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ケイト・ロレーヌが初めて貴族の洗礼を受けたのは六つになって初めての冬。同世代のご令嬢の誕生パーティーの席でのことだった。
もともとロレーヌ家は歴史の浅い成り上がりである。しかも、ケイトの母親は下町出身の平民だ。当然の如く貴族同士の交流からは距離を置かれていた。そのためケイトにはずっと同じ年頃の友人という存在がいなかった。だから、その招待状が届いた時はロレーヌ家ではちょっとしたお祭り騒ぎになったのだ。
正直に言って、ケイトは浮かれていた。母に至っては三女神の祝福を受けたような喜びようで、特別な日にしか作ってくれないとびきりおいしいクッキーを持たせてくれた。ケイトは嬉しくて頬を緩めた。このクッキーを食べたら、みんな羨ましがってうちに来たがるに違いない。そうしたら、どうしよう。母に言ったらまた作ってくれるだろうか?数が多いと大変だから、みんなで作ってもいいかも知れない。そうだ、それがいい。きっと楽しい。
―――浅はかにもケイトはそんな未来を夢見て、焼き菓子を入れた包みを大事に大事にしまいこんだ。
初めて訪れた男爵家の御屋敷は、ケイトの家とは比べ物にならないほど豪華で広大だった。きらびやかなシャンデリアに、ごてごてとした金ぴかの飾り。そしてむせかえるような香水の匂い。
「―――くさい」
どきどきしながらケイトがお祝いの挨拶をすると、今日の主役である愛らしい女の子はそう言って顔を顰めた。
「なんのにおいかしら。とってもくさいわ」
真っ白なドレスに身を包み、白金色の髪を大人っぽく編み込んだパメラ・フランシスは、まるでお伽噺に出てくるお姫さまのようだった。儚げで、優しそうで―――そんなきれいな見た目な子から発せられる明らかな侮蔑にケイトは怯んだ。侍らせていた取り巻きたちが彼女の言葉に一も二もなく追随する。「ほんと、くさいわ」「やだあ」「庶民のにおいじゃない?」
くすくすと意地の悪い声がケイトを貶める。ぎゅっと拳を握りしめながら、お母さまがいなくてよかった、と心の底からケイトは思った。フランシス家からはロレーヌ夫人もぜひに、と声をかけてもらっていたが、キッチンメイドであった母には社交界のマナーなどわからないし、失礼なことをして水を差したら嫌だからと丁重に断っていたのだ。代わりに父方の叔母が付き添いを申し出てくれていた。
この場にいる誰よりも豪華な衣装に、人目を引く愛らしい姿。同世代の取り巻きを従えたパメラ・フランシスの存在は絶対で、これから何が起こるのかとケイトはただただ恐怖に足を竦ませた。パメラの瞳が何とも言えない嫌な光を湛えて楽しそうに歪んでいく。
「ねえ、あなたもそう思うでしょう?あの子、とってもくさいわよね?」
ふいにその傲慢な視線が向いた先には、どこかの貴族のご令嬢がいた。
―――おそらく、その行動に決して深い意味はなかったのだろう。ただの気まぐれ。たまたま近くを通りかった女の子に声を掛けた。それだけ。
もちろんその子も己に賛同するに違いないと確信して。
「ん?」
しかしその場の予想に反して立ち止まってこちらを見てきたのは、榛の髪に若草色の瞳の、どこにでもいるような顔立ちの女の子だった。ついでに言えばドレスも地味だ。
「……んん?」
その子は首を傾げながら、何の気負いもなしにケイトに近寄ってきた。突然の行動に、周囲が一瞬、呆気に取られる。ケイトも驚き硬直したが、女の子は気にした様子もなくすんすんと鼻を鳴らしていく。それから、ぱっと後ろを振り返った。
「ぜんぜん、くさくないよ!」
途端、パメラ・フランシスが鼻白んだ。取り巻きの子たちがぎょっとしたように顔を引き攣らせ、一斉に非難の視線を向ける。しかし、やはりその子はまったく気にした様子がなかった。それよりも気になることがあるのか、考え込むように首を捻る。
「というか、これは―――」
うーん、えーと、としばらく呻いていると、ふいに弾んだ声を上げた。
「わかった!クッキー!」
そう言うと、ぱっと顔を輝かせてこちらを見てくる。ケイトはびっくりしてその子を見つめた。まるで、今にも破裂寸前だった風船から、ふしゅるるるる、と空気が抜けていくかのようだった。パメラ・フランシスは見る見るうちに眉を吊り上げ、ひどく恐ろしい顔で女の子を睨みつけると、一言も発しないまま踵を返した。足早に遠ざかる背中を、取り巻き達が慌てたように追っていく。
女の子が首を傾げた。
「あれ?みんないなくなっちゃったね」
「う、うん……」
何なのだろう、この子は。
その時、きゅるる、と小動物の鳴き声のような音がした。不思議に思って視線を彷徨わせれば、女の子が明らかに「しまった」という表情を浮かべてお腹に両手を当てている。ケイトは思わず噴き出した。少しだけためらってから、可愛らしく包まれた袋を取り出す。
「……たべる?」
「いいの!?」
若草色の瞳がきらきらと輝いた。きょろきょろと辺りを窺うと、そのまま包みを開き、さっと口に放り込む。途端、びっくりしたように両頬に手を当てた。
「おいしい!」
その顔に、幸せそうな笑みが広がっていく。
気がついたら、ケイトは口を開いていた。
「あのね、わたし、ケイト……!ケイト・ロレーヌって言うの……!」
今にも二枚目を口に入れようとしていた子はきょとんと瞳を瞬かせると、嬉しそうに破顔した。
「コニーだよ!」
◇◇◇
ケイト・ロレーヌはゆっくりと瞼を開けた。ひんやりとした外気が頬を撫ぜる。埃っぽい室内はどこかの小屋だろうか。
どうやら冷たい床に俯せになるようにして意識を失っていたようだ。幸運なことに、薄暗い室内には誰もいなかった。起き上がろうと思って、腕を後ろ手に縛られていることに気がついた。道理で体が痛むわけだ。ずりずりと這いながら壁際まで行き、壁に背中を預けると、バランスを取りながら体を起こす。
室内は殺風景だった。椅子がひとつに、テーブルがひとつ。外からわずかに差し込む陽光はまだ明るい。そっと辺りを窺うと周囲に生活音はなく、おそらくは郊外―――それも、窓から見える景色から察するに森林の中のようだ。
そうこうしているうちに男が帰ってきてしまった。ぎくりとケイトの体が強張る。相手は中年で体格が良い。そしてひどく嫌な目つきをしていた。
「目が覚めたか」
グレイル邸からの帰り道、背後から襲われたのは覚えている。何か薬品を嗅がされて、意識がなくなった。
男はどさりと椅子に腰を下ろすと、黄ばんだ歯を剝き出しにしてくる。
「ケイト・ロレーヌだな」
ケイトは黙っていた。黙って、男の出方を待った。
「―――リリィ・オーラミュンデの鍵を知ってるか?コンスタンス・グレイルが持ってるはずだ。知っていたら帰してやってもいい」
その言葉に、はっと息を呑んだ。
そうか、狙いは―――あの子なのか。
ならば話は簡単だった。ケイトはわずかに目を眇め、挑発的に口の端を釣り上げる。
「知ってたって、教えてやんない」
男がさっと表情を変え、手を振り上げた。避ける間もなく頬に衝撃が走り、視界がぶれる。容赦のない暴力に態勢を崩し、床に倒れ込んだ。口内に錆の味が広がっていく。
男はそのままケイトに近づくとマロンブラウンの髪を掴みあげた。ぐ、とケイトの咽喉から苦痛の声が漏れる。
「なら、協力しろ。コンスタンス・グレイルを騙し、あいつから鍵を奪ってこい」
―――ケイトの祖父は、もともと国境警備隊の下士官に過ぎなかった。それが偶然に偶然が重なり手柄を得て爵位を賜ったのだと言われている。中途半端な成功は同じような下級貴族からも平民からも疎まれた。あからさま嫌味や侮辱など可愛らしいものだ。中にはロレーヌ家のような存在を受け入れられず、強制的に排除しようとしてくる者もいる。そのためロレーヌ家の子供たちは、物心ついた頃からその方面に関してはある程度の教育を受けることになっていた。誘拐時の対応もそのひとつだ。
だから、本来であれば反抗的な態度を取ってはいけないことはわかっている。けれど、この男はケイトに目隠しをしなかった。それどころか、顔を見せても堂々としていた。そして狙いはケイトではなく、コニーの方だ。人質自身には取り立てて価値は見出していない。そこまで考えると、ケイトはそのまま男を睨みつけた。
「ぜったいに、いや」
男は今度は激昂せずに、代わりに懐からナイフを出した。そうして掴んだままのケイトの髪をざくりと切り落とす。あの子が褒めてくれたマロンブラウンがはらりと舞った。一瞬で肩ほどの長さになった己の髪を横目で見ながら、ケイト・ロレーヌはゆっくりと目を瞑り、覚悟を決めた。―――この状況から導き出される答えはひとつだけ。これは、つまり。
―――つまり、端から生かして返すつもりはないということだ。




