はじめての依頼人(中編)
「隣の家に、幽霊が出るんです」
そう言うと、クロエは再びそっと目を伏せた。
その表情はどことなく不安そうで、とても嘘をついているようには見えない。
コニーはごくりと唾を飲み込むと、「ゆ、幽霊、ですか?」と訊ねた。
「……はい。あれは、確か、先月の嵐の日のことでした」
クロエは記憶を確かめるようにゆっくりと語り出した。
「その日はなぜか夜中に目が覚めたんです。起きてすぐに、寒いな、と思ったのを覚えています。空気が随分ひんやりしていて、そこで初めて寝室の窓が開いていることに気がつきました。おかしいな、とは思ったんです。窓は、いつも寝る前に閉めるようにしていたので。疑問には思いましたが、思い違いもあるかもしれないとその時はあまり深く考えなくて。それで、窓を閉めようと思って近づくと、隣家の庭に人魂のようなものが浮いているのが見えたんです」
「ひとだま……!?」
「……の、ようなものです。ごめんなさい。実は、はっきりとは見ていないんです。何だろうと目を凝らした瞬間、窓の外から断末魔のような悲鳴が聞こえてきて――」
「ひ」
「恐ろしくなって、その日はすぐに窓を閉めてそのままベッドに戻りました。でも、やっぱり次の日も夜中に目が覚めて。さすがに窓は空いていなかったんですけれど、外を確認してみたら、また隣の家の庭に炎のようなものが浮かんでいて……」
「ひえ」
「それからは夜中に目が覚めても窓には近寄らないようにしていたんです。でも先日、何だか胸騒ぎがして外を確認してみたら――」
「みたら……?」
「人魂が、家に近づいてきたんです。私、驚いてしまって。声を上げることすらできなくて」
クロエが呆然と立ち尽くしていると、玄関を叩く音がしたそうだ。それは、まるで恨みつらみを込めるようなひどく激しいものだったらしい。
そこでやっと隣で寝ていた夫が目を覚ましたという。
「半分寝ぼけている主人に玄関を見に行ってもらいました。でも、外には誰もいなかったそうです。そしたら、その次の日――」
クロエは唇を噛みしめた。握りしめた拳がかすかに震えている。
「――玄関の扉に赤い手形がくっきりとついていたんです」
コニーは思わず息を呑み込んだ。なにそれこわい。
「主人によればペンキの類ではなく、おそらく血だろうと」
コニーは大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。
「お、お話はわかりました」
居住まいを正し、しっかりとクロエの目を見る。
「ですが、いたずらという可能性もあるのでは? どうして幽霊だと?」
「それは……」
クロエはわずかに躊躇うような素振りを見せたが、けっきょく、そのまま言葉を続けた。
「――全部、ミセス・コリンズが死んでから起きているので」
「ミセス・コリンズ?」
「ひと月ほど前に亡くなった隣家の方です」
その瞬間、コニーはぎょっとしたように顔を引き攣らせた。
「え? ま、まさか殺され――」
「あ、いえ、お医者様は風邪をこじらせたんだろうと。もともとお年だったので……」
ほっと胸を撫で下ろす。さすがに殺人事件となると話が変わってくる。
「昨年の夏に流行り病にかかってからずっと調子がよくなくて」
「親しくされていたんですか?」
「いいえ、嫌われていました」
コニーはぱちくりと瞬きをした。
クロエはどこか後悔混じりの笑顔を浮かべて、こう言った。
「ミセス・コリンズは、人嫌いで、偏屈で、とっても気難しい方だったんです」
〇
一体どうしてこんなことまで話しているんだろう、とクロエは内心苦笑していた。
不眠が続くクロエをみかね、「探偵事務所に相談したらどうだろうか」と提案してきたのは夫だった。もちろん最近夢中になっている小説の影響だろうということはすぐにわかった。
少し鈍いところのある夫は、滅多なことでは起きないため、クロエのように実際に人魂を見たり恐ろしい悲鳴を聞いたりしているわけではない。唯一目にした玄関の手形に関しても、性質の悪い悪戯だと考えているらしかった。
憲兵に相談しようと言われて、躊躇したのはクロエの方だ。別に体が傷つけられたわけでも、物が壊されたわけでもない。はたして憲兵に届けるようなことなのだろうか――と悩んでしまったのだ。
そんなクロエを見て、夫は探偵事務所という提案をしたのだろう。けれど、現実には小説のような名探偵などいるはずもない。むしろ流行に乗って主張し始めた探偵事務所など怪しさが勝つ。
そんなことをやんわりと伝えれば、新聞に広告が出ているんだぞ、と笑われてしまった。
お金を出せばいくらだって嘘をつけるでしょう、と言いたいところをぐっと堪える。喧嘩になるのは目に見えていたし、それに、クロエ自身いい加減限界だったのだ。
新聞に記載された住所はいわゆる歓楽街だった。当然警戒したけれど、想像とは違い、【薔薇十字通り】は明るく清潔で人通りが多かった。驚いたことに日用品や服屋、それにお洒落なカフェやレストランまであるようだ。あまり健全ではないお店は、通りの奥か一般人の目につかない裏路地にあるのだという。
目的の建物はどこにでもあるような外観だった。扉を開ければすぐに涼やかな鐘が鳴り、品のいい老人がやってきた。優しい笑みと穏やかな口調に警戒心が解ける。そうして案内された部屋にいたのは、名探偵とは程遠い、どこにでもいるような、ひどく平凡な少女だった。
やはり騙されたのだ。
落胆したものの、思いのほか善良そうな少女を前に、なぜか気がついた時には悩みを相談してしまっていた。理由は自分でもよくわからない。でも、きっと少女の持つまっすぐな雰囲気がそうさせたのだと思う。
「――人嫌い?」
コンスタンス、と名乗った少女はぱちくりと若草色の瞳を瞬かせた。
「はい。表に出ないといけない時は、わざわざ代理人を立てていたほどです。彼女の家はあの辺りでも有数の資産家だったので、お金絡みで嫌な経験をされたのかもしれません」
「今、ミス・コリンズの家には今誰が?」
「……誰も。あの人は、ずっとひとりで生活していたので。おそらく今は代理人の方が色々な手続きをしている最中だと思います」
そう告げると、少女は、ううーん、と悩むように首を捻った。
「なら、もしかしたら物盗りでは? 人魂ではなく、灯りを持った人間だったのかも」
「私もそう思って、最初に人魂を見た次の日に隣家まで確認に行ったんです。でも門には鍵がかかったままでした。念のため家の方にも行ってみたんですけど、特にこじ開けたような形跡はなくて。さすがに家の中までは見なかったんですけど、物盗りだったら無理矢理侵入した形跡があるものでしょう?」
すると少女は不思議そうな表情を浮かべた。
「つまり、あなたは合鍵を持っていたということですか?」
「……はい。ミセス・コリンズは親族とも縁を切っていたので、何かあった時のために預かっていました」
「他に合鍵を持っている方は?」
「先ほど言った代理人の方だけです。あの人は屋敷の管理も任されていたので」
「管理?」
「ミセス・コリンズは人嫌いで使用人を一切雇っていないかったんです。でも、さすがに毎日屋敷中を掃除したり、町まで食料品を買いに行くのは大変でしょう? だから、そういうことはぜんぶ代理人の方が手配していたんですよ」
「ええと、その人は、ミセス・コリンズとは親しかったんですか?」
「いえ、あくまで仕事上のつき合いだったと思います」
クロエは実際に二人の会話を聞いたことがあったが、あくまでも決められたことだけを確認するだけの間柄のようだった。
少女は、なるほど、と呟くと、ふいに視線を虚空に向けた。
しばらくそうしていると――なぜか口元も動いているような気がしたがきっと気のせいだろう――すっと視線を正面に戻す。
「ミセス・コリンズはご結婚を?」
「……されていました。でも、旦那様は若い頃に事故で亡くなってしまったと聞いています」
「お子さんは?」
クロエは首を振った。
また少女の視線が虚空に向かう。先ほどから何度か目にする奇妙な仕草だが、癖なのだろうか。
こんなことを言うと失礼なのかもしれないが――正直、ちょっと怖い。
「親族と縁を切っていたというのは?」
「亡くなられたご主人は孤児院の出で、名家のご息女だったミス・コリンズとは駆け落ち同然だったそうです。でも、早くにご主人が亡くなられてしまって。けっきょく、半ば強引に実家の方に呼び戻されたみたいです。それからすぐに流行り病で肉親を次々と亡くされてしまって……。一応王都に甥御さんがいるらしいんですが、色々あって十年ほど前に絶縁したと」
「絶縁までするということは、原因はお金か犯罪絡みですか?」
「どちらもです。何度諫めても違法賭博に大金をつぎ込んでは借金を重ねていたとか」
コンスタンスはまたもや何もない宙をじっと見つめた。さすがに気になり、クロエも同じ方向に視線を向ける。が、もちろんそこには何も存在しない。一体何なのだろうか。
さらに耳を傾けるような仕草をしながら、時折ひどく驚いたり、不可解そうに首を傾げている。
少女は最終的に小さく頷くと、クロエの方を向き直った。
「――なるほど。わかりました」
そう言うと、クロエをじっと見つめる。
「ターナーさん。犯人は幽霊ではありません」
「……え?」
幽霊では、ない?
予想外の言葉に戸惑っていると、少女――コンスタンス・グレイルは、若草色の瞳をまっすぐ向けてこう言った。
「これは十中八九、人間の仕業です」
思ったより長くなってしまったので後編は明日更新しますね(小声)