それは真昼に見る夢のような
3巻の書き下ろしで本編の後日談を書かせて頂いたのですが、エンリケという存在をうっかりまるっと忘れていたのでむしろ最初からここで書くつもりだったんだよというアピールのためだけの話になります(真顔)
また、いつもの夢を見ているのだとすぐにわかった。
グリーンフィールズの古城で、ひとりの少年が今にも泣きだしそうなひどい形相で体を震わせている。まだ成長途中の小さな身体は烈しい感情に耐え切れず、悲鳴のような声を絞り出した。
「――スカーレットなんて、だいきらいだ!」
それは、くだらない嫉妬だった。その頃のエンリケは幼くて、そして、どうしようもなく愚かだったのだ。
思い返してみれば、物心ついた時にはすでに、二本足で立つより寝台に沈んでいる時間の方が長かった気がする。まともに育つかもわからない王子の優先順位が低いのは当然で、蔑ろにされることには慣れていた。きっとあの時、教師に褒められたのが彼女以外だったらエンリケはやり過ごすことができただろう。どうでもいい人間であれば、いつものように、醜い感情に蓋をすることができたはずだ。
けれど、スカーレットはエンリケにとって生まれて初めてできた友人で、初めて対等だと思えた相手だった。ともに笑い、同じ景色を見て、時に軽口を叩き合った。その居心地の良さに寄りかかってしまっていたから、あの瞬間まるで手ひどく裏切られたような――自分ひとりだけ置き去りにされてしまったような絶望的な気持ちになったのだ。
そして、そんなひとりよがりの自尊心のせいでエンリケとスカーレットの道は分かれてしまった。永遠に。
だからエンリケは今日も譫言のように繰り返す。
スカーレット、ごめん。ごめんなさい。
〇
ぱちん、と頬に手を当てられエンリケの意識は浮上した。瞼をうっすらと開けると、その拍子に涙が零れた。ぼんやりとした視界が徐々に鮮明になる。まず最初に天井が見えた。見慣れた太陽と月の絵が描かれているので、ここは己の寝室に間違いないだろう。
霞がかったような思考が段々としっかりとしたものになっていく。
コンスタンス・グレイルの処刑未遂事件以降、エンリケ含め当事者たちは諸々の雑務に追われていた。終わりが見えてきたのはつい最近のことだ。これでやっとひと段落つきそうだと思った途端、一気に疲れが回ってきた。確か、そのまま自分は倒れたはずだ。寝込んでからどのくらい日が経ったのだろうか。まだ寝ぼけているのか、はっきりとは思い出せない。
エンリケは、そっと己の頬を擦った。小気味のいい音がした割に痛みは感じない。夢だから当然だ。何だかひりつくような気がするのはおそらく――錯覚だろう。けれど、それが現実ではないにせよ「叩かれた」という衝撃は大きかった。何せ、エンリケは蝶よ花よと育てられた箱入りの王太子である。生まれてこの方、暴力など受けたことがない。
気を落ち着かせるために水でも飲もうかと視線を寝台脇のサイドテーブルに移す。すると、ひとりの少女がこちらを見下ろしていることに気がついた。ぎょっとして目を見開く。
「――寝ているのに泣いて許しを請うだなんて、エンリケにしては上出来じゃない。病人だから少しだけ手加減してあげたけれど一応引っ叩いたし、今なら許して差し上げてもよろしくてよ?」
榛の髪に若草色の瞳の少女は、なぜかひどく既視感のある傲慢な笑みを浮かべていた。
これはおそらく、まだ夢の中なのだろう。
エンリケはそう結論づけた。そうでないとおかしい。夢だから、コンスタンス・グレイルがスカーレットになっているのだ。
「なんというか、奇妙な夢だな……」
ぽつりと呟くと、むっとした様子の少女に眉間を人差し指でぐりぐりと押される。夢だというのになかなか容赦のない力だった。思わず悲鳴が零れる。
「いたたたたた」
「何をごちゃごちゃ言っているのよ。わたくしが許すと言っているのだから、お前は大人しく許されていればいいのよ」
(――――ああ)
エンリケは泣きたいような、笑いたいような、どうしようもない気持ちになってくしゃりと顔を歪めた。
本当に、これはなんてひどい夢なのだろう。
よほど見るに堪えない表情を浮かべていたのか、少女が怪訝そうに眉を寄せる。
「なによ」
「……いや。きっとまた、リリィが怒るな、と」
スカーレットは若草色の瞳を瞬かせると、愉快そうに口の端を吊り上げた。
「お前に? それとも、わたくしに?」
「…………たぶん、ふたりとも」
――迂闊なエンリケも、傲慢なスカーレットも。
きっと、どちらも叱られるに違いない。リリィは心底呆れたように溜息をついて、それから、少しだけ眉を下げて笑うのだろう。
あの頃のように。
突き刺すような胸の痛みには気づかない振りをしながら、それにしても、とエンリケは首を捻った。
それにしても、今日の夢は一体どうしたことだろう。
普段見るのはもっと違う夢だ。夢の中のエンリケはいつだって幼くて、そして、現実よりも少しだけ丈夫だった。走っても平気な体は彼女に大嫌いだと無責任に叫んだまま倒れたりはしなかった。あの暴言がただの八つ当たりだと気づいて、きちんと謝りにも行けた。けれど、いくら夢の中とはいえ、相手はあのスカーレットである。初めのうちはいくら謝っても取り合ってすらくれない。困り果てていると、いつの間にかリリィがやってきてエンリケに向かってお茶目に片目を瞑ってみせる。まるで、在りし日の延長線上のように。
貴族たるもの相手を許す度量を持つべきで云々というリリィの諫言にスカーレットが応酬し、それはいつしかふたりの喧嘩に取って代わり、スカーレットは不貞腐れながらもまたエンリケの名を呼ぶ。彼女は子分を従える兄貴分のようにエンリケの手を取り、外へと連れ出してくれる。晴れた日には庭でおやつを食べて、街を訪れては人の多さに目を見張り、雨の日には城内の図書室で本を読む。
そうして夏が終わる頃、ふたりが王都へと戻る前に、エンリケはこっそり約束してもらうのだ。
来年の夏も、その次も、こうして一緒に過ごしてくれないかと。
――ぜんぶ、夢の話だ。
ふいに熱い塊が咽喉を塞いだ。俯いた拍子に何かが溢れて頬を伝う。何という体たらくだろう。エンリケは己を恥じた。
こんな咎人が人並みに傷ついて泣くだなんて許されるわけがないのに。
「ああもう……!」
夢の中のスカーレットが、とうとう我慢の限界だと言わんばかりに苛立った声を上げた。
「お前は本当に昔から王族としての自覚が足りなくってよ……!」
「うん」
「甘ったれで、自尊心が高くて、そのくせ変なところで卑屈で」
「うん」
「頭はよくないし、迂闊だし、頭に血が昇ると周りが見えなくなるし」
「うん」
「そんなだからすぐに相手の手のひらで踊らされるのよ」
「……うん」
「でも――許してあげるんだから感謝なさい」
その言葉の意味が理解できずに、エンリケはゆっくりと顔を上げた。
涙のせいで薄く膜が張った視界の中で、コンスタンス・グレイルの姿をしたスカーレットが何とも言えないしかめっ面を浮かべている。
彼女はエンリケと目が合うと、「だって、お前がおバカでうっかりなのは昔からなんだもの」とどこか不貞腐れたように言った。
ぽかんと口を開けたまま呆けていると、突然両頬をつままれ、思い切り左右に引き伸ばされる。
「い゛っ……!?」
「お返事は?」
「いだだだだだだ」
くぐもった悲鳴を上げながら、この痛みが現実であればいいのに、とエンリケは思った。
本当に、スカーレットがここにいてくれればいいのに。
けれどこれは夢だった。現実ではありえなかった。だからエンリケは沈黙を選ぶ。
返事をしたら、きっとこの幸せな時間は終わってしまうだろうから。
叶うなら、もうこの夢から目覚めたくなかった。どうしても目覚めないといけないのなら、グリーンフィールズがいい。あそこは素晴らしい場所なのだ。城内の両端には森があって、よく三人で探検をした。知らない花を摘み、木の実を拾い、そうして細い水路を見つけると、スカーレットは「疲れたから涼むことにするわ」といつものように傲慢な口調で宣言して、そのまま靴を脱ぎ捨て裸足になった。陽に透けてしまいそうなほど白い足が露になってエンリケはその場に凍りつき、リリィが「スカーレット!」と叫ぶ。けれど彼女はまるきり気にした様子もなく、ドレスの裾をたくし上げながら澄んだ水に足をつけた。それから呆気に取られるエンリケに向かって足で掬った水を飛ばしてくる。頬にわずかにかかった水は思いのほか冷たかった。驚いた顔がおかしかったのか、スカーレットは珍しく弾けるような笑い声を上げた。リリィがいい加減にしろとスカーレットを叱りつける。太陽の光を映した飛沫はきらきらと輝いていて、それは、どんな宝石よりも美しく――
ぱちり、と瞼が開く。天井が見える。見覚えのある月と太陽の絵。やわらかな寝台。それから――
「……コンスタンス・グレイルか」
不安そうにこちらを覗き込んでいるのは、榛の髪に若草色の瞳の少女だった。
「お、お加減はいかがですか、殿下」
少女はエンリケと目が合うと、恐る恐ると言った口調で訊ねてくる。傍らにはランドルフ・アルスターもいた。そうだった、とエンリケは思い出す。己が倒れたのはもう半月も前のことだ。ここ数日は体調もよく、気分転換と例の後処理の進捗状況を確認するため、旧友との面会を望んでいた。従者伝に婚約者と一緒でもいいかと訊かれ、二つ返事で了承したのは記憶に新しい。
そして、ふたりとここで挨拶を交わしたところまでは覚えている。どうやら話の途中で寝入ってしまったようだ。
だからあんな奇妙な夢を見たのか、とエンリケは納得して、小さく苦笑した。
――夢だと、わかっていたはずなのに。
それでも、否応なしに突きつけられる現実はひどく残酷だった。まるで底なし沼に放り込まれた小石のようにずぶずぶと心が沈んでいく。
気を紛らわせるように取り留めもない会話を重ねていると、そう言えば、とコンスタンスがエンリケに切り出した。
「殿下はグリーンフィールズで過ごされるのだと伺いましたが」
「……いずれは、と考えている。今は色々と立て込んでいて難しいが」
「とても美しい場所だと聞いております。殿下がお許しになるならば、また、お会いに行ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、もちろんだ。ランドルフとふたりで来るといい」
緑豊かなグリーンフィールズ。エンリケは、スカーレットと初めて出会った時の手のひらの温かさをまだ覚えている。吹き抜けていく風。草木の匂い。見張り台から見下ろす景色はどこまでも広く、世界はなんと美しいのだと心が震えた。
鳥は歌い、湖は光を反射してきらきらと輝き、オリビの木々は真白の花を咲かせていて。
まだ、自分は、あの光景が美しいと思えるのだろうか。
そんなことを考えていると――
「――なら、返事はその時まで待ってあげるわ」
ふいに聞こえるはずのない言葉を聞いた気がして、エンリケは弾かれたように顔を上げた。
「今、何か、言ったか……?」
「いいえ」
コンスタンスはやけにはっきりとした口調で告げると、こちらに顔を向けることなく立ち上がった。その振る舞いにランドルフがなぜか頭痛を堪えるように額に手を当てる。確かに無礼ではあったが、不思議なことにエンリケは不敬だとは感じなかった。彼女が、あまりに堂々としていたからだろうか。
「それでは、殿下」
身支度を整えたコンスタンスはエンリケが目を奪われるほど洗練された仕草で扉に手をかけると、何かを思い出したように立ち止まる。
「――グリーンフィールズで会いましょう」
振り向きざまに勝ち誇ったように笑う少女は、どうしようもなく、誰かに似ていた。
エンリケははっとしたように息を呑み込むと、彼女とその婚約者が立ち去った方向を見つめたまま硬直する。
しばらくそうして呆けていたが、ふいに力が抜けたようにふっと笑うと、目元を片手で覆い、それから、小さく肩を震わせた。
エンリケめっちゃポエマーなんだけどとかそういうことは思っていても心の中だけで秘めておいて頂ければ幸いです。いや思うけど。思うけどもたぶんそれは触れちゃいけないやつ。
そして私信ですが感想すべて拝見しております。皆様優しくてセンスがあっていつも元気を頂いておりますありがとうございます。ものっそい今さら過ぎてあれなんですけれども今週末から来週くらいにかけて少しずつお返事できればと……(小声)