5-12(終)
数刻前。ランドルフは、ファリスの特使であるケンダル・レヴァインの一行に遭遇してすぐ王立憲兵総局に戻ってきていた。
「第七殿下?」
死んだ魚の目をしてメルヴィナでの一件の報告書を作成していたカイル・ヒューズは、そう言うと、怪訝そうに顔を上げる。
「ああ、どうやらファリスの使節団に紛れていたようだ。ちなみに昨日から姿が見えないらしいが何か聞いているか?」
「いや全然―――てか、なんだそりゃ」
カイルはひどく不快そうに眉を顰めて振り返ると、中央にある大理石の作業台で地図を広げていた部下の一人に向かって声を張り上げた。
「おい、トールボット!確かお前、近衛連隊の方に回ってきたファリスの要人リストの写し、持ってたよな?それちょっと貸してくれ!」
◇◇◇
渡された名簿を確認するや否や、カイルは柄悪く舌打ちをした。
「ああ、くそ、使者の一人に自分の子供を連れてきてる奴がいやがる。たぶんこれがユリシーズだ。王宮側の承認日は半月前―――となると、あちらさん計画的だぞ。いったいどういう魂胆だ?まさか観光でもさせてやろうってわけでもあるまいし」
「……断定はできないが、予想はつく」
どういうことだ、とカイルが問うような視線を寄越した。
「ファリスは、今、後継争いで揉めているだろう?」
途端、あれか、と苦々しい呟きが聞こえてくる。
―――半年前、ファリスの現王ヘンドリックが病に伏した。心の臓がとまりかけたのだ。高齢ということもあり状況は予断を許さず、一端は峠を越えたものの、当然の如く持ち上がったのは退位の話である。
「順当なら第一殿下のファビアンが王位を継ぐはずだったが、ヘンドリック王が倒れる直前に不慮の事故で命を落としている」
狐狩りの最中に突然馬が暴走し振り落とされ、首の骨を折ったのである。愛息を失った王の嘆きは大変なもので、その心痛がたたって倒れたのではないかと言われたほどだ。
「厄介なことに、第二殿下のロデリックは母親の身分が低く王宮内での地盤が弱い。事態の把握に手間取っているうちに、再び王の病状が悪化してもはや後継者を指名できる状態ではなくなってしまった。この状況に、玉座を狙えるとわかった第三以下の殿下たちが便乗し―――今に至るまで水面下での小競り合いが続いている」
ヘンドリック王には継承権を持つ子供が七人おり、第七殿下のユリシーズがその末子となる。
「今回の特使の打診は第五殿下のジェローム王子の方からあったと聞いている。名目は同盟の強化だ。国を代表して彼が来るのであれば、有力な後継者候補なのかと思っていたが―――」
「体調不良、だもんなあ。死んだっつー話は聞いてないけど、椅子取りゲームからは強制退場ってとこか」
「同じような状況に陥った第六殿下はすでに継承権を放棄したと言うから、おそらくジェロームもそうせざるを得ないだろう。まあ、生きていればの話だが」
「―――となると継承権を持っていて生き残っているのは第七殿下を含めて四人か」
いや、とランドルフは頭を振った。
「第三殿下のアレクサンドラ王女は、すでに第四殿下であるテオフィルスの手の者によって幽閉されているらしい」
「王女……?ああ、あそこの王族は男女関係ないんだっけ」
穢れなき血に拘泥するファリスは、皮肉なことに帝国の解体によって多くの貴き血を失った。生まれた王家の子に男女を問わず等しく継承権を与えるのは、やんごとなき血統を守るための苦肉の策なのだろう。
「実際に女性が玉座に就いたことはないがな。おそらく、彼女の場合は民衆の人気が高かったのが仇になったのだろう」
アレクサンドラ王女は思慮深く公正な人格者だと言われている。
カイルが低く呻いた。
「現状を見ると第四殿下が有力っぽいな。確か第二殿下はこの騒動にすっかり参って離宮に引き篭もってるんだろう?第四殿下の方は母親が大貴族だというから裏工作は得意だろうし。……で、あのハゲはどこの味方なんだ?次期王の呼び声高いテオフィルスさまに邪魔な弟を処分しろとでも言われたのかね?それとも実は大穴狙いの第七殿下派?」
「ケンダル・レヴァインの腹の内は読めないが、もともと彼はユリシーズ殿下の教師を務めていた男だ。あの取り乱し方からすると、案外純粋な保護目的だったのかも知れないな。ユリシーズ殿下の母君はソルディタ共和国の上級貴族の出身だというから、ファリスでの手駒は多くはないはずだ。アデルバイドなら自国よりも安全だと踏んだという可能性もある」
それも失敗に終わったようだが。しかし、だからと言って意図的に誘拐を隠す理由がわからない。王子を捜索するにはこちらの協力が必要なはずだ。それに、ユリシーズの同行を知らなかったとはいえアデルバイドの宮殿内で起きた不始末である。言い方は悪いが、それを手札にこちらを糾弾し、交渉を有利に進めていくこともできたはずだ。いくら動揺していたとはいえ、ケンダルがそのことに思い当たらないはずがない。
―――他に、何か理由があるのか。
いずれにせよ、情報が足りなさすぎる。一度ファリス側に事情を訊く必要があるだろう。
面会の手筈を整えようとしていると、ばたばたと慌ただしい音がして焦ったような声を掛けられた。
「あ、アルスター少佐……!」
「どうした?」
相手は受付を担当している事務方の人間だった。用件を訊ねれば、先ほどグレイル家から早馬がやってきたのだと言う。
「……グレイル家?内容は?」
「は、はい、実は―――」
告げられた内容に、ランドルフは思わず眉を顰めた。
それは、コンスタンス・グレイルが宮殿に行ったきり帰ってこない、というものだった。
◇◇◇
くふふ、と笑うアビゲイルに見送られ、コニーはランドルフと共に馬車に乗り込んだ。
気まずい沈黙が落ちる。ランドルフが淡々と口を開いた。
「……総局にグレイル家から使いが来てな。君が、帰ってこないのだと報告を受けた。調べてみれば、どうやらウォルター・ロビンソンの元へ行ったようだと分かったが―――しかしロビンソン氏を訪ねればすでに帰したと言う。それも馬車でだ。ならば、とっくに帰宅していてもおかしくはない。足取りをたどれば郊外で馬車が乗り捨てられていて、傍らには銃弾を受けた死体がひとつ。―――あれはさすがに肝が冷えたな」
コニーは両手で顔を覆った。確かにそれはとんでもない状況である。
「その後でアビーの【豊穣の館】に連れて行かれたようだとわかり、安心したが」
「……ええと、その……すみません……」
「謝る必要はない。仕方のない状況だったとは思う。ただ今度からは―――」
ランドルフはコニーに向き直ると真剣に告げた。
「―――何か行動を起こす時は、事前に連絡をくれると助かる」
「はい……」
なんだろう、気まずい。ものすごく、気まずい。
「幸い、元の御者は気絶していただけだった。手当てが済めば事情を訊ける。まあ、おそらく何も知らないだろうが」
こうして冷静になってみると、本当に危ない状況だったのだと思う。助かったのは、スカーレットが気づき、そしてあの男を威嚇して時間を稼いでくれたおかげである。そこでコニーは、はっと気がついた。
「スカーレット?」
先ほどから、彼女の気配がないのだ。そういえば【豊穣の館】でも静かだった気がする。
振り返れば、スカーレットはひどく気怠そうな表情を浮かべて、うつらうつらしていた。
「どうしたの?大丈夫?」
心配になって近寄ると、スカーレットは緩慢な動作でコニーの方に首を向けた。
『……だいじょう、ぶ、よ。ねむい、だけ。前にも、なったことあるもの。デボラの、夜会で、あの、無礼な、憲兵を追い払ったあとに。たぶん、あの力を使うと、こうなるみたい。でも、どうしてかしら、今日の方が、ねむい―――』
言いながら、ふっとその姿が消えていった。コニーは思わず息をのむ。けれど、すぐに己に言い聞かせた。大丈夫。これは彼女が一時的に休息を取るときと同じ状態だ。だから大丈夫。きっと―――大丈夫なはずだ。頭ではわかっているのに、どうしてか心臓が早鐘を打った。
ほどなくして馬車は屋敷に到着した。辺りはとうに闇に沈み込んでいる。外灯はあるが頼りなく、先に降りたランドルフがコニーの手を取ってくれた。
「―――ランドルフ」
ふいに背後から声を掛けられ、ぎくりとコニーの肩が跳ね上がった。振り返れば、闇に溶け込むようにして佇む男性の姿がある。顔立ちははっきりしないが、その声はまだ若い。
「カイルか。……すまない、同僚だ」
ランドルフがコニーに詫びる。カイルと呼ばれた青年はがしがしと頭を掻いた。
「待ち伏せするようなことして悪かったな。急ぎで知らせたいことがあったんだよ。―――調べろと言われた死体だが、うなじに太陽の入れ墨があった。間違いない、【暁の鶏】だ」
―――太陽の、入れ墨?
「わかった。すぐに戻る―――グレイル嬢?」
コニーは額に手を当てながらうんうんと唸り声を上げていた。
「どうした?」
「いえ……太陽の入れ墨、という言葉が、なにか、引っ掛かって……」
「見たことがあるのか?」
ランドルフの視線が険しくなる。
―――ある、気がする。けれど、どこで見たのかが思い出せない。もどかしい。スカーレットがいたらすぐにわかるのに。きっと、ばかコニー、と唇を尖らせながら教えてくれる。
その瞬間、ふいにひとつの情景が蘇ってきた。
「……あの人だ」
薔薇色のドレスを着ていた、ひどく蠱惑的な女性。
「例の仮面舞踏会で倒れていた女性です。あの人の胸元にも太陽の入れ墨がありました。今言っていたのと同じものかはわからないけど……」
「―――ちょい待って。これ?」
カイルが胸元から皺くちゃの紙を取り出した。空いた手で器用にマッチを擦ると、ぼんやりとした明かりとともに図柄が浮かび上がる。それを見て、コニーは頷いた。
「……おなじ、です」
「そうか。―――あの、クソ無能」
今度会ったら撃ち殺す、という物騒な言葉を吐き捨てると、カイルは「捜査資料を確認したいから総局に戻る」と言って、さっさと踵を返していった。嵐のような人である。
残されたコニーは、あ、と声を上げた。言い忘れたことがあったのだ。
「たぶん、その人、スカーレットの知り合いだと思うんです」
ランドルフはしばし逡巡すると、ゆっくりと首を振った。
「おそらく、それは……ないだろう。共通点がない」
「でもスカーレットは彼女のことを知っていました。呼んだんです、ジェーンって。それに、懐かしがっていて―――」
―――あら、ジェーンだわ。懐かしい。
スカーレットはあの女性を見て、確かにそう言ったのだ。
その瞬間、ランドルフが顔色を変えた。
「本当か?」
鋭い目つきで詰め寄られて思わず後退る。
「は、はい……」
「そこにスカーレットはいるか?」
コニーはふるふると首を横に振った。
「どうかしたんですか?」
「……倒れた女性から、甘い匂いがしなかったか?」
「え?」
その問いには即答できず、コニーはゆっくりと記憶をたどっていった。ジョン・ドゥ伯爵の夜会。確かあの時は、広間の壁際で軽食を摘まんでいた。ジェーンという女性は最初から視界にいたわけではない。なら、どうして印象に残ったのか。そこでようやく思い出した。
―――匂いだ。
匂いが、したからだ。甘ったるい、香水のような。
コニーが肯定すると、ランドルフは目を細めた。
「―――ジャッカルの楽園だ」
はっとコニーは顔を上げた。
凍えるように冷たい声が、夜の静寂を裂いていく。
「聞いたことはないか?十年前に禁止された幻覚剤だ。通称J。一部の人間の間では、ジェーン、と呼ばれていた」
◇◇◇
『ジェーン?ああ、それなら、エルダバイド宮殿に向かう馬車の中で言おうとしたのよ。ほら、その直前に全身ピンクのキンバリー・スミスがジャッカルの楽園の話題を出したでしょう。わたくし、ジェーンが禁止になっているなんて知らなかったんだもの。教えてあげようと思ったんだけど、王宮に到着してしまったからそのままになっていたわねえ』
翌日、スカーレットは見事なまでに復活していた。コニーの方は、急に消えてしまったスカーレットのことが心配でろくに眠れなかったと言うのに、気楽なものである。
『ちなみに、あの薔薇色のドレスの女は見たこともないわよ』
「さよか……」
がっくりと肩を落としていると、マルタがやってきて意外な来客の名を告げた。コニーは思わず目を見開く。聞こえなかったと思ったのか、マルタがもう一度繰り返した。
ケイトさまがいらっしゃっています、と。
―――コニーに愛想を尽かしたはずのケイト・ロレーヌは、どことなく強張った表情を浮かべていた。その様子に、仲直りの話ではないことだけはわかる。
「……昨日の夜、グレイル家から使いが来たの。コニーがまだ帰ってこないけど、何か知らないかって」
あまりにコニーの帰りが遅いから、ランドルフだけでなく親交のあるロレーヌ家にも声を掛けたのだろう。
思わず黙り込んでしまったコニーに、ケイトが覚悟を決めたように口を開いた。
「……ねえ、コニー。あなた、いったい、何をしているの?危険なことなの?そんなこと、もうやめてよ……!」
今にも泣き出しそうな声に、表情に、コニーの心がぐらりと揺らいだ。
「どうして、なにも、話してくれないの……!」
けれど、やはり事情を伝えることはできなかった。言えば、ケイトは協力しようとしてくる。ぜったいに。
「……ごめんね、ケイト」
「どうしてっ」
ケイトが叫んだ。悲痛な声に胸が張り裂けそうだ。
「―――ごめん」
それでもコニーはケイトを突き放した。ケイトが信じられないものを見るような顔でコニーを見る。コニーはぎゅっと唇を噛みしめて、それでもきっぱりと言い切った。
「話がそれだけなら、もう、帰って」
その日の夕刻のことだった。
「……お嬢さま」
マルタの声は若干の緊張を孕んでいた。
「先ほど、ロレーヌ家から連絡がありまして。その……ケイトさまが、お戻りになっていないようです」
「え……?」
日はすでに暮れかけている。ケイトが帰ったのは昼前だ。それは、見送りをしたマルタが一番わかっているのだろう。彼女は不安そうな表情を浮かべていた。
いったい、どうしたというのだろう。別れが別れだったために、コニーは居ても立っても居られず、外に飛び出した。中庭を通り抜け、正門まで歩いていく。そのまま通りに出ようとして、ふと足を止めた。
門の手前に、麻紐で縛られた小包が落ちている。まるで、誰かが門の向こう側からぽんと放り投げたようなぞんざいさだった。両手ほどの大きさのそれに消印はない。宛名も。
『―――なにかしら』
スカーレットが呟いた。ひどく嫌な予感がした。
誰にも何も言わず部屋に入ると、震える指で紐をほどく。包みを開いたその瞬間、
「――――――っ」
どくり、と心臓が跳ね上がった。
中に入っていたのは、マロンブラウンの、髪の束。
コニーの大好きな、ふわふわの―――
何が起こっているのかわからなかった。どくどくと心臓が脈打っている。髪の上には繊細な装飾が施された招待状が乗せられていた。
そこに書かれていた文字を、真っ白になった頭で何度も何度も読み直して、やっと意味がつながった。
要約すれば、明後日の正午にベルナディアの湖畔に一人で来い、という内容である。脅迫めいた言葉で誰にも言うな、と書かれている。
そして、もしこの約束を違えれば―――
次は指を送りつけるぞ、と。