誰がために鐘は鳴る
りん、ごん、と聖マルクの鐘が鳴る。王都の端から端まで響くような――勿論実際にはそんなことはあり得ないのだが――荘厳な音は、太陽の道筋を辿るように日に三度、教会の聖職者の手によって鳴らされる。それは、かつては祈りの時間を知らせるためのものだったという。
役所に書類を提出するためにサンマルクス広場を歩いていたコンスタンス・グレイルは、空から降ってくる鐘の音に気づくとおもむろに立ち止まった。
そのままじっと耳を傾けていると、スカーレットが怪訝そうに眉を寄せ、『コニー?』とこちらを覗き込んでくる。
コニーは困ったように苦笑した。
「……この鐘の音、ずっと苦手だったの」
どうしても思い出してしまうのだ。二の腕が粟立つような異様な熱気と、耳を塞ぎたくなるようなおぞましい怒号と罵声。あっという間に始まった悲劇は目も逸らすこともできないうちに落雷とともに終わりを告げた。まだコニーが何も知らない子供だった頃の出来事だ。けれど、あの息もできないほどの恐怖を今もまだ鮮明に覚えている。
『ふうん』
スカーレットは宝石のように美しく、また温度のない瞳で、遠くに霞む鐘楼を一瞥した。それからどうでもよさそうに肩を竦める。
『ただの鐘よ』
「……そうだね」
スカーレットがそう言うのであればきっとそうなのだろう。けれど、それでもコニーはずっと忘れないのだと思う。ここで、ひとりの罪なき少女が処刑されたことを。
わあっと歓声が聞こえてきてコニーは釣られるように視線をそちらに向けた。英雄アマデウス像と聖女アナスタシアの像の間――かつて処刑台のあった場所を子供たちが笑いながら走り回っている。
サンマルクス広場は美しく、長閑で、そして静かだった。この場所はいつだってその身に起きた惨劇を決して語ろうとしない。石碑も、献花台も、言葉すらも何もない。幼い頃のコニーもここで遊ぶことが好きだった。けれど、コニーが知らないだけで、きっと今までだって多くの血が流れてきたのだろう。
目の前の子供たちが、スカーレットの最期を知らず、無邪気に笑い合っているように。
急に目の前が暗くなるような気がした。
くらり、と眩暈を感じていると、スカーレットが大仰に溜息をつく。
『何を想像しているのか知らないけれど、ご大層な石碑を建てられて祈られるなんてまっぴらよ』
「――え?」
『当たり前でしょう? 何を祈るというの? わたくしが安らかにいられるように? それこそ余計なお世話ね。 赤の他人に憐れまれるだなんて冗談じゃなくてよ。そもそもわたくしはね、祈りなんて必要ないの。よく覚えておきなさい、コンスタンス・グレイル。この世で困った時の神頼みとかいうものほどくだらないものはなくってよ。そんな暇があるのなら、わたくしは最後まで自分の足で前に進むもの』
コニーは若草色の瞳をきょとんと瞬かせた。そして気づく。これはもしや、と。
もしや、自分は今――あのスカーレット・カスティエルに慰められているのではないだろうか。
思わずまじまじと見つめていると、『なによ』と思い切り不愉快そうな顔を返された。
聖マルク鐘楼は、東ファリス公国がアデルバイドと名を改めてから程なくして、当時の国王であるエンディエル王の命によって建設された。表向きは教会への寄進だったが、実際には急速に力をつけ始めたマルクランド地区の商業組合を牽制するためのものだった――というのが現在の通説である。
けれど、結果的にエンディエル王の目論見は失敗に終わっている。商業組合は三度の鐘の音を《三女神の声》と名づけると、壮麗な音が城下に響く度にこぞって三女神への祈りを示した。初めのうちは戸惑っていた民衆もその行動に共感していき、教会をも味方につけて、最終的に王は疎んじていた商業組合の功績を自らの口で讃えることになったのだ。
またそれだけでなく、組合の先導によりマルクランド地区の中心部はオルスレインと呼ばれるようになった。これは聖典に記されている三女神の声を地上まで運ぶ使者の名である。その後オルスレインは王都となり、現在に至るまでその名は変わっていない。
聖マルク鐘楼に、天からの使者の名を冠した王都。このふたつによって教会の権威はさらに高まることになった。そして、三女神の威光に隠れるように商業組合の台頭も見逃された。そのため組合と教会は最初から手を組んでいたのではないかとも言われている。
もちろん、今となっては真実など知る由もないが。
「ねえスカーレット、知ってる? 聖マルクの鐘って、昔は邂逅の鐘とも呼ばれていたんだって」
教えてくれたのはハームズワースだ。聖マルク鐘楼はずいぶん長い間――もしかすると今でさえも――天上と地上とを繋ぐ象徴だったという。
即ち、鐘の音を介して女神と人間が出会うのだと。
『……それが、どうかして?』
胡乱な目つきを寄越すスカーレットに、コニーはよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべた。
「いや実はね、その話を聞いたらなんだかすっかり苦手じゃなくなっちゃって――」
もしかしたら本当にそうなのではないかと思ってしまったのだ。
だって、コニーとスカーレットは聖マルクの鐘の音が響く空の下で出会ったのだから。
きっとあの鐘の音は、祝福でもあったのだ。
するとスカーレットは、うっかり紅茶に砂糖と塩を入れ間違えてしまったような、何とも言えない奇妙な表情を浮かべた。彼女はその得体の知れない味の『なにか』を呑み込もうとするように何度か目を瞬かせていたが、最終的にひどく嫌そうに顔を顰めた。
『…………あっそう』
けれど、艶やかな黒髪からわずかにのぞいた耳朶はほんのりと赤い――ような、気がする。コニーが思わず頬をにやにやと緩めていると、目敏く気づいたスカーレットが眦を吊り上げた。
『しまりのない顔ね! パッとしない顔がさらに崩れていてよ……!』
コニーはとうとう堪え切れずに吹き出した。
わずかに肩を震わせながら、吐息をこぼすように口を開く。
「ねえ、スカーレット」
言いながら、空を見上げた。
そこには抜けるような青い世界が広がっている。
「私は要領は悪いし、間は抜けてるし、考えなしだし、きっとまだまだ迷惑をかけちゃうと思うけど――」
降り注ぐ陽の眩しさに、コニーはそっと目を細める。
「これからも、よろしくね」
やっと出会えた相手に向かってにかっと笑えば、スカーレットはふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
ふたりの頭上では、聖マルクの鐘が今日も高らかに鳴っていた。
というわけでそろそろ3巻が発売するんですって(小声)
後日談がエンリケで終わるのもちょっとあれかなと思ったので3巻発売前に駆け込みで更新することにしました(エンリケの扱いがひどい件)
あと一足先に献本を頂いたのですが夕薙先生の表紙が本当に美しすぎてもはや直視できないレベルなので全人類ぜひ手に取って頂きたいしたぶんクレオパトラも裸足で逃げ出す。