薄日さす‐1
すごく、すごく嫌なことがあった。
淡い光に包まれた、雨上がりの中庭。薄紫色の花が揺れるライラックの木の下で、私は膝を抱えて泣いていた。
かなしい。
くるしい。
たすけてほしい。
口には出せない想いが、涙になってこぼれていく。
いったい、どれほど、そうしていただろうか。
小さくしゃくりをあげていると、突然、声が掛けられた。
「――まあ、泣いているの?」
「……泣いてなど、いません」
一拍置いて、そう答える。もちろん嘘だった。けれど、こんなことですぐ泣くような弱い人間なのだと思われたくなかったのだ。
だから、私は、平気な素振りで顔を上げた。
おそらく頬は濡れ、目はみっともなく腫れ上がっていたに違いない。
なのに、彼女は何も言わなかった。
ただ、私をじっと見つめると、
「大丈夫よ」
と言って、柔らかく微笑んだ。
「あなたは、何があっても、きっと大丈夫。だって――」
あの時、彼女は何と言ったのだったか。
覚えているのは、その笑顔が、ひどく優しいものだったということだけ。
あれから、数十年の月日が流れたけれど。
――答えは、未だ、見つからないまま。
※
王都がアマデウス通りの西端にある王立憲兵局。
来客用の応接間の入り口で、カイル・ヒューズは生温い笑みを浮かべながら一組のカップルを見守っていた。
ひとりは友人兼同僚の表情筋の死滅した男で、もうひとりは気がつけばいつも騒動に巻き込まれている見た目だけは平凡な少女である。
ふたりが婚約を交わしてからしばらく経っていると思うのだが、纏う空気はつき合い立ての恋人に近い。
今日だって仕事中毒だったはずの同僚が珍しく午後から休みを取っていた。確か、王都のご令嬢の間で流行っている劇を観に行くと言っていたか。砂漠の商人と貴族令嬢の恋物語らしい。
目に見えて嬉しそうな少女と、わかりにくいがおそらく嬉しそうな男。その間に割って入るなど馬に蹴られてもおかしくない。
おかしくはないのだが――
仕方がないのでわざとらしく咳払いをすれば、ふたりがようやくこちらに気づく。
カイルは生温い笑みを浮かべたまま、手にした封筒を掲げて見せた。
「邪魔して悪いな。ランドルフ、郵便だ」
ランドルフは二、三度瞬きをすると、不思議そうに首を傾げた。
「郵便?」
「ああ、ブランドンって確かお前の母方の実家だろ?」
言いながら送り主を指差す。そこにはウィリアム・ブランドンと書かれていた。すでに故人となってしまっているが、ランドルフの母であるサラはブランドン侯爵家の長女だったはずだ。そして、現当主のウィリアムはサラの弟である。
侯爵家の印章が押されていることを確認したランドルフは、軽く頷くと封筒を受け取った。そのまま封を切り、中身を一読すると、すぐにその表情が厳しいものになる。
「どうした?」
「……祖母が、危篤だと」
まさかの展開にカイルの頬が盛大に引き攣った。
先程までの春の陽だまりのような甘い空気が見事なまでに霧散していく。
「すまない、コンスタンス。これからすぐにブランドンに向かわないと――」
沈痛な面持ちのままランドルフが告げる。
するとその時、少女が意を決したように口を開いた。
「……あ、あの、その、い、い、いっ」
「い?」
見れば、若草色の瞳は、なぜだか並々ならぬ決意に満ちているようで。
「一緒に、行ってはだめですか……!?」
※
『――ブランドンはリュシュリュワ領と隣接しているのよね』
がたん、ごとん、と揺れる馬車の中でスカーレットが口を開く。
王都からブランドン領までは数日かかる。旅路も三日目ともなると、さすがに暇を持て余したのか、彼女は気まぐれに知っていることを教えてくれることにしたようだ。
『歴史ある侯爵家ではあるけれど、まあ、それだけね。あそこは特別裕福な土地でもなければ、ハームズワースのように王都での地位が高いわけでもないし。所謂、古き良き貴族ってやつよ』
「なるほど……」
コニーは神妙な面持ちで頷いた。スカーレットは何でもないことのように言うが、それはもちろんリュシュリュワやカスティエルのような大貴族と比べて――ということだろう。何せ、相手はれっきとした侯爵家である。
そんな由緒正しき上級貴族様方が、下級貴族の、それも処刑寸前までいったいわくつきの婚約者のことを一体どんな風に思っているのか――
これはちょっと早まったかも知れない、とコニーは今さらながら少しだけ後悔していた。
『でも、お前もやるじゃない』
「……ん?」
『あの甲斐性なしが役に立たないから、外堀から埋めてしまおうっていう魂胆でしょう? またとない機会だものね』
「……んん?」
『ちょっとだけ見直してあげてもよくってよ。だってこんなこと、遊び好きのご令嬢だってなかなか大っぴらにはやらないもの』
「……んんん?」
『結婚前に――泊まりがけの旅行だなんて、ね?』
「ぶっ……!」
突然奇声を発したコニーに、向かいの席で書類に目を通していたランドルフが顔を上げた。不思議そうな表情を浮かべてこちらに視線を寄越してくるが、コニーはものすごい勢いで襲ってくる羞恥に思わず顔を逸らしてしまう。
だって、そんなつもりは、これっぽっちもなかった。
泊まりと言っても事情が事情だし、もちろん道中の宿の部屋だって別だった。スカーレットが茶化すような空気では微塵もなかったのだ。
そもそもコニーがついていきたいと言ったのは、あの時、報せを受けたランドルフがいつになく動揺しているように見えて――
ああ、ひとりにさせたくないな、と思ってしまっただけで。
『――あら、やっと見えてきたわよ』
真っ赤になった顔を両手で覆い、恥ずかしさに苛まれていると、こちらの気持ちなど気にも留めない女王さまがふいに弾んだ声を上げた。
車中に備えつけられた小窓を見れば、いつの間にかブランドン領に入っていたようだった。
気づけば道は舗装されたものとなり、しばらくすると半円状の門を抜ける。なだらかに続く道の両側にはライラックの樹々が並んでいた。
程なくして、薄紫の花に導かれるようにして優美な邸宅が現れる。
どうやらあれがランドルフの母親の生家――ブランドン侯爵家の屋敷のようである。
書籍版がそろそろ発売ということで活動報告に浮かれた詳細を載せております。Web版との違いなども書いてありますので、ちょっくら読んでやるかという御仏のように心の広い方がいらっしゃいましたらぜひ。