3-7(終)
パーシヴァル=レイリは、その日、朝から不貞腐れていた。目覚めたら両親は領地に戻ったと告げられ、理由を訊ねても誰も教えてくれない。レイリだけが仲間外れなのだ。こんなの誠実じゃない。
剣の鍛錬を行うために従者のシドと中庭に向かっている途中だった。くすぶっていた不満が、突然、決壊した。
―――屋敷の者が教えてくれないなら、屋敷の外で訊けばいい。
ふいに、そう思い立ったのだ。
「……部屋に忘れ物をしたみたいだ。ちょっと先に行って準備をしておいてくれる?」
普段から聞き分けが良く模範的なレイリの言葉をシドは疑わなかった。
そしてレイリは部屋に戻ることなくそのまま屋敷を飛び出した。
◇◇◇
「……レイリが部屋に閉じこもっている?」
コニーは首を傾げた。シドは真っ青な顔で申し訳ありません、と頭を垂れた。
「その前にお屋敷を抜け出されたのです。すぐに気づき追いかけましたが……外の者と話をしているようでしたので、もしかしたら領地の話をお聞きになったのかも知れません。私のせいです。なんなりと処罰を―――」
「いえ、だって、勝手に出て行ったのはレイリでしょう?」
「お部屋に戻ると言われた際に、私もついていけば良かったのです。そうすべきでした。まだ幼いあの方から目を離すべきではなかったのです」
シドは引かなかった。事態の責任を感じているようだった。困り果てたコニーは処分については父が帰ってきたら任せるから今は保留で―――と告げてレイリの部屋へと向かった。
「―――レイリ、入るわよ」
いくらノックをしても返事がないので、一声かけてそのまま扉をあける。
パーシヴァル=レイリは、寝台の上で膝を抱え頭から毛布をかぶっていた。コニーの声にも反応がない。
その姿は、ひどく怯えているようだった。やはり何か聞いてしまったのか。
安心させるように腕に手を置くと、びくり、と小さな肩が震えた。驚かせたのだろうか。コニーは目を瞬かせた。けれど何かがおかしい。違う、驚いたのではない。今のは―――。コニーは表情を消して強引にレイリの手首を取った。レイリがはっきりと抵抗する。けれど所詮は子供の力だ。そのままぐいっと袖を捲れば痛みを堪えるような小さな悲鳴が上がった。コニーは息をとめた。
その白く細い腕には―――誰かに強く掴まれたような赤黒い痣が、あった。
レイリは怯えたようにぎゅっと身を縮こませる。
「……きゅうに、声をかけられて」
突然、目尻に傷のある男がレイリの腕を捩じり上げると、こう捲し立ててきたのだと言う。
―――金を返せないというのなら領民にも罰を与えてやるぞ。一夜ごとに爪の皮を剥ぎ、目玉をくりぬき、鼻を削ぎ落としてやる。すべては借金を返せないお前たちの―――お前のせいだ。
なんてことを。すっと冷たいものが臓腑に落ちてくる。こんな幼い子になんてことをするのだ。それは瞬く間に熱を帯び、怒りと悲しみと遣る瀬無さがごちゃまぜになった熱い塊となって鳩尾当たりをぐるぐると旋回する。
「……だいじょぶ、ですよね?誠実にしていれば、きっと、だいじょうぶ、ですよね?」
「―――もちろんじゃないの」
コニーは胸を張って答えた。
「大丈夫よ、レイリ。大丈夫に決まってる。それにあなたは―――ちっとも悪くないんだから」
その台詞に安堵したのかレイリがしゃくりを上げた。コニーはその幼い体を抱き寄せて、柔らかい巻き毛を優しく撫でてやった。何度も、何度も。そうだ、弟はこれっぽっちも悪くない。
悪いのはその男だし、その男を雇った高利貸しだし、さらに言えばせっかくの返済の目途をグラン・メリル=アンでぶち壊したパメラだし、ニールだし―――コニーだった。
けれどそもそもパーシヴァル=エセルが借金さえ背負いこまなければこんなことにはならなかったはずで、その元凶となった自称友人に関しては言わずもがなだ。
グレイルだから仕方ないと誰も表立っては責めたりしないが、はっきり言ってエセルは馬鹿である。救いようのない粗忽者で、大馬鹿者である。
けれど、救いようのない人間なんてこの世にいくらでもいるのだ。スカーレット・カスティエルだってそうだろう。彼女はひどい悪女で、十年ぶりに夜会での粛清を正当化し、善良な孤児院の人々を騙し、侯爵家で盗みを働いた。コニーは被害者だった。巻き込まれただけだった。仕方がなかったのだ。だってコニーはいつだって誠実であろうとしたのだから。
―――ほら、こうやって、誠実という言葉は実に見事にコニーの心を守ってくれる。
けれど果たしてコニーは本当に誠実だったのだろうか?都合の悪い事実に蓋をして、被害者面をして逃げていただけではないのだろうか?
そして、その選択が今日の事態を引き起こしたのではないのだろうか?
◇◇◇
無言のまま自室に戻ると、スカーレットが声を掛けてきた。
『あら、てっきりぴいぴい泣き出すのかと思ったわ』
今までだったらそうしていたかもしれない。無力な自分を嘆き、ままならない状況を嘆いて。けれど、コニーがいくら泣いたってレイリの腕は腫れたままだし、乱暴された領民の傷は癒えないし、エセルが抱えてしまった借金が減ることはないのだ。
能天気なコニーは、そんな当たり前なことにも今まで気づいていなかった。
君が招いたことだ、と誰かの声が何度も浮かんでは沈んでいく。コニーはぐっと唇を噛んだ。
そうだ。その通りだ。スカーレットではない。スカーレットだけのせいではない。確かに始まりは彼女だったかもしれないが、その後の行動はコニーが選択したことだ。心の中でどれだけ言い訳を並べても、他でもないコニー自身がそれが正しい行いではないと知っていたのだ。
コニーはゆっくりと息を吐いた。自分が今、どんな表情をしているかなんてわからない。けれどその顔を見たスカーレットの唇がひどく愉しそうに歪んでいる。
―――だって。
だって、気づいてしまったのだ。父の誠実さは残酷だと。今回のように結果として多くの人間が不利益を被る事態になったとしても、父の中にある誠実という物差しはきっと揺るがないのだと。目の前で助けを求める人がいればエセルはまた同じような行動を取る。コニーには確信があった。それはおそらく父としても領主としても正しいとは言えないけれど、少なくともパーシヴァル=エセルという人間にとっては正しいのだろう。だってこんな状況になっても尚、彼は誠実という言葉を―――言い訳に使うことだけはなかった。
パーシヴァル=エセル・グレイルはおそらく誰よりも誠実で、誰よりも残酷で、そして誰よりも自分本位だった。エセルの誠実はコニーたちを救わない。それが悔しくて、腹立たしくて、少しだけ羨ましい。コニーには無理だった。コニーにとっての誠実とはそうではなかった。たやすく言い訳になるものだった。だから初代パーシヴァル・グレイルに謝罪する。ごめんなさい、と。
でも、もう、あなたには誓えない。
だってコニーには守りたいものがある。守りたい人たちがいる。そのためには何だってする―――してやる。悪女にだってなってやる。咎を負う覚悟は今できた。罰が下されるならそれでもいい。だから――――
『それで、どうするの?』
スカーレットがいつもと変わらぬ軽い調子でコニーに問う。答えはすでに決まっていた。
「―――カスティエル家に」
その日、コンスタンス・グレイルは己の中の誠実という盾を捨てた。
活動報告にて拍手のお返事をさせて頂きました。




