13
「イヴリー・コーエン?」
ランドルフは眉を顰めると、言葉を続けた。
「彼が内通者なのか?」
コニーはこくりと頷いた。
スカーレットによれば、例の書類には内通者として『イヴリー・コーエン』という名が記されていたという。
コニーはその人物を知らないが、ランドルフには心当たりがあるようだった。何やら難しい表情を浮かべるとそのまま黙り込んでしまう。
「――ランドルフ」
そこに、カイル・ヒューズが合流してきた。相変わらず舞台役者のように見栄えのする青年である。
「さっそくレディ・スミスが鶏を絞めてくれたぞ」
しかし、その口から飛び出すのは麗しい台詞などではなく、ひどく物騒な単語だった。
「マーク・ロゥの殺害を認めたそうだ。ただ、その前の密偵殺しは知らないとさ」
「なら、それはおそらくイヴリー・コーエンの仕業だろう」
ランドルフが告げると、カイルは驚いたようにわずかに目を見開いた。
「……あいつが内通者だったのか?」
「ああ。――大臣が心配だ。彼らが宿泊しているホテルに急ぐぞ」
「待ってくれ。ふたりが共犯だって可能性は――」
「それはない。イヴリー・コーエンは反和平派だった」
ランドルフはそう言いながら意味ありげな視線をコニーに寄越した。きょとんとしていると、スカーレットが『あの報告書によればそうみたいね』と応じる。コニーは慌ててこくこくと頷いた。
「――奴の目的は東西の和平を妨げ、西を支配することだ。きっかけとなった地下用水路の件も意図的に仕組まれたものだろう。おそらくモーシェ・バルシャイの密偵はそのことに気がついたんだ。そしてシラ・ナバムの暗殺計画を知り、何らかの方法で《砂漠の薔薇》を手に入れた。きっとそのままモーシェと落ち合う手筈だったはずだ。しかし、その前に事態を察したイヴリーの手によって殺害された」
ランドルフの説明を聞きながら、コニーの頭にふと疑問が浮かぶ。それはスカーレットも同じだったようで、独り言のような声がぽつりと落ちた。
『だとすれば――』
だって、今の説明には――登場していない人物が、ひとりだけ、いる。
『――エリ・レヴィは、一体何者なのかしら?』
〇
「和平など、所詮、夢物語ですよ」
モーシェの首元に短刀を突きつけたイヴリーは穏やかに告げた。
「手を取り合って得られるものは何ですか? 確かに、アデルバイドのように豊かな国であればそれもいいでしょう。けれど、砂漠の資源は限られている。今ですら水も作物も充分ではない。なのに、手を繋ぎながら仲良く干からびろと? 冗談でしょう? ならその手を切り落とし、相手の血を啜ってでも生き延びる方がよほどいい。共存できないのであれば、搾取すべきだ。綺麗ごとなど捨て、相手を敵と認めるべきだ。敵は殺せと、そう教えてくれたのは他でもないあなた方でしょう? 我々の存在意義は、そのためにあるのでしょう?」
イヴリーは珍しく熱に浮かされたように饒舌に語った。
モーシェは小さく呻いた。
「……だから、私も殺すのか」
「あなたは思想は危険ですから」
十年来のつき合いなどまるでなかったかのようにあっさりと肯定する。その酷薄さに、こんな状況だというのにモーシェは思わず苦笑してしまった。
「……君とは、うまくやってきたつもりだったんだがな」
「私も、あなたのことを好ましく思っていましたよ」
意外な返答にモーシェは瞬きをした。
「だからこそ、残念です」
淡々と告げるその表情には微塵の変化もなかった。イヴリーはそのまま短刀をゆっくりと振りかざす。
モーシェは小さく息を呑み込むと、覚悟を決めたように目を閉じた。
――けれど次の瞬間、耳を劈くような破裂音とともに部屋の扉が蹴破られた。
〇
知らないおじさんが、ふたり。
ひとりは細くて、もうひとりはふくよかだ。
ナイフを相手に突きつけていたのは細い方だったので、おそらく彼がイヴリー・コーエンなのだろう。
そのイヴリーは、今は地面に押さえつけられ身柄を拘束されている。少し離れたところでぐったりした様子で椅子に座っているのがきっと大臣に違いない。
コニーはわずかに顔を引き攣らせながら、その光景を眺めていた。
――あっという間の出来事だったな、と。
東シュキタルの要人たちの宿泊先に向かったランドルフたちは、室内にふたりがいることを知ると強引に部屋に押し入った。否、正確に言うとカイル・ヒューズが問答無用で扉を蹴破った。
幸いだったのは、本当に大臣の身が危なかったことだ。そうでなければただの犯罪行為になっていただろう。洒落にならない。
ちなみに先陣を切ったカイル・ヒューズは、突然の襲撃にイヴリーが動揺している隙に回し蹴りでナイフを薙ぎ払うとそのまま相手を地面に沈めたのである。
「……これですべてが解決したと?」
イヴリーの口から嘲笑するような声が漏れる。
「だとすれば滑稽な話だ。私など、ただの駒に過ぎないというのに」
それは、どういう意味だろう。コニーが内心首を傾げていると、スカーレットがどうでも良さそうな口調で告げた。
『でしょうね』
コニーは思わず顔を上げる。すると、呆れたような表情に出迎えられた。
『つまり、黒幕は反和平派とかいう偉そうな奴らなんでしょう? こいつを捕まえたところで、東西の問題は何も変わりはしないわ』
確かに、このままでは西シュキタルと東シュキタルの仲はこじれたままだ。
「――残念ながら、モーシェ・バルシャイ、あなたが今さら何をやろうとすべて無駄だ。シラ・ナバムは東西の和平の象徴だった。彼がいたから西も動いた。シラ・ナバム亡き今、わざわざ和平などといういばらの道を進む者などいない」
図星だったのか、大臣――どうやらモーシェ何某というらしい――が厳しい表情を浮かべる。
重たい沈黙が落ちた。
コニーも思わず固唾を呑み込む。
――その時だった。
「まあ――東にはな」
聞き覚えのある飄々とした声がどこからともなく聞こえてきた。
はっとして顔を上げれば、壊れた扉からひとりの青年が入ってくるところだった。
青年は室内を一瞥すると、向けられた視線を物ともせず大臣に近づいていく。
その手に握られていたのは、いつか見た銀製のペンダントだ。
大臣が何かに気づいたように息を呑んだ。「それは、バスケスの――」
エリは、小さく頷いた。
「あんたに返すよ。俺が持っているよりずっといい。色々遅くなって申し訳なかった。あの馬鹿、何の情報も残さないまま逝っちまうから――」
「君は……?」
どうやらモーシェ・バルシャイも突然現れた青年のことを知らないようだった。困惑したように口を開く。
するとエリは腰元から記章のついた革張りの手帳を取り出すと、相手にわかるように掲げてみせた。
「――西シュキタル情報局のエリヤフ・レヴィだ」
〇
「……西シュキタル、情報局…………?」
コニーは聞き慣れぬ単語を繰り返した。すると「……ああ、なるほど」というランドルフの呟きが聞こえてくる。
疑問符を浮かべながら視線を向ければ、ランドルフが「西の捜査機関だ」と耳打ちしてくれた。
「……ん?」
よくわからないまま、視線を前方に戻す。
そこにいるのはやはりコニーのよく知る嘘つきな異国の青年である。けれど――
「よう、イヴリー・コーエン。地下用水路の件もお前たち反和平派の仕業だってな?」
いつになく口調はしっかりしているし、心なしか表情も、精悍、なような――
コニーは呆然としながら呟いた。
「ええと、つまり、彼は……?」
「ああ、西シュキタルの特別捜査官だ。――道理で東側を調べても情報が出てこないはずだ」
ランドルフが納得したような口調で告げる。
納得できなかったのはコニーである。
「へ……?」
――特別捜査官?
「……それをどうする気だ」
ふいに聞こえてきた硬い声に、混乱の極みにいたコニーは我に返った。
気がつけば、先程まであれほど余裕のあったイヴリーがわずかに強張った表情を浮かべている。
いつの間に取り出したのか、エリ・レヴィの手には先ほど広場で見つけた書類があった。
『あら、形勢逆転ね。これで西シュキタルが東を追いつめることができるわ』
コニーが呆然としていると、ふいに象牙色の瞳と目が合った。
どう反応していいかわからずに、とりあえずへらりと笑いかけてみる。
するとエリは脱力したように大きく溜息をついた。
「……ん?」
それから、何故か手にしていた証拠の書類をモーシェの方に向ける。
「……んん?」
相手は東シュキタルの要人である。西ではなく。
――エリ・レヴィは西側の人間ではなかったのか。
敵に塩を送るような行為に、モーシェも困惑した表情を浮かべていた。
「いらねえの?」
「いや……しかし、本当にいいのか?」
確認するように問えば、エリは憮然とした顔つきで断言した。「よくないに決まってるだろ」
「は……?」
「確かにうちがこの情報を公表すれば面子は保たれるし、東からの水の支援も望める。まさに願ったりだ。だが、困ったことに――和平とかいうやつは遠のくんだよ。それは公平じゃない」
「公平……?」
「ああ。そもそも、どうして西がこの情報を得られたと思う?」
「それは――」
「バスケス・ジェイだよ」
そう告げた途端、モーシェが不可解そうに片眉をつり上げる。
「あいつは親書を【暁の鶏】から奪還した後、単身西に乗り込んで情報局に身売りしたんだ」
「……なぜ、そんなことを」
「わからないか? シラ・ナバムが死んだからだよ。東シュキタルで反和平派が力をつけているなら、状況をひっくり返すには西を動かすしかない。まあ、あとは裏切者があんたの身近な人間だったっていうのも大きかっただろうな。下手に情報を漏らせばあんたの命が危ないし」
「……それで追手にも気づかず下手を打ったというわけか」
モーシェが皮肉気に口元を歪めれば、エリは首を振った。
「――いや。あいつは追手が迫っていると知っていたよ。知っていて、わざと囮になったんだ。とめようとしたんだけどな。けっきょく出し抜かれたよ。……バスケスが逃げなかったのは、《砂漠の薔薇》をあんたに渡すためだ。確実にな。まあ、それが仇になってこんな回り道になったわけだが……」
エリはわずかに眉を寄せた。
「とにかく、俺たちのところにやってきたあいつはこう言ってたよ。シラ・ナバムが死んでも、あんたがいれば西と東は同じ道を歩いていけるって」
沈黙が落ちる。
ややあってから、モーシェは口を開いた。
「……バスケスは、死んだんだな」
「ああ。身元不明の遺体として王立憲兵局に引き取られているはずだ――そうだろ?」
問うような視線を受けて、ランドルフが頷く。
エリはわずかに目を伏せた。
「こちらの力が及ばず申し訳なかった。ご家族にもお悔やみを」
「あれに家族などいないよ。野垂れ死にかけていたのを私が拾った」
するとエリ・レヴィはしばらく押し黙ってから、徐にこう切り出した。
「――バスケスは、東に家族がいると言っていた」
モーシェがぴくりと眉を持ち上げる。
「あいつは、その認識票を握りしめながら事切れてた。てっきり正体を隠してくれっていうメッセージかと思っていたけど、違ったんだな。それはあんたがバスケスにやったものなんだろう? ……あいつの言っていた家族はあんたのことだったんだ」
そう言うと、エリはモーシェに向き直った。
「立派な最期だったよ」
「――そんなものに立派も糞もあるものか」
一拍置いて聞こえてきたのは、ひどく平坦で冷え切った声音だった。コニーが驚いて視線を向ければ、モーシェは素っ気なく肩を竦めていた。
「こんなことは腐るほどある。いちいち感傷に浸れと?」
けれど、言葉とは裏腹に、そこに浮かんでいたのはひどく疲れたような表情で。
「そんな暇などあるわけがない。大義のための犠牲に立ち止まる時間などない。だから我々がすることは――ただ、忘れないだけだ」
そうしてわずかに目を細めると、認識票に刻まれた文字を優しくなぞった。
死を、記憶せよ。
そこには確か、そう書かれていたはずだ。
それからモーシェ・バルシャイは囁くように呟いた。
「……あれほど気をつけろと言ったのに。まったく、そそっかしいところは死ぬまで治らなかったな」