薄日さす‐4
空はどんよりと暗く、今にも泣き出しそうな色をしていた。
屋敷を飛び出した私は、またいつものようにライラックの木の下で膝を抱えて蹲っていた。
父に、叱られたのだ。
それだけであれば、これほど気落ちはしなかっただろう。己の行いが悪かったのであれば、きちんと反省もした。
けれど――
悔しさに涙がこぼれそうになる。
誰も、私の話など、聞いてくれやしなかった。
「ジョセフィン」
唇を噛みしめていると、やわらかい声が私の名を呼ぶ。
顔を上げずとも、そこにいるのが天使のように愛らしい少女であることを私は知っていた。
「どうして、あんなことをしたの?」
困ったような、けれど、ひどく穏やかな声が掛けられる。
その声の優しさに、私は少しだけ期待してしまう。
もしかしたら、わかってくれるのではないだろうか、と。
あれは違うのだと。理由があるのだと。
けれど、すぐに首を振る。
誰からも愛されるこの人には、負け犬の気持ちなど、きっと、わからない。
私は俯いたまま、低い声を絞り出した。
「姉さまには――」
スカートの裾を、ぎゅっと握りしめる。
「関係、ありません」
〇
「あら、ぴったりね」
エメラインが嬉しそうに手を合わせる。
姿見の前に立ったコニーは所在なげな表情を浮かべると、くるりと背後を振り返った。
「に、似合いますか……?」
コニーは深緑色のワンピースを着ていた。襟ぐりの丸く空いた清楚なデザインで、スカート部分は腰よりも少し高めの位置で切り替わっている。袖口はパフ・スリーブだ。
エメライン曰く、これはサラの少女時代のものだという。それも大のお気に入りの一着で、娘ができたらぜったいに着せるのだと言っていたのだそうだ。
だからあなたさえよければ――などという穏やかな口調の癖に有無を言わせぬ気迫に押し負け、袖を通すことにしたのだが。
このデザインは、少し、愛らしすぎるような、気がする。
「とっても可愛らしいわ」
エメラインがそう言いながら目を細める。
コニーは何だか気恥ずかしい気持ちになって小さくはにかんだ。するとスカーレットが鼻で笑う。
『馬子にも衣装ね』
げせぬ。
ワンピースを着たまま階下に降りてくると、ジョセフィンと出くわした。
今からどこかに出かけるのか、先程までの家庭教師のような服装ではなく、華美ではないが質の良さが窺える衣装だ。さらに鍔の広い帽子をかぶり、黒の革鞄を手にしている。
彼女はコニーを視界に入れると、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。
「その服は……」
親の敵のように睨みつけているのは、正確にはコニーではなく、深緑色のワンピースだった。
――ジョセフィンは、サラのことが大嫌いだったから。
ふいに、ウィリアムの言葉が脳裏を過ぎる。
険しい表情を浮かべたジョセフィンは、無言のまま立ち去ろうしたようだった。コニーは思わずその背中を呼び止める。
「あ、あのっ」
ぴたり、と相手の足がとまった。振り向きざまに冷たい視線を向けられる。
「――なにか?」
「こ、これから、どちらに……?」
「学校です」
「よ、よければ、一緒に……」
その瞬間、呆れたような溜息が聞こえてきた。
「ウィルから聞いたのではなかったのですか?」
「へ……?」
「私は、姉のことが、大嫌いなんです。――なので」
ジョセフィンはコニーを見下ろすと、きっぱりとした口調でこう告げた。
「母が何と言ったか知りませんが、あなた方の助けは必要ありません」
〇
「それで、どうして、尾行という選択になるんだ」
両脇に店が立ち並ぶ大通りを歩きながら、ランドルフが頭痛を堪えるような表情で呟いた。
その視線の先にはジョセフィン・ブランドンがいる。
「いや、その」
コニーは顔を引き攣らせながら、ちらりとスカーレットの方を窺う。
――もちろんジョセフィンの後をつけろと命じたのは目の前の女王さまである。こっそり屋敷を抜け出そうとしていたところをランドルフに見つかってしまったのは、コニーの手落ちだったが。
『あら、たまたま方向が同じなだけよ』
スカーレットがしれっと嘯いた。
『だって、おかしいじゃない』
颯爽と前を歩いていくジョセフィンの後ろ姿を紫水晶の瞳が捉える。
『あの女は、今から子供たちに読み書きを教えに行くんでしょう? なのに、わざわざドレスに着替える? しかも、踵の高い靴まで履いて』
言われてみれば確かにそうなのだ。彼女の目的地はおそらく学校ではない。だから、コニーとしても仕方なく後をつけることにしたのである。
ジョセフィンは路地裏に入ると、迷うことなく複雑な道を進んでいった。たどりついたのは立派な門構えの大店だ。けれど、どこか異様な雰囲気だった。看板どころか窓すらもなく、扉の前には人相の悪い男たちが立って周囲を警戒している。
スカーレットが、『ああ、なるほど』と納得したような声を上げた。
『――そういうことね。確かにここは正装でないと足元を見られるわ』
「このお店はいったい……?」
コニーが訝しんでいると、ランドルフが声を潜めながら問いに答える。
「高利貸しだな。看板がないということは、おそらく無許可の」
「そ、それって、まさか、ジョセフィンさまが負うことになってしまったっていう――」
ジョセフィンが見張りに何事か告げると、程なくして立派な髭を蓄えた小太りの男が表に出てきた。
耳を澄ませて会話を盗み聞きしていると、どうやら男は名をトマスと言うようだ。この店――実態はモグリの金貸しのようだが――の主人でもあるらしい。
「――クラバート先生は、本当にあなたからお金を借りていたのでしょうか?」
「もちろんですよ、ミス・ブランドン。ほら、ここに借用書もある」
トマスは品のない笑みを浮かべながら懐からひらりと一枚の紙を取り出した。
「それで、返済の目途は立ちましたかねえ? ブランドン侯爵にご相談は?」
ジョセフィンはぴくりと片眉を持ち上げたまま答えなかった。
「なるほど、されてない、と。ご実家を巻き込みたくないという貴女のお考えは実にご立派です。その潔癖さに私も心が洗われるようだ。そもそもあなたが拵えた借金でもありませんし、実のところ、私も何とかして差し上げたいと思っていましてねえ」
トマスはそこまで一気に語ると、ああそうだ、とわざとらしく口角を持ち上げた。
「確か、バーツ氏はミシュリヌス王時代の神学書――“青の秘蹟”を所有していましたよね?」
その言葉にジョセフィンは、はっと目を見開いた。
「ああ、やはりご存知でしたか。あれはすでに絶版となっていて稀少性が高い。何ならそちらでも――」
ジョセフィンはトマスを鋭く睨みつけると、革鞄から封筒を取り出した。
「……いえ。お金なら、あります。どうぞ確認を」
「――足りませんな」
トマスは中身を見ることもなく、薄ら笑みを浮かべたまま一蹴した。
「足り、ない……?」
「ええ。ほら、借用書にも書いてあるでしょう? 必要に応じて利息がつくと。そうですなあ、今は確か――」
そう言って告げたのは、貴族の邸宅が軽くひとつ建つほどの額だった。
ジョセフィンの顔が蝋のように蒼白になる。
「もちろん、選んで頂いて構いませんよ。財を失うほど大金か、たかが他人の本一冊か」
「あなた、最初からそのつもりでっ……!」
とうとうジョセフィンが声を荒らげると、トマスの双眸がすっと細められた。
「本当に、察しが悪い方ですな。――あなたも、もうこれ以上、大事な学校を壊されたくはないでしょう?」
「な――」
「早くしないと、次は子供たちを壊してしまうかも知れませんよ?」
その瞬間、ジョセフィンの顔からさっと血の気が引いていった。
――ああ、もう、見ていられない……!
覚悟を決めたコニーが物陰から出て行こうとすれば、強い力でぐいっと肩を掴まれる。
「だめだ、コンスタンス」
「でもっ……」
「今の状況では、こちらが手を出しても何の解決にもならない」
真剣な表情に、コニーは続けようとした言葉をぐっと呑み込んだ。
『その堅物の言う通りよ。やめておきなさい、コニー』
珍しいことに、スカーレットまでランドルフに加勢してくる。コニーは唇を噛みしめたまま俯いた。
『だって、せっかく相手はこちらの存在を知らないのだもの』
けれど、続けざまに降ってきたのは、場にそぐわぬ軽やかな声だった。
ゆっくりと顔を上げれば、紫水晶の瞳が、まるで新しい玩具を見つけたかのように煌いている。
『なら、久しぶりに思う存分――愉しませてもらわなくちゃね?』
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