薄日さす‐3
「ジョセフィンはね、勉強が大好きなのよ」
「勉強が」
コニーは信じられない気持ちでその言葉を繰り返した。
まさか、そんな奇特な人間がこの世に存在しているとは知らなんだ。
「そう、特に神学がね。大好きで大好きで、とうとう家を飛び出して聖職者――というより教会の職員と言った方が適切かしら――になってしまったの」
エメラインはそう告げると、不思議そうな表情を浮かべるコニーに苦笑してみせた。
「女性の身で学問の道を志すには、当時はそれが一番手っ取り早かったのよ。残念なことに、あの子の時代にはオーラミュンデ家のお嬢さんはいなかったから」
「……リリィさま、ですか?」
「ええ。彼女のおかげで今の時代は少しだけ寛容になったのだと思うわ。もちろん最初は誹謗中傷の嵐だったようだけど――でも、何をどうやったのか結果的に大衆を味方につけて勝利していたのよねえ」
『あの女らしいわね。どうせ恐喝よ』
スカーレットが、ふん、と鼻を鳴らした。
そうか、とコニーは心の中で呟いた。貴族の子女でありながら職に就いているミレーヌやケイトが表立って中傷されないのも、リリィ・オーラミュンデという先駆者がいたから――だったのか。
「ジョセフィンは聡明だったけれど、そういう強かさはなかったの。だから、教会に救いを求めたのよ。あそこは外界から遮断された世界だし、出世さえ望まなければある程度は好きなことをしていられる。それに、真理の追求は教会のモットーでもあるもの」
ジョセフィンは王都での研究に没頭し、領地にはほとんど帰ってこなくなったそうだ。
「――もちろん、その選択をすぐに受け入れてあげることは難しかったけれど」
エメラインは過去を懐かしむように目を細めると、「でも、もう過ぎたことよ」と穏やかに笑った
「それで、ずっと音沙汰がなかったのだけど、少し前にジョセフィンに神学を教えた恩師が亡くなってね。その葬儀に参列するためにこちらに戻ってきて、そこであの子は学校の存在を知ったのよ」
「学校?」
亡くなった師はクラバート・バーツ氏と言ったそうだ。元々王都で学者をしていた老人で、神学だけでなく、法学や医学にも通じていたらしい。現役を退いてからはブランドン家の家庭教師となっていたのだが、それも数年前に辞し、読み書きのできない子供たちのために領地の外れに学校を建てた。そこで教鞭をふるっていたのだという。
「そのことを知ったジョセフィンは、王都の教会に連絡を取って、クラバート氏の遺した学校を引き継ぐことにしたの。今はこちらに残って、教師として子供たちに読み書きや計算を教えているわ」
そこまで告げると、エメラインは、ふう、と溜息をついた。
「――でも、うまくいかないものね。クラバート氏には、借金があったらしいわ。個人ではなく、学校に。それをあの子が背負うことになってしまったの。最近では借金取りからひどい嫌がらせを受けているみたい。あの子は何も言わないけれど、もしかしたら相手は犯罪に近いこともしているのではないかしら」
「そんな……!」
コニーが思わず案じる声を上げると、老婦人はにっこりと微笑んだ。
「だからね、事情を探ってきて欲しいのよ。ウィリアムはまるで頼りにならなくて。その点ランドルフになら安心して任せられるもの」
なるほどそういうことか、とコニーはエメラインの真意を察した。確かに泣く子も黙るランドルフ・アルスターなら、大抵の厄介ごとは何とかなる、気がする。
けれどその時、部屋の扉側から否定の声が上がった。
「――それはちょっと難しいんじゃないかな」
そう言ったのは先ほど挨拶を交わしたばかりのウィリアム・ブランドンだった。
どうやら今の会話を聞いていたらしい。
エメラインがおっとりとした微笑を浮かべたまま口を開く。
「あら、何度お願いしてもジョセフィンに勝てた試しのない役立たずの愚息じゃない」
母親からの辛辣な言葉に、ウィリアムは盛大に表情を引き攣らせた。しかし、すぐさま気を取り直すように、ごほん、と咳払いをする。
「さっきジョセフィンに会ったんだけど、相変わらずだったよ」
言いながら、コニーたちに視線を向けた。
「お前たちも見ただろう? あの姉が素直に助けを受け入れるとは思えない。それに――」
ウィリアムは、何故だかランドルフを見て言い淀んだ。
けれど、悩んでいたのは一瞬のことで。
彼は、わずかに目を伏せるとこう続けた。
「――ジョセフィンは、サラのことが大嫌いだったから」
〇
少しだけ重くなった空気のまま広間に戻ると、そこには客人の姿があった。
癖の強いアッシュ・ブラウンの髪の男性だ。年の頃は四十を幾らか超えたところか。端正な顔立ちでスタイルも良く、遠目からだとまるで彫刻のように見える。
男は、コニーたちに気がつくと、ぱあっと顔を輝かせた。
「ランドルフ……!」
まるで少年のような満面の笑顔である。
「……ダヴィズ叔父上?」
ランドルフが意外そうに小さく呟く。コニーは思わず「え、誰」とスカーレットを見上げた。
『ダヴィズという名であの堅物の知り合いなら、現リュシュリュワ公じゃない?』
「リュシュリュワ公……?」
と言うと――以前、父と拳で語り合ったと噂の?
ミレーヌ曰く、殴り合いの後、夕陽を背景にお互い号泣しながら抱き合い最終的に義兄弟の契りまで交わしたという、あの、リュシュリュワ公?
コニーは、ぽかんと口を開けた。
ランドルフから名を呼ばれたダヴィズは感極まったように唇を戦慄かせると、くしゃりと顔を崩す。
「あ、会い、会いたっ」
もういい年の大人が、半泣きになりながらずびずびと鼻を啜っている。コニーは思わず己の目を疑ったが、ランドルフは慣れているのかきょとんと首を傾げただけだった。
「……アイタ? 叔父上、どこか怪我でも?」
『――バカなのこいつ?』
スカーレットが恐ろしいほどの無表情で告げた。
コニーが答えに窮しているうちに、ダヴィズが両手を広げながら「会いたかったよおおおおお!」と叫んでランドルフに飛びついていく。
「え、なにこれ……?」
『こいつもバカなんじゃない?』
スカーレットは心の底からどうでも良さそうにばっさりと切り捨てた。
コニーもどうしていいかわからず生温い気持ちで事態を見守っていると、しばらくしてからダヴィズがコニーに気づいた。
「ええと、君は――」
首を傾げながら、どこか確信めいた口調で告げる。
「コンスタンス・グレイルだね?」
「は、はい」
頷きながら、コニーはとあることを思い出していた。
この人は、確か、ランドルフとの婚約を反対していたはずだった。
父とは和解したらしいが、コニーのことをどう思っているかまではわからない。
わずかに身構えたのが伝わったのか、ふいにダヴィズが苦笑する。
「ああ、ごめんごめん。今はもう反対してないよ」
「へ……」
「だって、ランドルフが幸せそうだからね。君の御父上にも諭されたし。私の視野が狭かったようだ」
そう言うと、にっこりと微笑んだ。邪気のない笑顔にコニーは思わず瞬きをする。ちらりとランドルフを窺えば、わずかに驚いたような表情を浮かべていた。
ダヴィズは真剣な面持ちでさらに言葉を続けた。
「だからランドルフはもっとたくさん領地に帰って――」
その時だった。ばんっという音とともに扉が開いた。
「――いったいどこの躾のなっていない子供が騒いでいるのかと思えば」
冷たい声とともに入ってきたのは、例のランドルフの叔母――ジョセフィン・ブランドンだった。
「あなたですか、ダヴィズ」
「げ、ジョー」
ダヴィズはぎょっとしたように居住まいを正した。心なしか、その顔には冷や汗が滲んでいるように見える。
「ええと、久しぶりだね、ジョセフィン。ルウェイン兄さんとサラの葬儀以来かな? 見たところ変わりないようだけど、元気に――」
「なぜあなたがここに?」
ジョセフィンが絶対零度の眼差しを向ければ、ダヴィズはぴしりと笑顔を引き攣らせた。
「い、いや、その、エメラインさまの体調が思わしくないってウィルから知らせを受けたんだよ。私も小さい頃からお世話になっていたから――」
「あれは仮病です。人騒がせにもほどがある。まったく、愚弟も余計なことを」
「え、仮病なの……? ……あーほら、ウィルは昔からちょっとあれだったからなー。しかも悪気なく無神経っていうか」
「無神経なのはあなたもでしょう。なぜか世間からは真面目だの実直だの言われているようですが」
遠慮のない会話にコニーが目を白黒させていると、ダヴィズがこちらに気がつき、ああ、と頷く。
「リュシュリュワとブラントンはお隣同士ということで昔から交流があってね。ランドルフの両親も含めて、私たちはみんな幼馴染みなんだよ」
ダヴィズは爽やかな笑顔を見せながら、言葉を続けた。
「あっそうそう、何を隠そうジョーの初恋はルウェイン兄さんで――」
次の瞬間、ごんっとものすごい音がしてダヴィズが床に沈んだ。
突然の惨事にコニーはひっと息を呑む。
「――今、聞くに堪えない雑音が流れた気がするのですが」
聞こえてきたのは、地を這うような、低い、低い、声である。
「あなた方も、何か、聞こえましたか?」
もちろんコニーは顔を強張らせたまま、素早く首を横に振ったのだった。
小説&コミックともに発売中でございます(こっそり)
そしてノベルを購入して頂いた方にプレゼントがあたるキャンペーンもやってもらえることになりましたので、この後ちょこっと活動報告の方をのぞいて頂ければ……!