夢で逢えたら(前編)
なーなーと何かを訴えるような、かぼそい声がする。
コニーはまるでぬいぐるみのような子猫をそっと持ち上げると、ぬるま湯で濡らした手ぬぐいで優しく毛を拭いた。灰色だと思っていた毛並みは汚れていただけだったらしく、雪のように白い毛が現れる。おそらく短毛種だろう。瞳は灰がかった青だが、子供なのでまだわからない。
一通り拭き終わると人肌に温めたミルクをティースプーンで掬い、小さな口元へと持っていく。
と、そこでスカーレットが呆れたような声を出した。
『――で? 脅迫状はどうでもいいわけ?』
例の脅迫状は封を切られた状態でテーブルの上に置かれたままだった。ちなみに指の傷はすでに塞がっている。
もちろんどうでもいいというわけではないのだが、どうしたものかと考えている最中に子猫が空腹を訴えたので、ついそちらにかかり切りになってしまったというわけである。
「いや、その、こんなことを言ったらちょっとあれかもしれないんだけどね――」
子猫は小さな舌でペロペロと一生懸命に匙を舐めている。その愛らしい仕草に心臓を撃ち抜かれながら、コニーはぼそっと呟いた。
「何かこう、文字も手書きで筆跡ばればれだし、文面もどこからか持ってきたみたいに胡散臭いし、それに刺し殺すっていうのもいかにも嘘っぽいというか……」
こう見えて、コンスタンス・グレイルという人間はそこそこ危険な目に遭ってきている。自慢じゃないが脅迫状だってこれまで何度も送られている。なので、それが実力行使も厭わない本気の脅しなのか、それともただの嫌がらせの延長なのか程度の判断はつくのだ。
『まあ、確かに頭が悪いわよね。おそらく薔薇十字通りで問題を起こしてたっていう探偵事務所の仕業だと思うけど』
スカーレットがつまらなそうに肩を竦めた。
そんな会話をしていると、控え目に応接間の扉がノックされた。軽い気持ちで「どうぞー」と告げれば、セバスチャンが救急箱を持って現れる。
「指のお怪我はどうですか? 屋敷から切り傷に効く膏薬を持って来させたのですが……」
どうやら指の傷を気にしてくれているらしい。コニーは目を丸くすると、すぐに首を横に振った。
「いえ、本当にちょこっと切っただけなんです。傷口もちゃんと洗いましたし、血も出ていないので」
「それでも痕が残るといけませんから」
そう言うと、コニーをソファに座らせる。
改めてまじまじと指を見ると、右手の人差し指の腹に赤い横線が入っていた。触らなければ痛みはないし、血もすでにとまっている。
とはいえ、白い膏薬を塗られるとぴりりとした刺激が走った。
思わず、う、と顔を顰めていると、セバスチャンが痛ましそうな表情を浮かべる。
その顔になぜかコニーの方が心苦しくなり、慌てて口を開いた。
「や、やっぱりあの脅迫状ってアビー様が言っていた薔薇十字通りにある他の探偵事務所の仕業なんでしょうか?」
「ええ、おそらく」
セバスチャンが重々しく頷いた。
「現時点で疑わしいのは二か所ですね。ロイヤル・クラウン探偵事務所と、レイブン調査局です」
「ろ、ロイヤル……」
『いかにも頭の悪い奴らが考えそうな名前ね』
スカーレットがぴしゃりと告げる。
いや、別に名前に罪はないような――。
そう返したかったのだが、セバスチャンの手前、上手く伝えられそうになかった。なのでその話題は一旦諦め、話題を変える。
「あまりよくないことをやっていると聞いたのですが」
「主に脅迫や詐欺ですね。最近は大人しくしていたみたいですが」
その言葉にコニーの眉が寄る。
「そんなことをしているのに、どうしてまだ捕まらないんでしょうか」
「捜査中なのかもしれませんが、そもそも今までは泣き寝入りする方が多かったみたいですね」
犯罪として立証するには、まず被害を訴えることが必要不可欠である。しかし、そういった詐欺事件の場合、被害者は、被害を受けた自分自身を責めることも多々あるらしい。
「そんな……」
コニーは愕然とした声を上げた。
どう考えても悪いのは犯罪者である。なのに泣き寝入りだなんて――
セバスチャンが言うには、事態を重く見たアビゲイルが本気で情報を集めて被害書を見つけ出し、事情を聞きつつ被害者に寄り添い、自発的に憲兵局に相談するようにうまく誘導しているのだという。さすがセバスチャンの主人にして薔薇十字通りの元締である。
「それと、この事務所の存在も大きいのですよ。我々が活躍すればするほど自分の受けた仕打ちが異常だったと気づく方が増えるんです」
穏やかな眼差しに、コニーはわずかに目を見開くと、困ったように眉を寄せた。
――そんなことを言われたら、がんばるしかないではないか。
『でも、目障りなことには変わりなくてよ』
しかし、感傷に浸る間もなくスカーレットが身も蓋もない口調でそう告げる。
『放っておいても捕まるかもしれないけれど、どうせなら潰せる時に潰しておきたいわよね。もちろん、なるべく自分の手で。だってその方が気分がいいもの。――というわけでコンスタンス。ペンと紙を用意しなさい』
突然の命令にコニーはぱちくりと瞬きをする。一瞬迷ったものの、スカーレットの笑顔の圧に推され、困惑しながらもセバスチャンに用意を頼む。
スカーレットが指示するままに文面を書きつければ、さほど時間もかからず二組の封筒が出来上がった。
「これを送ればよろしいのですか?」
セバスチャンの問いかけにコニーはこくりと頷いた。宛先は例のふたつの探偵事務所にしてある。
様々な疑問が浮かんでいるだろうにも関わらず、セバスチャンはにっこりと微笑むと、特に質問することなくそのまま了承してくれた。
「では、ついでに小さな王子様も連れて行きましょう」
そう言いながら子猫を抱き上げ、ちょうど手頃な大きさの籠に放り込む。
コニーが驚いて「へ?」と目を見開けば、「この籠も膏薬と一緒に届けてもらったんですよ」と笑う。
「え、ええと、猫ちゃんをどこに……?」
「獣医ですよ。通りに一軒あるんです。見たところ大丈夫そうですが、万が一ということもあるので」
その瞬間、子猫が満足そうにニャーと鳴く。さすがセバスチャン。百点満点の気遣いである。
〇
セバスチャンが事務所を出て半刻ほどが過ぎた頃。
事務所の玄関の鐘がからころんと鳴った。
慌てて出向けば、黒い外套に黒のシルクハットを被ったすらりとした長身の男が立っている。
年の頃はおそらく四十代だろうか。いかにも貴族然とした出で立ちだ。繊細な輪郭に、すっきりとした鼻梁。くっきりと輝く灰緑の瞳。柔らかそうな金色の髪に、顔はあくまでも小さく手足はすらりと長い。
渋さよりも甘さの残る、滅多にお目にかかれないような光り輝く美貌の主がそこにいた。
「――なんだ、ここは。客に茶も出さないのか」
長い足を組みながらソファに腰掛けた男は、女神のように麗しい相貌からは考えられないほどの傲岸不遜な口調でそう言った。
そのことにたいして驚きを覚えないのは、きっと前例をよく知っているからだろう。ちなみに具体的には紫水晶の瞳を持つ某幽霊や、その父兄のことなのだが。
「す、すぐにご用意します……!」
「いらん。別にまずい茶を飲みに来たわけではないからな」
ふん、と男は鼻を鳴らした。しかし、そんな態度をしていても圧倒的に顔面がいい。
男は、名をガブリエル・サマセットと言った。
やはり貴族で、それも侯爵家の嫡男であるということだった。
「それで、あなたがコンスタンス・グレイルか? 優秀な探偵だと聞いていたが、だいぶ想像と違うな」
「え? ええと、それはすみません……?」
コニーの返答にガブリエルは眉を寄せ、まあ別に構わないが、と独り言ちる。
「用件はひとつだ」
長い足を優雅に組み直し、男は、やはり傲慢な口調でこう言った。
「――ストーカーを捕まえて欲しい」
コニーは思わずぱちぱちと目を瞬かせた。
「……ストーカー、ですか?」
「そうだ。私は見ての通りの美貌だからな。よく変な虫が湧くんだ」
確かに性格はさておき、外見だけ見れば天界の彫刻のように美しい。
「被害が私だけであればまだ我慢できたんだが、ストーカーのやつ、とうとうマーガレットにまで手を出してきてな」
「……マーガレット様、ですか?」
突然出てきた名前にコニーは首を傾げる。
「ああ。……あの子が姿を消してからもう一月になる。愚かな世話人が目を離さなければ拐かされることなどなかったのに……」
ガブルエルはそう低い声で呟くと、ぎゅっと手を握りしめた。
何だか急に話の先行きが物騒になってきて、コニーは思わず口を開いた。
「す、すみません、マーガレット様というのは――?」
「私が面倒をみている子だ」
なるほど、とコニーは頷いた。
「そういうことなら、まず憲兵にご相談された方がいいのでは……?」
「とっくに連絡しているに決まっているだろう。なのに、あいつらときたら手がかりひとつ見つけられないんだ。あの無能どもめ……!」
火がついたような怒りに何と返していいかわからず固まっていると、ガブリエルはさらに話を続けた。
「今思えば、随分前から狙われていたに違いない。屋敷に何者かが侵入した形跡があったからな。決まって私の就寝中だ。それも一度や二度ではない。……頻度的にはそうだな、月に1、2回はあったと思う。二年ほど前からだ」
「侵入……!? ええと、その、形跡というのは具体的にはどんなものなんです?」
「……それが、何とも微妙なものばかりでな。庭の花の一部が刈り取られていたり、部屋が荒らされていたり。たまに金もなくなっていたようだが、たいした額ではなかったので気にしなかったが」
「というより、それ、屋敷の人たちは気づかなかったんですか……?」
途端にガブリエルは苦虫を噛み潰したような表情になった。
「……もちろん気づかないはずがないと思うが、皆、言葉を濁すだけだった。大方責任を取りたくないのだろう」
「そ、そんなことが……?」
「ああ。あれはわざと見逃したに違いない。きっとそのストーカーは相当身分が高い人物なんだろう。もしかすると王族に連なる者なのかもしれない。しかも、許せないことにマーガレットのことも夜中に連れ回していたんだ。朝起きたらあの子の可愛い足に泥がついていて――」
「……その、犯人に心当たりは?」
ガブルエルは小さく首を振った。
すると、スカーレットがあまり興味がなさそうな声でこう告げる。
『いくつの子だかしらないけれど、単に夜遊びでもしていたんじゃなくて?』
コニーはハッと顔を上げた。
「ガブリエル様、マーガレット様のご年齢は?」
「今年で三歳だ」
「さんさい」
予想外の言葉に思わず固まる。
コニーはしばらく硬直してから、ごほん、と咳払いをした。
「……で、でしたら、背格好や、髪型など教えていただけますか?」
「実は姿絵を持って来ている」
そう言ってどこか得意気に取り出したのは、四つ折りにされた一枚の絵だった。
「私とマーガレットだ。うちの絵師の習作なんだが、特徴をよく捉えているので気に入っていて色をつけさせた」
主な主線は墨で、あとは水彩絵具でざっくりと色付けしてあるだけだ。けれどそれだけでも充分雰囲気が伝わってくる。
嬉しそうなガブリエルだったが、ふいに声の調子を落とした。
「……うちの子は可愛くて、行儀が良くて、少しだけ悪戯好きで、本当に誰からも愛される太陽のような子だったんだ」
悲壮な面持ちでそう告げる。
それは確かに心配な話なのだが、コニーはそれよりも姿絵の中のマーガレットが気になっていた。
「金に糸目はつけない。どうかあの子を見つけてくれ――」
なるほど、確かにマーガレットは愛らしかった。
澄ましたような表情は異国の姫君のような気品と無邪気さが共存している。
しかし、これはどう見ても――
硬直しているコニーの手元を覗き込んだスカーレットがぼそりと告げた。
『――猫ね』