薄日さす‐8
※3話連続(8、9、10)更新しておりますのでご注意ください。
その翌朝。小鳥のさえずりとともに目を覚ましたジョセフィンは、寝台から降りると部屋の窓を開け放った。
夜のうちに冷えた外気が肌に触れる。
いつものようでいて、どこか、いつもとは違う朝だった。
身支度を整え教会に赴くと、すでに子供たちの多くはジョセフィンを待っていた。そのことに、少しだけほっとする。
朝の挨拶を交わしていると、ひとりの少年が小走りで駆け寄ってきた。ダンだ。
ジョセフィンは思わずぱちくりと目を瞬かせる。
この少年の母親がジョセフィンの指導力に関して物申したのは――もちろんそれは全く以って正当な抗議だったのだが――つい昨日のことのはずだった。
「……ダン、あなた、ここに来てよかったのですか? お母様に怒られるのでは?」
するとダンは笑いながら首を横に振った。それからどこか気恥ずかしそうに、「実は昨日――」と口を開く。
「アランのやつが家に謝りにきたんだ。ハンカチのことで」
「アランが……?」
思わず当人を探せば、彼は少し離れたところで口をへの字に曲げていた。その頬はほんのりと赤い。
「そう。悪いのは自分なのに、そのせいで先生が責められるのは嫌だって。それで、俺もアランに謝ったんだ。たぶん、押し倒したのはやりすぎだったから。だからさ、今、俺たちは休戦中なの。で、母さんは、そういうことならまあいいかって」
「え?」
ジョセフィンは思わず聞き返していた。
「いい……のですか?」
「うん。うちの母さんすぐ怒るけど、すぐ忘れるから」
あっけらかんとした口調に、ジョセフィンはぽかんと口を開けた。
何だか拍子抜けしたような気持ちになっていると、ふと門近くに人影があることに気がついた。それも、三つ。
「――ここにいてください」
彼らの顔を認識したジョセフィンはさっと表情を強張らせると、子供たちを下がらせて門に向かう。
「あなた方、ここは私有地です。一体何の御用でしょうか」
「そりゃあ、もちろん――」
人影は三つとも男だった。生憎ジョセフィンが知っているのは真ん中の背の低い一人だけだ。あとの体格の良い二人はおそらく護衛か子分だろう。
「貸したものに利子をつけて返してもらいに来たんですよ。あれはこちらにあるんでしょう?」
そう言うと、高利貸しは楽しそうに口角を上げた。
「それともまだ見つからないと? だったらあなたではなく、子供たちの方に訊いてみましょうか?」
「子供たちは関係ありません」
反射的に声を上げると、トマスの笑みがにたりと深まった。
「なら、どうするべきかわかりますよね?」
〇
招かれざる客人たちをかつてのクラバート氏の私室にまで案内すると、鍵の掛かった本棚から“青の秘蹟”を取り出した。
ふたつとない美しさの本を目にした男が喜色を浮かべる。ジョセフィンは思わず神聖な書物を守るようにぎゅっと腕に抱え込むと、絞り出すような声で訊ねた。
「……ひとつ、聞かせてください。本当にあの借用書はクラバート氏のものなのでしょうか?」
「あなたも往生際が悪いですね。何度も見たはずでしょう?」
トマスは一瞬だけ不快そうに眉を持ち上げると、すぐに取り繕うように大袈裟な溜息をついた。それから例の借用書を懐から取り出す。
「この署名が偽物に見えますか? ……ああ、それとも、今更その本を手放すのが惜しくなったと? まあ、こちらは別にいいんですよ。あなたから回収できないならご実家に行くまでですから。でも、いいんですか? こんな醜聞、弟君であるご当主に知られたら――」
「っ、それ、は」
びくりと肩が震えた。領主の姉がこんな醜態を晒しているなどいい恥さらしだ。家族は何も悪くないというのに、出来損ないの娘のせいで迷惑をかけるわけにはいかない。
ジョセフィンはそっと目を伏せた。ここまでか、と思った。腕の震えを抑えながら、師の遺品を相手へと差し出す。
その時だった。
「ちょっと待った――――!」
猛犬のような勢いで、何かが飛び込んできた。
ジョセフィンを庇うように両腕を広げ、トマスを強い眼差しで睨みつけているのは、榛の髪に若草色の瞳の――
「……ええと、生徒さんにしては少し薹が立っているようですが、あなたは……?」
突然この場に現れたコンスタンス・グレイルは、半ば呆気にとられた様子のトマスの台詞にくわっと目を開いた。
「どこからどう見ても立派な淑女ですけどそれが……!?」
「淑女……?」
心の底から不思議そうな表情を浮かべる男をまるきり無視して、コンスタンスは「あなたの罪を暴きに来ました!」と一方的に宣言した。それから、その胸元に向かってびしりと指を突きつける。
「その借用書は偽物ですよね?」
「は?」
「ということは、ジョセフィンさまがあなたに支払うべきものなんて何もないはず……!」
「……証拠は?」
「え?」
「そう仰るからにはもちろん証拠があるのでしょう?」
ジョセフィンは眉を寄せた。借用書が偽物かも知れない――という話はあくまでも推測に過ぎない。もし正しかったとしても、昨日の今日では証拠も何もないだろう。
案の定、少女はわずかに怯んだようだった。
「そ、それは、ええと……」
「おや、ないのですか? まったく、言いがかりも甚だしい」
トマスは手のひらを天井に向けると、皮肉気に口の端を吊り上げた。
「何が目的かわかりませんが、部外者にはお引き取り頂きましょうか。――おい」
顎をしゃくって短く告げれば、後ろに控えていた大柄な男たちが心得たようにコンスタンスに掴みかかった。
「痛っ……!」
乱暴に腕を捩じ上げられたコンスタンスの口から悲鳴が零れる。ジョセフィンはハッと息を呑んだ。
「暴力はやめてください……!」
慌てて駆け寄ろうとした、その瞬間。
少女の体からふっと力が抜けた。四肢は力なく垂れ下がり、その顔はがくりと下を向いている。恐怖で気絶してしまったのかと焦るが、程なくして少女の口がわずかに動いた。
「――まったく」
どこか傲慢な声音とともに、びり、とわずかに大気が震える。
「淑女に許可なく触れようだなんて百年早くてよ、この下郎が」
その瞬間、コンスタンスの体から何か光るものが飛び出た――ような、気がした。
ジョセフィンはその眩さに反射的に目を瞑り、そして、再び開けた時にはすでに状況は一転していた。
「……え?」
気がつけば、大の男がふたりして仲良く床に伸びている。どうやら失神しているようだ。
一体、何が起こったのだろう。見間違えでなければ、一瞬、稲妻のようなものが見えた気がしたが――
状況が理解できないのはトマスも同じだったようで、動揺した様子でコンスタンスを見つめていた。
「お前は、いったい……?」
「わたくし?」
声を掛けられた少女はそう言ったきり答えることなく、ただ煩わしそうに目の前の相手を睥睨した。明らかに礼を失した態度だ。だというのに、どうしてか目を奪われてしまう。この少女はそれが許されるほど高貴な存在なのだと納得してしまう。そんなはずないのに。
この娘は、ほんのつい先程まで貴族らしからぬ朴訥とした雰囲気を纏っていたはずなのに。
「三下相手に名乗る必要があると思って? 知りたいのであれば、そうね――」
コンスタンス・グレイルはひどく優雅な仕草で首を傾けると、歌うようにこう言った。
「――生まれ変わってから出直していらっしゃい」
その顔に浮かべているのは、穏やかで慈愛に満ちたものだった。
けれど、なぜか背筋がぞくりとしてしまうのはちっとも穏やかではない言葉のせいだろうか。
それとも、その目が微塵も笑っていないからだろうか。少女の心根のように澄んでいた若草色の瞳。けれど、今はそこに違う色が滲んでいるように思えて仕方がない。
「ああ、何なら今生まれ変わらせて差し上げてもよくってよ?」
コンスタンスは躊躇いなくトマスの傍まで来ると、そっと相手の頬に手を当てた。突然の振舞いにジョセフィンはもちろん、トマス本人もぎょっとしたように凍り付く。
次の瞬間、その手の平からばちばちっと小さな稲妻が走った。
トマスはひっと悲鳴を上げると、腰でも抜かしたのかその場に崩れ落ちる。
けれど逃がさないと言わんばかりにひどく冷めた双眸が男を見下ろして――
「――そこまでだ」
制止の声とともに黒づくめの青年が颯爽と現れる。ジョセフィンはわずかに目を見開いた。やってきたのは甥――ランドルフだった。
「質屋が吐いたぞ。クラバート氏の署名を売ったと」
その台詞を聞いた瞬間、なぜかコンスタンスの方からチッという舌打ちが聞こえたような気がした。おそらく気のせいだとは思うが。
身内とはいえ、ランドルフの見た目は控えめに言って物騒だった。立派な体躯に鋭い顔つき、そして何より明らかに堅気ではなさそうな威圧感がある。
トマスもその雰囲気に気圧されたのか、尻もちをついたままごくりと唾を飲み込んだ。
「あなたは――」
「王立憲兵局のランドルフ・アルスターだ。短いつき合いになるだろうから覚えてくれなくても構わないが」
「い、一体何の話をされているのかわかりませんな。だいたいこの署名は本物で――」
トマスは言葉に詰まりながら、尚も手にした借用書を見せようとする。
すると次の瞬間、コンスタンスが全く表情を変えずにトマスの手ごと借用書を踏みつけた。
ごきっ、と鈍い音がする。
「い゛っ……!?」
「あらごめんあそばせ、足が滑ったわ」
恐ろしいまでの棒読みで謝罪すると、コンスタンス・グレイルは獲物を甚振る捕食者のようにゆっくりと踵に体重をかけていった。男の口から恐怖に満ちた悲鳴が漏れるが、まるで気にした様子もない。
「そう言えばお前、さっき面白い話をしていたわね。当主に知られたらどうするのか――だったかしら? ねえ、お前、まっとうでない商いをしているくせに、そんなこともわからないの? なら、良い機会だから覚えておくことね」
ジョセフィンは呆気に取られながら、ひどく愉しそうな様子の少女を見ていた。
「いいこと、お前たちはとーっても幸運だったのよ? 騙そうとした相手があの清廉潔白なジョセフィン・ブランドンだったのだから。わたくしだったらご大層に借用書などと言われてもどうでもいいと思ってしまうもの。――たとえそれが本物だったとしても関係ない」
コンスタンス・グレイルは、ぞっとするほど美しい微笑みを浮かべて男を見下ろした。
「――だって、お前たちごと潰してしまえばいいだけの話でしょう?」
この少女は、一体、誰なのだろうか。
少なくともジョセフィン・ブランドンが知っているコンスタンスではなかった。ふと王都で流れていたいわくつきの噂のひとつを思い出す。
誠実のグレイル家の長女には、希代の悪女の亡霊が取り憑いている。
それは、あながち嘘ではなかったのかも知れない。
「まあ、わたくしもいつもだったらこんなお節介なんてしないのだけど。今回は手を出した相手が悪かったと思いなさい。……ああ、別に貴族だとか領主の血縁だとかは正直どうでもいいのよ。でもね、そこのいい年をした世間知らずは残念なことにこのわたくしの身内になる予定の人間なの」
「は……?」
素っ頓狂な声を上げる男に、コンスタンスは不快そうに眉を顰めた。
「まだわからないの? 嫌だわ、こんなに優しく教えてあげているというのに。いいこと、わたくしはね――」
言いながら、男の手を踏んでいる踵に容赦なく体重を乗せる。
「いい加減、身の程を知れと言っているのよ」
ぎゃあっ、と今にも泣き出しそうな苦痛に満ちた悲鳴が上がった。
「……そろそろ足をどけないとそいつの指が千切れるぞ」
「それがどうかして?」
「コンスタンスが気にする」
一拍の沈黙。ややあって、間違いなく忌々し気な舌打ちが聞こえた。
少女はふんっと鼻を鳴らすと、不本意そうな表情を浮かべながらトマスの手から足を退かした。
けれど、少しばかり遅かったらしい。トマスはまるで世にも恐ろしい悪霊にでも遭遇したかのようにすっかり戦意喪失してしまい、顔を蒼白にしたまま立ち上がれないでいるようだ。額には脂汗がびっしりと浮かび、目にはうっすらと涙の膜が張っている。その傍らではランドルフが肩を叩きながら「大丈夫だ、千切れてなければ何とかなる」と何の慰めにもならないことを言っていた。
「……うん? 動かないのか? だとすると折れているのかも知れないな。大丈夫だ、骨はそのうちくっつく。だいたい指なんて十本もあるのだから一本くらい駄目にしても特に支障はないだろう。何も問題ない。ああ、それから――もうわかっていると思うがこの借用書は無効だからな。管轄の憲兵所にも連絡を入れてある。これに懲りたら金輪際詐欺なんてするんじゃないぞ」
燃え尽きた灰のようになってしまっているトマスに果たしてその言葉が届いているかは不明だったが。
ジョセフィンが呆然としながら事態を傍観していると、コンスタンスがぶすっとした様子で口を開いた。
「言っておくけれどお前もそろそろ身の程を知るべきよ、ランドルフ・アルスター」
「……うん?」
ランドルフが不思議そうに瞳を瞬かせた。
「とぼけるのもいい加減になさい! わたくしが気づいていないとでも!? 人目を盗んでこそこそベタベタしていたでしょう……!? いいこと、お前たちはあくまでも婚約しているだけで、まだ婚姻関係にはないのだからあまり調子に乗らないことね……!」
よく聞こえなかったが、どうやら彼女は婚約者に人前でのスキンシップを自重するように要請しているらしい。
同時にジョセフィンは屋敷内でよく見た光景を思い出していた。そう言えば、ランドルフはよくコンスタンスの頭に手を置いたり、挨拶代わりに額やらこめかみやらに唇を落としていた気がする。
ただあれは恋人同士の戯れというより、どちらかと言えば可愛がっている小動物に対するような雰囲気ではあったが――
ちなみに幼い頃から表情筋に欠陥のあった甥っ子は、特に動じた様子もなく、腕を組んだまま冷静に己の振舞いを思い出しているようだった。
しばらくしてから、心底不思議そうに首を傾げる。
「別に、調子に乗ってはいないと思うが」
「そういうところよ……!」