薄日さす‐9
※3話連続(8、9、10)更新しておりますのでご注意ください。
トマスとその一味は後から到着した憲兵隊によって連行されていった。
ジョセフィンもその場で簡単な聴取を受けることになり、コニーはランドルフとともに一足先にブランドン邸へと戻った。
広間に入るなり、火のついていない暖炉の前で待ち構えていたエメラインに出迎えられる。
「さすが自慢の孫と、可愛い婚約者殿ね」
機嫌良く告げられた言葉から察するに、どうやら事情は筒抜けだったらしい。
「まあ、最後は思ったよりも力技だったけれど」
口調に揶揄うような色が滲む。ランドルフが呆れたように嘆息した。
「おばあさまがそれを仰いますか」
「あら、何のことかしら?」
「とぼけても無駄ですよ。あの借用書、わざと見逃していたのでしょう?」
予想外の台詞にコニーはぱちくりと瞳を瞬かせた。
ランドルフに視線を向ければ、彼はふと何かに気がついたかのように「……いや」と小さく頭を振っている。
「……もしかすると、こうなるようにあなたが裏で手を回していた? そう言えば、あの質屋の男は妙に口が軽かったし、自分が不利になるような証拠もいくつか残していた。わざとあの高利貸しを誘導させた――とすれば、あれはあなたの手駒だったのでは?」
エメラインは答えず、ただにっこりと微笑んだ。それから、ぽん、と手を合わせると、今しがたの問いかけなどまるで存在しなかったかのように話題を変える。
「そうそう。そう言えば、さっきメイフラワー社の記者が取材に来たのよ。どうやら今回の事件は領都新聞の一面を飾るようね。もちろん、あなた方のことは極力伏せてもらうようにするから安心して。ふふ、これでようやっとあの学び舎が貴族のお遊びではないと周囲に理解させることができそうだわ。そうすれば、少しは生徒も増えるでしょう。それに、あの子に近づいても領主が動かないと周知できれば――煩わしい害虫も減る」
取材もなにも、片がついたのはほんの数刻前の話である。まるであらかじめこうなることがわかっていたかのような手際の良さだ。ジョセフィンや高利貸しを監視していたならともかく――とそこまで考えてコニーは頬を引き攣らせた。
「偶然とはいえ、良いこと尽くしね」
老婦人はいかにも貴族らしく上品に微笑んだ。
スカーレットがじっとりとした目つきで『それはまた大層な偶然だこと』と鼻を鳴らす。ここまであからさまに告げられれば、さすがのコニーも事情が読めてくる。
つまり、今回の事件の真の首謀者は――
「あなた達に助けを求めて良かったわ。何より、ジョセフィン自身も少し変われたみたいだし。ほら、よく言うでしょう? 終わり良ければ総て良し、ってね。どういう意味かわかる?」
ランドルフが怪訝そうに眉を寄せると、エメラインは尤もらしく微笑んだ。
「――過程なんてどうでもいいということよ」
いやそれたぶんちょっと違う。
コニーは遠い目をしながら心の中で異を唱えた。だいたい合っているのかも知れないが、間違っても詐欺めいたことをしてもバレなければいいという意味ではない。決してない。
スカーレットが半眼になりながら『食えない婆ね』と呟く。コニーもしっかりと頷いた。もちろん心の中で。
ランドルフが諦めたように溜息をついた。
「なら、そういうことで構いません。けれど、次からは頼み事があるならば仮病など使わず普通に連絡を。ああいった形を取られると……心配、するので」
さすがの彼女もその言葉は予想していなかったのだろう。
エメラインは珍しく目を丸くすると、そのまま弾けるような笑い声を上げたのだった。
ジョセフィンは日暮れ前に帰ってきた。やはり例の借用書に細工のあとが見受けられ、質屋の証言などから偽造品だと断定されたという。
そう告げるジョフィンの表情は常よりも少しだけほっとしているようだった。
その晩、コニーとランドルフは彼女の私室に招かれた。
ローテーブルにはすでにお茶と小菓子が用意されており、ソファへと案内される。
それから、畏まった様子で頭を下げられた。
「今回のこと、本当にありがとうございました」
「ああああ頭を上げてください、ジョセフィンさま……!」
コニーがぎょっとして制止すると、彼女は困ったように眉を寄せる。それから、言おうか言うまいか躊躇うような素振りを見せて、ようやっと口を開いた。
「……あなたは、少し、姉に似ています」
「サラ様に……?」
意外な台詞を告げられ首を捻る。ついでに思い出した。そう言えば、ジョセフィンは姉を嫌っているのではなかったか。彼女に似ているということは、つまり、コニーのことも――?
さっと血の気が引いていく。
「じょ、ジョセフィン様は、その、サラ様のこと……」
実際のところはどう思っているのだろうか。
反射的に訊ねれば、ジョセフィンはぽつりと呟いた。
「大嫌いです」
ひくり、とコニーの顔が引き攣る。けれど、ジョセフィンは気づいていないようだった。
その眼差しはコニーではなく、どこか遠くを向いている。
「……姉さまなんて大嫌い。だって――」
〇
あれは確か、従兄たちの騒動があってすぐのことだった。
その日、姉に呼ばれて彼女の部屋に入った私は己の目を疑った。
「ね、姉さま……?」
私を苛めてきた従兄ふたりが、なぜか、姉の足元で震えながら蹲っている。
「いったい、なにが……」
「なにって――躾のなっていない駄犬には仕置きが必要でしょう?」
姉は、人形のように整った顔に無邪気な笑みを貼りつけると、こてんと首を傾げた。
その姿はまるで宗教画の天使のように愛らしい。
思わず状況を忘れて頬が緩んでしまいそうになるが、従兄たちはさらに顔色を悪くし、絶望的な表情を浮かべている。
「ほらあなた達、私の可愛い妹にちゃんと謝りなさい」
「は、はいっ……!」
「ねえ、誰が人の言葉を喋っていいと言ったの? あなた達は犬になったんでしょう? 違う?」
その台詞はどう考えても理不尽の極みであったが、それでも従兄たちは目に涙を浮かべながらわんっと鳴いた――いや、泣いた。
色々と思うところはあったが、とりあえずそのすべてに蓋をして、私は姉に訊ねた。
「……その、少々、やりすぎでは…………?」
「まあ、ジョー」
サラが驚いたように目を見開く。
「あなたって何ていい子なの……!」
むしろ至って普通の感覚だと思うが――しかし、口にしかかった言葉は不発に終わった。感極まった姉に思い切り抱きしめられたからだ。
けっきょくそれ以来従兄たちは私に絡むことはなくなった。それどころかこの屋敷に近づくことさえなくなり、私は何とも言えない罪悪感を抱いたのだった。
「サラらしいな」
何かの折りにその話をすると、ルウェイン・リュシュリュワは世にも恐ろしい強面をふっと綻ばせた。
思わず「今の話のどこに微笑む要素が……?」と硬直してしまったが、この青年は昔から姉の一番お気に入りの玩具だったことを思い出す。もしかすると耐性の問題なのかも知れない。
親同士が親しいこともあり、リュシュリュワ家のご当主はよく息子たちを伴ってブランドンを訪れていた。なので私と姉、ルウェインにダヴィスは物心ついた頃からのつき合いだ。
ルウェインはその物騒な外見とは裏腹に、貴族らしからぬ純朴さ優しさを持つ人間で、さらに言えば私を『変わり者の領主の娘』ではなく、ジョセフィンとして見てくれる稀有な存在でもあった。まあ、少々斜め上な言動を取ることもあったが、それでもそんな相手に心惹かれないわけがない。
たぶん、気づいた時には好きだったのだと思う。
ある日、いつものようにルウェインを目で追っていると、誰かが小さく吹き出した。
振り返った先にいたのは、やはり、姉で。
「ジョーはルウェインのことが大好きなのね?」
「……はい」
そう、と姉は微笑んだ。それはいつもの姉の笑みとは少し違っていたけれど、どういう意味なのかまではわからなかった。
ルウェインが姉に求婚したのは、それから数年後。
私が十五になった春のことだった。
――サラったらルウェインからの求婚を断ったそうなの。
――どうしてかしら。あんなに、仲が良かったのに。
不思議そうな母の言葉に、私のせいだ、とすぐ気がついた。
私が、あの時、あの人のことを好きだと言ったから。
すぐに姉に詰め寄れば、困ったような微笑を浮かべながら「違うわよ」と否定した。けれど、私にはわかっていた。
きっと、違わない。
その瞬間、抑えていた何かがとうとう音を立てて決壊した。
だから――
「ジョセフィンさま……?」
案じるような声音に、ふっと意識が現実に戻る。
目の前には不安そうな表情を浮かべるコンスタンス・グレイルがいた。どうやら昔の記憶に囚われ、少しぼんやりしていたらしい。
コンスタンスの隣にいるのはランドルフだった。この甥はいつ見ても父親そっくりだ。紺碧の瞳も。物騒な顔立ちも。そして、少々斜め上な性格さえも。
思わず、唇を噛みしめる。
――姉さまなんて、大っ嫌い……!
あの時、確かに私はそう言った。勝手にこちらに気を使い、勝手に求婚を断った姉に。
けれどそれ以上に嫌いだったのは、いつだって、ただ守られているだけの自分自身で。
だから、あの日、私は走ったのだ。
走って、走って――
〇
「ジョー!? どうしたの、あなた!」
汗だくになって息を切らせながら姉のもとへ向かえば、彼女はひどく驚いたように声を上げた。
私は肩を上下させながら「い、いま、」と口を開く。
「ルウェイン、に、振られてきました」
「は……!?」
「大事だけれど、妹にしか見えない、だそうです」
姉は珍しくぽかんと口を開けると、すぐに乾いた微笑を浮かべ「ちょっとあの馬鹿泣かせてくるわね」と低い声で告げる。
ああ、まったく、と私は笑い出したくなるような気持ちになった。この人は、やはり、とんでもないわからずやだ。
「もう、半泣きでしたよ」
そう伝えると、ぴたり、と姉の動きがとまった。
「どうしてだか、わかりますか? わかっていますよね? だって、姉さまが、あの人を振ったりするから。まったく、あの情けない姿ったら。百年の恋も冷めるというやつです。だから、」
そこまで一息に告げると、私は、すう、と息を吸い込んだ。
「あんな見る目のない男、姉さまに、押しつけてやります」
「……ジョー」
「視界に入るのも業腹なのでとっとと引き取ってくださいね」
声は、震えていないだろうか。
ちゃんと、笑えているだろうか。
「ジョー、あなたって、本当に」
姉が今にも泣き出しそうな表情を浮かべながらこちらに向かって腕を伸ばした。
「本当に、不器用で、損な性分なんだから……!」
絞り出すような声とともに、思い切り抱き寄せられる。
予想外に熱い体温を感じながら、それはこの人の方ではないのだろうか――とそう思った。好きな相手に求婚されたのに、妹のために身を引いて。悪魔だなんて言われているけれど、その本質はどうしようもなくお節介で、我慢強くて、きっと、誰よりも優しいのだ。
「だいすきよ、私の可愛いジョー」
私も、とは言えなかった。
照れ臭かったというのもある。
けれど、それよりも悔しかったのだ。哀しかったのだ。そして、きっと、寂しかった。初恋相手と姉。大好きなふたりがいなくなってしまうことが。
だから、言えなかったのだ。どうしても。
〇
――だいすきよ、ジョー
ふいに姉の声が耳元で蘇り、私はくしゃりと顔を歪めた。
そう。姉さまなんて、大嫌いだ。だって。
「……私を遺して、逝ってしまうんだもの」
まだ、言ってないのに。
私もだと。
私も、あなたが、大好きだと。
いつでも伝えられると思っていたのに。それなのに。
もう永遠に会えなくなるだなんて――
思っても、見なかったのだ。