリア王太子妃に対する数々の嫌がらせに加え、とうとう彼女の暗殺まで企てた。それが婚約破棄のみならず、処刑にまで至った理由である。
今回の場合は、異議申し立ての権利は間違いなく不義理を働かれたコニーにある。
よし。とりあえず、話し合おう。話して決めよう。覚悟を決めて目を開ける。次の瞬間、コニーは悲鳴を上げた。
「ひぃっ!?」
いつの間にか、コニーの目の前にひとりの少女が立っていたのだ。考えに没頭していたせいだろうか、気配などこれっぽっちも感じなかった。年の頃はおそらくコニーとさほど変わらない。少女はコニーではなく、音楽や笑い声がもれてくる広間の方をじっと見つめていた。その表情はどことなく虚ろである。
「あのう……」
どうかされましたか―――?そう訊こうとして、はっと息をのんだ。少女が、たいそう美しいことに気づいたからだ。
艶やかな黒髪に、紫水晶の瞳。肌は穢れのない初雪のように白く透き通り、その肌を包むドレスは対照的に燃えるような深紅だった。
この国で紫の瞳は王家の色とも言われている。王族に多いのだ。とはいえさすがに王女さまと言うことはないだろう。それ以外で紫、もしくはそれに近しい色を持てるのは、王族が降嫁してくるような大貴族に限られる。つまり、どちらにせよ、この少女はかなり高貴な身分ということだ。
確か―――とコニーは大広間での参加者を振り返る。確か、今日の招待客には侯爵以上はいなかったはずだ。金が唸るほどあるとはいえ、ハームズワースは子爵家だ。王族主催の大規模な夜会でもない限り、上位貴族と下位貴族の社交場には隔たりがある。今回招待されたのもだいたいが子爵や男爵だった。伯爵にしたって、堂々と参加しているのは変わり者のエマニュエル夫人くらいである。
けれど、下賤な夜会を好む貴人というのは一定数いるものだ。身分の高い彼らは主催者を通して、下位貴族や准貴族の集まりにお忍びでやってくることがある。
きっと彼女もその類なのだろう。コニーはそう見当をつけた。
「わたくし、コンスタンス・グレイルと申します。失礼ながら、なにかお手伝いでも?よろしければ、人をお呼びしましょうか?」
そう言って少女に近づいたコニーは、思わず頬を染めて視線を彷徨わせた。
深紅のドレスは大きく襟ぐりが開いており、柔らかそうな胸元が露になっていたのだ。
おそらくそう変わらぬ年だというのに、この少女が醸し出す得も言われぬ色気はなんだ。そもそも、昨今のドレスの流行は貞淑を強調する露出を控えるタイプなのだ。そう考えると少し古いデザインのはずなのに全く野暮ったくない。それどころか、この気の強そうな美貌を持つ少女にぴたりと嵌まっている。下品さなど微塵もなかった。そこにあるのは圧倒されるような美しさだけだ。この子が大広間に降り立って一度でも微笑めば、おそらくそれだけで今年の流行が変わるだろう。
『……楽しそうね』
食い入るように少女を見ていたコニーは、その声に、はっと我に返った。彼女の視線はまだ大広間に向けられていた。
「入られないのですか?」
当たり前のように訊ねれば、きょとん、と首を傾げられる。
『入って、よろしいの?』
「へ?」
今度はコニーが首を傾げる番だった。
「もちろんですよ」
むしろ、よろしくない理由がない。
どうぞ、と手のひらで広間の方を示すと彼女はふらふらと足を進めた。その様子はどうにも危なっかしい。ハラハラしながら行方を見守る。少女はそのまま廊下と大広間の継ぎ目を踏むと、急に立ち止まった。
『……はいれた』
そりゃあ、入れるだろう。
けれどそれが心底驚いたというような声だったので、コニーはいよいよ疑問に思った。カクテルの呑みすぎかと思っていたが、もしや禁止されている幻覚剤でも―――?
ふふふ、と鈴を転がすような声が響いた。
『―――お前、礼を言うわ』
ぱっとこちらを振り向いた少女の顔には満面の笑みが広がっていた。
あまりにも鮮やかなそれに見惚れている間に、彼女は軽やかな足取りでホールへと消えていった。
残されたコニーはぽつりと呟く。
「お、おまえ……」
その口ぶりはまるで女王さまである。やはり高貴な方のお忍びだったようだ。