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エリスの聖杯  作者: 常磐くじら
本編
47/171

幕間(ショシャンナ2)


 ショシャンナはため息をついた。兄が攫ってきた()()()は厄介なことに愚かではなかった。明らかな怯えを見せたのは連れて来られた最初の日だけで、翌日には思慮深い眼差しで自分の置かれた状況を懸命に見極めようとしていた。もちろんその整った顔は青褪め、手はかすかに震えていたけれど、一度だって歯向かうこともしなければ、暴れることも、泣きわめくこともない。

 ああ厄介だ、とショシャンナはもう一度大仰なため息をついた。





「ありがとう」

 ―――誰だか知らないが、おそらく少年に教育を施した人物は相当優秀だったのだろう。

 雑穀を野菜の屑と鶏の肋骨ガラからとったスープで煮込んだだけの粗末な食事を与えると、少年は青みがかった紫色の瞳をわざわざこちらに合わせて礼を言ってきた。その双眸には卑屈さも反抗心もない。全く以って、()()()な対応だ。


 人質が正しく生き延びるためには、まずは落ち着くこと。次に観察すること。そして己を物ではなく―――ひとりの人間だと思わせることが重要だ。

 とは言え、目の前の少年はまだ幼い。いくら覚えが良くても、この状況で冷静になれるのは指南した相手への絶対的な信頼があるからだ。

 少年は、さらに言葉を続けようと口を開いた。

「私の名前はユリ―――」

「あんたはただのペット」

 しかし物心つく頃から訓練を受けてきたのは、ショシャンナとて同じである。心を切り離す方法はいくらでも心得ている。


 ショシャンナは手の中で弄んでいたナイフをくるりと反転させると、少年の喉元に突きつけた。


「そして賢いペットは喋らない。わかった?」



◇◇◇



 この状況があまり良くないということにはだいぶ前から気がついていた。


 サルバドルが一体どういうつもりで攫ってきた子供をショシャンナに押しつけたのかはわからないが、兄にしては珍しくその選択は失敗だった。

 いくら訓練を受けていても、ショシャンナには太陽の入れ墨がない。厳密に言えば彼女自体はサルバドルの所有物で、組織の一員ではない。襲ってくる敵にナイフを向けることはできても、全く見知らぬ人間を害したことはこれまでなかった。しかも相手は自分よりも年下の子供である。




「……なんであんたは平気なの?」

 数日が過ぎ、先に音を上げたのはショシャンナの方だった。少年は両足に枷をつけられ鎖で繋がれ、行動の自由を奪われている。だと言うのにあまり堪えた様子もなく、毎回食事の礼を言い、隙を見てはショシャンナに話しかけてくる。正直言って理解し難い。

 少年はきょとんと目を瞬かせていたが、すぐに合点が言ったように、ああ、と頷いた。


「―――信じているから」


 力強い眼差しだった。その目を見て、ショシャンナは大切なことを忘れていたことに気がついた。このような状況で心を保つために必要なこと。それは、常に希望を捨てないことだ。口で言うのは容易いが、実際にはなかなか難しい。つまり、おそらくこの少年には、その根底に揺るぎない希望があるということなのだろう。

「信じているんだ。姉さまが、必ず助けに来てくれる」

 そう言うと少年は微笑んだ。ショシャンナが思わず言葉を失っていると、ふいに、冷たい声が落ちてきた。


「―――それはアレクサンドラ殿下のことかい?」


 はっとして振り返れば、みすぼらしい恰好をした男がひとり、壁にもたれかかって興味深そうにこちらを見ていた。


「母親が違うというのにずいぶんと懐いているんだね」

 その容貌に見覚えはない。けれど嫌と言うほど()()()()のある声に、ショシャンナはぞわりと二の腕が粟立つのを感じていた。鍵は二重にして掛けた。罠もいくつか仕込んであった。けれどあまりにも静かにその全てを潜り抜けられた。

「……クリシュナ」

 百の顔を持つと噂される男は、今日はまるで痩せぎすの浮浪者のような姿をしていた。彼の唯一の特徴である瞳の二連の黒斑は、肌が触れるほどに近づいてまじまじと観察しなければわからない。この見た目で声音まで変えられてしまったら、彼の正体を見抜ける人間はおそらく皆無と言っていいだろう。

 クリシュナはちらりと少年を一瞥すると、酷薄そうに唇を捲り上げた。

「やあ、ショシャンナ。なかなか丁重な扱いじゃないか。会話をして、手を掛けた食事を与えて―――濡れた布巾も渡しているね?君の指導係はいったい何を教えてきたのかなあ。……ああ、サルバドルは子供には手を上げない主義だっけ。彼も、こういう変な癖さえなければもっと上に行けたのに」

「なにしに、来たの」

 ショシャンナは強張った声を発した。この男は苦手だった。兄も毛嫌いしていたものだ。

 ―――クリシュナのやり方は無駄に残虐だ、と。

「ちょっと遊びに、ね?」

 そう言うと、足音も立てずに鎖で繋がれた少年へと近づいていく。

「囚われの王子さまに良いことを教えてあげなくちゃ」

 そして、身動きの取れないその耳元にそっと口を寄せると、とっておきの贈り物を渡すような口調で囁いた。

「―――君の大好きなお姉さまはね、今、本国で幽閉されているよ」

 少年の目が大きく見開かれる。

「半月後には身に覚えのない罪で火炙りだ。人気者も大変だねえ」

「うそだ!」

 それはショシャンナが初めて聞く感情的な声だった。クリシュナは満足そうに口の端を釣り上げる。

「嘘なものか。第三殿下派は王女の命を救おうと何やら画策しているようだけど、まあ無駄だろうね。あの塔は一度入ったら出られない。君も王族の端くれならよく知っているだろう?」

「うそだ……」

 先程まであれほど精彩を放っていた瞳から次第に光がなくなっていく。

「助けは来ないよ。君は、一生飼い殺しだ」

「……ケンダル、が」

「残念だけど、あの狸は君の誘拐を隠すことにしたようだ。本当に、そのことに関してだけは、こちらとしても残念で仕方がないよ。そのせいでまた計画を変更する羽目になったんだからね。僕らの()()()もこの状況には大層ご立腹だ」


 その双眸に、絶望がじわりと滲んでいく。ショシャンナは見ていられなくなって目を逸らした。


「さて、ここからが本題だ。なぜ君はアデルバイドに来た?ジェロームに毒を盛ったのは()()()だろう?……おかげさまでこちらの予定がだいぶ狂ってしまってね、正直迷惑してるんだ。だから五体満足でいたいなら吐いてもらおうか」


 とうとう少年の顔がくしゃりと歪んだ。けれどクリシュナは追及の手を緩めなかった。



「―――ケンダル・レヴァインは一体何を考えている?」



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