5-3
セシリア・アデルバイド。下級貴族の身でありながら、数々の波乱を乗り越え、王太子であるエンリケと結ばれた、おそらくこの国で最も有名な王族のひとりだ。二人の結婚式では、寄り添う姿を一目見ようと国中の人間がこぞって王都に集まったという。婚姻前はリュゼ子爵令嬢で、病弱のためデビュタント前まではほとんど領地から出たことがなかった。そして、初めて参加した王都での夜会でエンリケ殿下と出会い、お互い一目で恋に落ちたと言われている。しかし、同時にそれは悲劇の始まりでもあった。なぜなら、当時、エンリケには婚約者がいたからだ。圧倒的な美貌と血統を持つスカーレット・カスティエルが。その後のことは言うまでもない。
セシリアは慈愛の妃としても有名だ。その心根はまっすぐで、庶民だろうと差別することはない。孤児院や病院の支援を積極的に行い、自ら炊き出しに赴くこともあるという。一部では聖女アナスタシアの再来とまで言われているらしい。
◇◇◇
「……うむ」
エンリケは凍りついた空気を何とかしようと恐る恐る妻に声をかけた。
「セシリアよ、それはあまり褒めていないのではないだろうか」
「うん、だって別に褒めてないし」
「……そ、そうか」
「そうだよ」
セシリアはあっさりと肩を竦めると、再びコニーに向き直った。
「ねえ、コニーって呼んでもいい?」
薔薇色の瞳を輝かせてこちらを覗き込んで来る。近い。無駄に近い。
「も、もちろんです、妃殿下」
わずかに仰け反りながら、こくこくと頷いた。
「じゃあ、あたしのことはセスって呼んでね」
「は!?いえ、その、それはちょっと畏れ多いというか……」
「なんで?あたしだって元はコニーと同じ子爵の出だよ?」
そんな無茶な。心からの叫びに常識的な反応を返してくれたのはエンリケ殿下だった。
「無茶を言うな、セシリア」
「ちぇっ」
「舌打ちはいかんぞ、セシリア」
「はーい」
王太子妃はエンリケに背を向けるとそのまま小さく舌を出した。コニーは見なかった振りをした。
セシリアは人形のように愛らしい顔をにっこりと綻ばせる。
「あたしね、ランディのこと心配してたの。やーっと結婚したと思ったら今度はリリィがあんなことになっちゃったでしょう?だから砂糖菓子みたいに可愛い子がお嫁さんになってくれて嬉しいんだ。今度一緒にお茶でもしようね。―――ああそうだ、来週の祈りの日は空いている?」
さり気なく多方面に毒を吐かれたような気がするが、それよりも、最後にさらりと告げられた突然の誘いの方に面食らった。
「へっ!?」
「……妃殿下、お戯れを」
「ランディには聞いてないよ。ねえ、コニー?」
ランドルフの制止を一蹴すると、セシリアはコニーの手をぎゅっと握りしめた。絹の手袋越しにも関わらず、その掌は思わず肩が飛び上がるほどひやりとしている。
「ねえ、いいでしょう?」
妃殿下は、にこにこと愛らしく微笑んでいた。それだけ、なのに。
「は、はい……」
どうしようもない威圧感を感じてコニーは頷いていた。そもそもコニーよりはるかに上の身分の貴人からの誘いである。書簡で来たのならまだしも、対面で断れるほどコニーの面の皮は厚くない。
「よかった!じゃあ後で使い送るねー!」
「―――妃殿下」
聴こえてきたのは、地を這うように低い声だった。眉間に刻また皺は海溝の如く深く、その顔には堂々と不愉快だと書いてある。閣下こわい超こわい。あんな形相を向けられたら、普通の人は泣いてしまうのではなかろうか。少なくともコニーだったら泣く。号泣する。万一王太子妃を泣かせでもしたらさすがの閣下でも不敬罪になってしまうかも知れない。心配になってセシリアをちらりと窺う。
けれどセシリアは「わあ怖い顔」と呟くと、おどけたように顔を歪めただけだった。コニーは思わずぱちくりと目を瞬かせる。
「ねえ、ランドルフ・アルスター」
その愛らしい唇から出てきたのは、氷のように冷たい声だ。
「あのね。わざわざあたしが外せない公務が入っている日を指定するなんて、やっぱり少し、意地悪だったと思うのよ。そうすればこの場に来れないとでも思ったのかしら?いちいちやることがえげつないんだから。まあ確かに、今回ばかりはさすがに骨が折れたわね。だからちょっと腹立たしいけど―――」
無邪気さはいつの間にか鳴りを潜め、ひどく淡々とした口調でセシリアは告げた。
「―――でも、珍しくあんたの嫌がる顔が見られたから痛み分けね?」
淡く色づいた花びらのような口元が弧を描いていく。けれど柔らかく細められた瞳は、おそらく最初から、ちっとも笑っていなかった。その事実にコニーは初めて気がついて、そのままぴしりと固まった。気のせいか、どこぞの閣下の辺りからひやりとした冷気が漂ってきた、ような。
「―――わたくし」
動揺していたコニーは、一瞬、その声の主がわからなかった。この張り詰めた空気をものともしない、凪いだ海のように穏やかな声だ。一拍おいてから、それが目の前の王太子妃が発したものなのだと気がついた。
「殿下には申し上げたのですが、これより緑の間で南方からの賓客を出迎える手筈になっておりますの。今日は無理を言って時間を取らせてもらいましたが、ご挨拶も済みましたのでそろそろお暇させて頂きますわね。けれど、どうかこのセシリアを、礼を弁えぬ無作法者などと思わないでくださいませ。たとえ瞬きほどの逢瀬でも御二方にお目にかかれて光栄でございました。わたくしとて、このような振舞いは本意ではないのです。わかって、くださいますでしょう?」
最初の頃の明け透けな―――やや子供じみた態度とは打って変わり、わずかに憂い帯びた表情と、申し訳なさが滲む真摯な口調は、まさに貞淑さと気品を兼ね備えた貴婦人そのものだった。
「――――それでは皆さま、ご機嫌よう」
そうして感情を一切見せない高貴な微笑を浮かべると、セシリアは謁見の間を後にした。
「というわけだ。お前たちも楽にしてくれ。ランドルフもいつも通りで構わない」
玉座の腕に膝を置き、頬杖をついた王子が気楽な口調で告げる。
「……相変わらず人を食ったような女だ」
そう言ってランドルフが眉を顰めたので、エンリケは苦笑した。
「私に免じて見逃してやってくれ。あれで意外と可愛いところもあるんだぞ」
「俺が見逃がしたところで何の解決にもならないと思うが。あの性格では敵が多いだろう」
「まあな。ただ俺たちには子がいないから返って助かっているよ。そもそもあの時、継承権を取り上げられなかったのが間違っていたんだ。このままジョアン派が勢いをつけてくれればいいんだが」
ジョアン・アデルバイドは現王の第二子であり、エンリケとは二つ違いの弟君である。そちらもすでに成婚していて、確か、子のいない王太子夫妻とは異なり、男児が生まれていた、はずだ。
―――何だか聞いてはいけないことを聞いてしまった気がしてコニーは身を竦めた。
「それより、これからファリスの使者が来る」
赤紫色の双眸が冷たく眇められた。ランドルフが「ああ」と頷く。
「要人警護の要請が近衛連隊の方に来ていたな。しかし、これから?確か予定では―――」
「そうだ。本当は昨晩のうちに到着しているはずだった。……そろそろ陽も昇りきる刻限だと言うのに、奴ら謝罪の一つも寄越してこない。それどころか急ぐ素振りも、遅れた理由も口にしないときた。大方歴史の浅いアデルバイドなど、未だ偉大なるファリスの属国なのだという認識なのだろうよ。時代錯誤も甚だしい。あいつらは、いつも傲慢だ」
エンリケの顔が不快そうに歪んだ。
「同盟の強化などと言っているが、どうせまた金の無心に決まっている。立派なのは歴史と見かけだけで、その内実は火の車だという噂だからな」
◇◇◇
かっぽかっぽと馬車に揺られながら、向かい合ったランドルフが口を開いた。
「一言でいえば―――」
「はい」
「セシリアは、根性が捻じ曲がっている」
それは、うん、察した。己の目の節穴っぷりとともに。コニーは重々しく頷いた。
「スカーレットのこともあるから会いたいだろうとは思ったが、どうせ真実など語らないだろうし、こちらの判断で避けることにした。正直現れるかは半々だとは思ってはいたが、予想より多くの鼠を飼っていたようだな」
小さく嘆息する。
「まあ性格に問題はあるが、公の場では王族と遜色のない振る舞いができる。もちろん子爵の出ということで風当たりは強いが、それを気に病むような殊勝な性格もしていない。貶められたらやり返すこともあるだろうが、それでも今のところ大きな醜聞は起こしていないんだ。つまり、セシリアはあの顔を使い分けているということだ。―――あれがあの態度を出すときは大抵何か理由がある、と俺は思っている」
そこで一端、ランドルフは言葉を切った。真面目な表情でコニーをじっと見つめる。
「考えすぎかもしれないが、心にとめておいてくれ」
「ねえスカーレット」
自室に戻ったコニーはふと浮かんできた疑問をぶつけてみた。
「なんでセシリア妃のことを嫌ったの?」
確かにセシリア・アデルバイドはコニーが思い描いていたような聖女ではなかった。けれど哀しいかな、そういう展開にもそろそろ耐性がついてきた。よく考えてみれば、スカーレットの周りには掃いて棄てるほどいそうな性格である。それなのに、わざわざセシリアを目の敵にした理由とはなんだったのだろう?状況的に痴情の縺れという線もあるが、少なくとも今日のスカーレットは、セシリアとエンリケの仲に嫉妬しているような様子はなかった。
『あら違うわよ。逆よ』
スカーレットが何でもないことのように答えたのでコニーは首を傾げた。
「逆?」
『そうよ。あの女の方が最初にわたくしのことを嫌ってきたのよ。なら迎え撃つのは当然の権利でしょう?』
なるほど、セシリアの方が先に恋敵に嫉妬したということか。納得しかけたその時、またもや意外な言葉がスカーレットの口から飛び出てきた。
『と言っても、特別わたくしだけを嫌っていたのではなかったけどね。……ああでも、嫌う、とは少し違うかしら』
「うん?」
『気づかなかった?さっきだって、へらへら笑いながら視界に入る人間すべてに敵意を向けていたじゃない。十年前もそうだったわよ。にしたって、エンリケもお間抜けさんよねえ。まだ嫌われているなんて』
「敵意……?」
頭を捻る。あったのだろうか。正直よくわからない。わかるのは、あの薔薇色の瞳の奥が、凍えるように冷たいものだったということだけだ。
『今はだいぶ隠せるようになっているみたいだけど。最初に会った時はもっとひどかったわよ。どうして誰も気づかないのかと不思議に思ったくらいだもの。……あの目は、何と言ったらいいのかしら。そうね、強いて言うなら―――』
しばらく考えを巡らせていたが、やがて、ああ、と納得したように呟いた。
『―――憎悪』




