3-1
―――エリスの聖杯を破壊しろ。
穏やかでない言葉だった。
けれど、そもそもエリスの聖杯とは一体―――?
コニーには皆目見当もつかなかった。もしや印字されている文字の方に秘密があるのではと思い目を凝らしたが、紙の切れ端にはこの国の気候や風土が書いてあるだけだ。おそらく市庁舎が観光客用に向けて作製した小冊子か何かなのだろう。もちろん、どこにでもあるものだ。
「なんのことか、わかりますか?」
『さっぱりね』
スカーレットは肩を竦めた。
『でもエリスというのはファリス神話における不和と争いの女神のことよ。ひとつの国を滅亡に追い込んだとされる邪神。ちなみにわたくしが夜遊びする時の偽名でもあったわ』
何でもないようにさらりと告げているが、コニーの耳はしっかりと最後の一文を拾い上げた。なにそれ似合い過ぎていて怖い。
コニーたちの暮らすアデルバイドという国は、かつて大陸を丸呑みにしかけたと言われる巨大な侵略国家―――大ファリス帝国の一領だった。それが千年ほど前に乱世のどさくさに紛れて独立し、東部に位置していたことから東ファリス公国として存在するようになったのだ。その後、帝国の弱体化を機に建国の祖である大公アマデウスが新王を名乗り、国名をアデルバイドと改めた。今より数百年ほど前のできごとである。ちなみに初代パーシヴァル・グレイルが活躍したのもこの辺りだ。そのため言語はもちろん、文化や風習も、今は亡き大帝国に由来していることが多い。ファリス神話もそのひとつだった。
『そして聖杯は、おそらく伝承上の国土に繁栄と祝福をもたらすとされる神の御業のひとつね。元々は癒しの力を持った豊穣の器だったと言われているわ』
滅亡と繁栄。争いと癒し。それだけだと、まるで両極端な性質を持った二つに思える。
「つまり……悪い女神さまが、祝福を持ってきてくれるってことでしょうか?」
しかしそれを破壊せよとはこれ如何に。
スカーレットは眉を寄せて考え込んだ。けれど答えは出なかったようだ。ふう、と諦めたようにため息をつく。
『鍵の方はどうなの?』
コニーは力なく首を振った。手のひらの上には飾りひとつないシンプルな突起つきの鍵。円環の部分にはP10E3という鍵の複製に必要な型番を示す番号が刻印されていたが、肝心の工房を示す紋章がなかった。これではどこの金庫の鍵なのか、はたまたそれが倉庫なのかすら探ることができない。八方塞がりだった。
「普通に考えれば」
コニーは腕を組みながら慎重に言葉を選んでいった。
「この鍵の先に、エリスの聖杯、というものがあって、たぶん、それを壊すんじゃないかと思うんです」
普通ならば、そうだ。けれど。
『そうね。でも残念なことにあの女は―――普通じゃないのよね』
全く以ってその通りだったので、コニーはとうとう頭を抱え込んだ。
◇◇◇
頭を使いすぎて熱が出そうだ。いやすでに出ている気がする。
疲労もあったのだろうが、目覚めた時にはすでに昼過ぎだった。日差しが染みる。思わず額に手を当てたが全くの平熱だった。解せぬ。
仕方がないので居間に降りて熱い紅茶を啜っていると、俄かに使用人たちが慌ただしくなった。どうやら急な来客があったらしい。しばらくしてからやってきたのはマルタだ。なぜか鬼のような形相を浮かべており、ただでさえ恰幅の良い体が威圧感でぱんぱんに膨らんでいる。
「どうしたの、マルタ。お父様がまたとんでもなく誠実なことをしでかした時みたいな顔してるけど」
「実は、来客がありまして」
それは知っている。そこでコニーの中で疑問が生まれた。なぜマルタはコニーのもとにやってきたのだ?来客は―――誰だ?何だか嫌な予感がした。急激に口内が干上がっていくのを感じて、いったん落ち着こうとカップの縁に口をつける。
「―――ニール・ブロンソンさまがいらっしゃっておりますが」
その言葉に、コニーは含んでいた紅茶を思い切り噴き出した。マルタが横からさっとハンカチを差し出してくれる。
「ニール!?」
濡れた襟元を拭いながら悲鳴を上げた。
「はい。お嬢様に謝罪したい、と。いかがいたしましょうか。あの厚顔無恥のクソ小僧をとっとと叩き出しますか?ぶん殴りますか?それともちょん切ってやりますか?」
「選択肢がひどい!」
とはいえ、さすがに会うのは気が進まない。だいたい、今さらどんな顔をして会えばいいのか。謝罪だって別に欲しくない。謝られたって、彼の不貞を知る前には戻れないのだ。
よし、断ろう。そう思って口を開くと、コニーの声を遮るように意外な言葉が降ってきた。
『あらいいじゃない、会いなさいよ』
まるで旧友に挨拶でもしに行けというような軽い口ぶりである。
(ええ!?)
思わず非難の眼差しを向けるが、もちろんスカーレットがコニーの視線くらいで怯むはずもない。
『だって、お前まだあの浮気男のことを気にしているでしょう?だったら一度きちんと話すべきね。そうしないと気持ちの整理がつかないわよ』
「ぐぬぬ」
意外に真っ当なことを言われてしまい、返す言葉もない。スカーレットはさらに続けた。
『―――それにね。さっきクローゼットを見たけれど、もうすぐエミリアの夜会だっていうのに、まともなドレスひとつないじゃないの。ブロンソン商会って服飾も取り扱っているんでしょう?ちょうどいい機会だから、慰謝料代わりにニール・ブロンソンからぶんどってやりなさい』