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「カスティエル家に、忍び込む?」
ジョン・ドゥとは名無しという意味だ、とスカーレットは教えてくれた。そして【ジョン・ドゥ伯爵の夜会】というのは、彼女がデビュタントを迎えるずっと前から続く、主催者不明の仮面舞踏会のことである―――と。
◇◇◇
『中茎七節は旧ファリスの古語で、十七日という意味よ。つまり一週間後ね。だから急いで実家に忍び込まないと』
コンスタンス・グレイルは当たり前のように告げられた言葉を懸命に咀嚼しようと試みたが、それでも喉元に引っかかる小骨のようなものが取り切れず、もう一度訊ねてみることにした。
「……カスティエル家?」
今の話の、どこをどうしたらカスティエル公爵家につながるのだろうか。
首を捻っていると、スカーレットが呆れたように嘆息する。
『お前、ちゃんと人の話を聞いていた?身元を隠して集う仮面舞踏会なのよ?―――肝心の仮面を持っているの?』
もちろん、持っているはずもなかった。ついでに言うなら今の今まで必要に迫られたこともなかった。そんな心の声が顔にでも出ていたのだろうか、スカーレットがコニーを小馬鹿にするようにふんと鼻を鳴らす。
『そうでしょう?だから、わたくしのものを使えばいいのよ。……しょ、しょうがないから特別に貸してあげてもよくてよ!光栄に思いなさい!』
「ええっ!いらな、じゃなくて別にわざわざ忍び込まなくたって―――」
『新しいものを買えばいいっていうの?おばかね。お前は知らないでしょうけど、たぶんお前の想像よりもずっと値が張るものよ』
確かにそれは借金のある身に難しい。コニーは言葉に詰まった。
それに、とスカーレットは続けた。仮面で素性を隠しているとはいえ、その正体については暗黙の了解であることが多いという。有名であればあるほどその傾向は顕著で、それが美貌で名を馳せたスカーレット・カスティエルであれば尚更である。マナーとして口にしないだけで、おそらくその場にいたほとんどの者が気づいていたはずだ。彼女はジョン・ドゥ伯爵の夜会の常連客だった。だから、スカーレットが愛用していた仮面をつけていれば当時の事情を知る者が声をかけてくるかもしれない―――と。
納得はできたが、実行できるかはまた別の話だ。スカーレットにとってはちょっと実家に戻って荷物を取ってくるという感覚なのだろうが、コニーにしてみればただの住居不法侵入ならびに窃盗である。
コニーは答えをひとまず保留にすることにして、話題を変えた。
「ゴードウィン夫人は、本当に何も知らなかったんでしょうか」
『たぶんね』
スカーレットはあっさりと肯定した。
『ああ見えてあの子は気が小さいから、いつも引き際だけは見事だったの。十年前のことだって、危険を感じれば真実が近づいてきてもさっさと逃げたでしょうね。それに、もともとたいして賢くないもの。目の前に情報が落ちていたって見逃している可能性もあるわ』
「じゃあ、この夜会の意味……は?」
『さすがにきっと何か真実を知っている人間がいる、ということくらいはわかっていたはずよ。情報を集めるにはジョン・ドゥ伯爵の夜会はうってつけだもの。あそこにいるのは、昔から神を神とも思わぬ下種だらけだから』
つまり機会を与えてやるからもう纏わりつくなという意味でしょうね―――そこまで告げるとスカーレットはいったん言葉をとめた。それから、珍しく無邪気な笑顔を見せる。
『それに、これはお前にとっても良い機会よ、コンスタンス!』
「良い機会、ですか?」
『そう、借金返済の良い機会。当てがあると言ったでしょう』
確かに復讐を手伝えと要求してきた日にスカーレットは言っていた。
―――助ける方法がないわけではなくてよ。
つまり、とコニーは考えを巡らせる。つまり、ジョン・ドゥ伯爵の夜会は、出会いのないコニーにとって絶好のお見合いの場になる―――ということだろうか。
だがしかし。
「お互い仮面をつけたままで交流が温まるとは……」
どうしたらいいのだろうと腕を組み真剣に悩んでいると、スカーレットが呆れたように眉を寄せた。
『ばかね。誰が婚約者候補を探せと言ったの?いいこと、わざわざ仮面をつけて踊りに来ている連中なんて大抵なにかしら秘密があるに決まっているわ。男も女も関係ない。誰でもいいから弱みを見つけ出して、そいつを脅してお金を巻き上げてしまえばいいのよ』
◇◇◇
しとしとと雨が降っている。
オイルランプの灯りは先ほど消した。寝台から見上げた天井には闇が広がり、雨音だけがまるで責め立てるように体に響く。
スカーレットの姿は見えない。最近、スカーレットは、眠れるようになったのだそうだ。もちろん本当に寝ているわけではない。ただ生前のように目を閉じて眠ろうと思っていると、ふっと意識がなくなるのらしい。そうすると不思議なことにコニーからは彼女の姿は見えなくなった。消えた、というわけではないようだが。
―――これが、君の招いたことだ。
ふいに闇の中からランドルフ・アルスターの声が聞こえてきた。目を閉じれば、ゴードウィン邸での惨状が蘇ってくる。様々な目がコニーを見ていた。恐怖、不安、愉悦。そして―――悪意。
―――脅して、お金を巻き上げてしまえばいいのよ。
もしかしたらスカーレット・カスティエルは噂よりも悪い人間ではないのかも知れない。けれど、決して善良ではない。善悪の捉え方が、根本的にコニーとは違う。
雨はやまない。コニーは組んだ手を目元に押しつけ吐息をこぼした。
◇◇◇
どうしても寝つけなくて、温めたミルクでも飲もうと厨房へと続く西階段を降りる。すると燭台に明かりが灯っていることに気がついた。何だか慌ただしい。怪訝に思って音のする方に近づいていく。
「父さま……?」
広間にいたのは身支度を整えたパーシヴァル=エセルだった。その傍らには動きやすそうな恰好をした母の姿も。いったい何事だ?
声に気づいた父がこちらに視線を寄越した。コニーか、と告げた表情はどことなく険しいものだ。
「急だが、グレイル領に戻ることになった。アリアも一緒だ。お前はレイリと共にここに残っていてくれ」
「こんな、夜更けに……?」
しかも外は雨である。するとエセルは、ああ、と頷くと、まるで何でもないことのように言葉を続けた。
「―――今しがた早馬が来てな。高利貸しの奴ら、どうやら返済の目途がなくなったことに焦っているらしい。期日はまだ先なんだがな。ここ数日、領民に恫喝などの嫌がらせをしていたようだ。今日は抵抗した若者が暴行されたらしい。幸いすぐに周囲の者が加勢して軽傷で済んだらしいが」
そこで一端、言葉が途切れる。わずかに歪められた双眸に浮かぶのは苦痛の色だ。
「―――殴るなら、私を殴ればいいのにな。罵るなら好きなだけ私を罵ればいいのに。どうして彼らはそうしないのだろう。そうしてくれた方がどれほど良かったか。しかし、それでは意味がないのだろうな。実際問題こうしたやり口が一番堪えるのだから困ったものだ」
そう言ったきり黙り込んでしまったエセルを、アリアがそっと抱きしめた。
ほどなくして父の従者がやって来て、支度が整ったと告げる。
父の固くて大きな手が、コニーの頬を優しく撫でた。
「レイリを、頼む」




