12
コニーはエリに肩を組まれるような格好で大通りを歩いていた。
ぴったりと寄り添う姿は、傍目には恋人同士のように見えることだろう。周囲には人の目もあったが、怪しむ者はいないようだ。実際は、死角にナイフを突きつけられているのだが。
「あのう……」
コニーは恐る恐る口を開いた。
「なに」
応じる声はひどく素っ気ない。途端にめげそうになる心を叱咤してコニーは言葉を続けた。
「エリさんは、【暁の鶏】なんですか?」
「違う」
「じゃあ、さっき襲ってきた人たちの仲間?」
「冗談だろ」
今度は鼻で笑われた。もちろんコニーも本気でそう思っていたわけではなかったが。
「――なら、あなたは何のために《砂漠の薔薇》を探しているんですか?」
知りたいのは、その理由だった。
わずかに沈黙が落ちる。
しばらくしてから、何かを躊躇うような口調でエリは告げた。
「……目の前に助けを求める人間がいたら、あんたは、きっと助けるだろう?」
コニーは二、三度瞬きすると、不思議そうに首を傾げた。
「いや、時と場合によるんじゃないかと」
「うそだね」
間髪入れずに一蹴される。
「あんたは、きっと助けるよ。あの時、俺を助けたみたいに」
そう言うと、エリは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「本当は別の方法を取るつもりだったんだ。もっと安全で、確実なやつ。俺の立場ならそうすべきだった。でも、それはあいつの願いじゃない。バスケス・ジェイは、自分のためじゃなくて、もっと大きなものを救うために助けを求めてた。そのために命を落としたのに、報われないんじゃあまりにも浮かばれないだろ」
己に言い聞かせるように吐き出された台詞の真意は、残念ながらコニーにはよくわからない。けれど。
「巻き込んじまって悪かったな」
けれど、ぽつりと落とされた言葉はおそらく彼の本心なのだろうと思う。
「《翼を持つ蛇》の居場所を教えてくれ。そうしたらあんたを解放する」
だからコニーは少しだけ逡巡すると、ゆっくりと首を振った。
「ええと、それは、ちょっと難しいかな、と」
「は?」
「我が家のモットーに反するというか」
「……は?」
視界の端で、スカーレットが大きく溜息をついた。
「つまり、エリさんは何かを救いたいんですよね? だったら、ひとりより、ふたりの方がいいですよ、きっと」
エリが呆気に取られたようにぽかんと口を開ける。
「……この期に及んでまだ首を突っ込む気か? 馬鹿じゃないのか、あんた。お人好しにもほどがある」
まるで得体の知れない生き物でも見つけたような表情に、コニーはきょとんと首を傾げた。
それから、いたずらっぽく口の端をつり上げる。
「いえ、ただの考えなしなんです」
言いながら、スカーレットの方を見る。彼女は非常に不服そうな表情を浮かべながらも、コニーと目が合うと渋々頷いた。
「さあ、行きましょう。《砂漠の薔薇》は――」
深紅のドレスがふわりと動いた。そのまますっと腕があげられて、ほっそりとした指がひとつの場所を示す。
コニーは、通りの向こうに聳える鐘楼に視線を向けた。
「――サンマルクス広場にあります」
〇
『砂漠の薔薇から、何か匂いがするって言っていたでしょう?』
広場を目指す道すがら、スカーレットが説明をする。
『あれはオリバナムの香りだったわ。きっと、焚かれていたものがうつったのね』
――オリバナム?
どこかで聞いたことがある言葉だとコニーは思った。
『それも、かなり上質なものよ。滅多に手に入らないんだけれど、ちょうど催事展で売られていたことを思い出したの』
そこでようやく合点がいった。ミレーヌたちと訪れた大シュキタル展。そこで立ち寄った、桁がひとつ違う高級香料商の天幕のことだ。
『店の名前はストラックス――シュキタル風に読むならステュラクスね』
〇
程なくして到着した催事展は今日も賑わいを見せていた。
『ああ――ここね』
雑踏を通り抜けながら、スカーレットが見覚えのある刺繍の天幕の前で立ち止まる。今日は店主だと思われる男が店先に出て、いくつかの香料を調合していた。
俯いた男のうなじには青い染料で入れ墨が彫られている。
「翼を持つ、蛇……」
コニーは思わず呟いた。
蝙蝠のような羽を広げているのは、まごうことなき一匹の蛇だ。
エリが店主に近づいていく。
「あんた、ちょっといいか」
言いながら、胸元から例の鉱物を取り出す。
それから声を潜めながら、ワジの約束を果たしに来た、と告げる。
店主はゆっくりと顔を上げた。そして、エリの手の中にあるものに気づくとわずかに目を眇める。
無言のまま立ち上がると、奥に向かって声を張り上げた。
「――ネリ、店仕舞いだ!」
すると褐色の肌の少女がひょこっと顔を出した。少女はぱたぱたと駆け寄ってきたかと思うと、手早く入り口を敷布で覆っていく。
薄暗くなった天幕内で店主は低く告げた。
「ちょっと待ってろ」
そう言うと、天幕の奥へと消えていく。
しばらくして戻って来た時には一冊の古い本を手にしていた。それをエリに手渡しながら低い声で訊ねてくる。
「バスケスはどうした」
「死んだよ」
店主は一瞬だけ眉を寄せると、大きく溜息をついた。
「……なるほど。厄介ごとはごめんだ。俺は何も知らないし、聞いていない。悪いがそいつを持ってさっさと出て行ってくれ」
「言われなくてもそうするさ」
エリ・レヴィは肩を竦めると本を抱えたまま天幕を出て行った。コニーも慌ててついていく。
人目を避けるように静かな木陰を見つけると、その下で本を開いた。
どうやら中身は長方形にくりぬかれていたようで、その窪みに封筒が入っている。
「西シュキタル議会の押印だな。そうすると、これがシラ・ナバムの《砂漠の薔薇》か」
封筒を取り出し、印章を確認したエリはそう独り言ちた。
『まだ何かあるわ』
スカーレットが声を上げた。見れば、くりぬかれた部分にぴったりと嵌まるように便箋が折りたたまれている。書かれている文字はどうやらシュキタル語のようだ。
「これって……」
コニーの声に、エリが封筒から視線を外した。そして本の中に便箋が残されていることに気づく。わずかに眉間に皺を寄せると、便箋を手に取り、ぱらぱらと内容を確認していった。
その顔から、次第に表情が抜け落ちていく。
「そうか、内通者は――」
呻くような声が漏れた。どうしたのだろうと案じていると、ふいに声を掛けられる。
「――なあ」
「はい?」
見上げたエリの表情は、あいにく逆光に照らされてよくわからない。
「先に謝っとく。悪いな」
「へ?」
コニーはきょとんと目を瞬かせた。何故だかエリの顔がとても近い。そのまま抱き寄せられるように腕が後ろに回される。
『あ、コニー、避け――』
どこかでスカーレットの声がした。
けれど疑問に思う間もなく、とん、と首の後ろに手刀が入る。
次の瞬間、ぐらりと視界が暗転した。
〇
ひんやりと心地良い感触がして、コニーはゆっくりと瞼を開いた。
「気がついたか?」
低い声に、精悍な顔立ち。
吸い込まれそうなほど澄んだ紺碧の双眸がこちらを覗き込んでいる。
これは、夢だろうか。
だとしたら、なんてすばらしい夢。
「ランドルフ、さま……?」
霞がかった思考のままそう呟けば、ランドルフは無言のまま頷いた。相変わらず表情に乏しいけれど、その目にはわずかに案じるような色を滲ませている。
ああランドルフさまだ――とコニーの頬がだらしなく緩んだ。それからぽろりと言葉がこぼれる。
「ランドルフさま、ごめんなさい」
ほら、夢であればこんなに素直に言えるのに。
ランドルフが驚いたように目を見開く。それからそっとコニーの手を取った。
「……いや。謝らないといけないのは俺の方だ。色々と、すまなかった」
コニーはぶんぶんと首を振った。その拍子に濡れた布巾が額から落ちる。
――濡れた布巾?
「それより、体調は大丈夫か? 広場で倒れていたんだ。見たところ怪我はしていないようだが」
頭上では青い空が広がっていた。雲が緩やかに流れていく。
どうやら夢の中でもまだサンマルクス広場のようだった。状況がよくわからないが、ベンチにでも寝かされている設定なのだろう。
状況に疑問を覚えながら頭を動かすと、かたい腹筋に鼻がぶつかる。
(……ん? 腹筋?)
そう。コニーの目の前にあるのは間違いなく軍服姿の青年の鍛え抜かれた腹である。
何だかとてつもない違和感とともに、ぼんやりとしていた意識が徐々に浮上していく。
(…………んん?)
そう言えば、頭の下には枕が敷かれているようだ。ちょっと――ではなく、かなり硬めの。
(………………んんん?)
いや、違う。
これは枕などではなく、人間の大腿部ではないだろうか。
重大な事実に気がついてコニーは脳は一気に覚醒した。これは夢ではない。
夢ではなく、本当に膝枕をされている――と。
「ちょっ……!?」
「どうした? あまり急に動かない方がいいと思うが」
思わず飛び起きようとした身体を、ランドルフがやんわりと押し戻す。
「い、いえ、その、ええと、これは……」
いったいどういう状況なのかと訊きたかったのだが、ランドルフは違う意味に受け取ったようだった。
「ああ、事情ならキンバリー・スミスから聞いている。ミレーヌ嬢は無事だそうだ」
それから少しだけ眉を下げる。
「……心配した」
「うっ……」
なぜだか急に心臓が痛くなり、意味もなく視線を泳がせていると、呆れたように頬杖をついているスカーレットと目が合った。
「馬車を呼んであるから屋敷まで送って行こう」
ランドルフはこのまま抱きかかえていくつもりなのか、背中に腕が回される。その時、はっとコニーは思い出した。
「そうだ! 《砂漠の薔薇》が見つかったんです!」
そう叫べば、ランドルフは驚いたように瞬きをした。
「どうして、君がそれを?」
けれどすぐに理由に思い当たったらしい。エリ・レヴィか、とわずかに目を眇める。
「はい。西シュキタルからの封書がありました。それに、何か、報告書のようなものも。エリさんは、それを読んで内通者がわかったって」
だから彼はコニーを置いていったのだろう。
するとランドルフは厳しい表情を浮かべた。
「……奴を見つけ出して内容を確認する必要があるな」
「あ、それなら大丈夫です」
ちらりとスカーレットを見れば、面倒そうに肩を竦めながらも人差し指でこめかみをトントンと叩いてみせる。
コニーはにっこりと微笑んだ。
「ここにも、あるので」
〇
ホテルの一室に戻ったモーシェは椅子に腰かけると天井を仰いだ。眉間をほぐすように指で押さえると、重い息を吐く。
バスケス・ジェイは失敗した。
つまり、《砂漠の薔薇》は回収できなかったということだ。
ならば、すぐに出国して反和平派を封じる次の手を考えるしかない。
「……例の諜報員から連絡はありましたか?」
死んだように動かないモーシェを案じたのか、イヴリーがそう訊ねてくる。
モーシェは目元を手で覆ったまま力なく首を振った。
「……そう、ですか。だとすれば、もしかすると彼はもう――」
「イヴリー」
モーシェは弾かれたように顔を上げると、相手の言葉を遮った。
イヴリーが不思議そうな表情を浮かべる。
その顔をじっと見つめながら、モーシェは訊ねた。
「私は、私の犬が男だと話したことがあったか?」
イヴリー・コーエンは眉ひとつ動かさなかった。当然だ。彼らはそういう風に訓練されている。
「ええ。確か、以前に」
動揺など微塵も感じさせず、当たり前のように返す口調は、まるで、こちらの方が勘違いをしていたのではないかと思わせるほど堂々としたものだ。
けれど――
「なあ、イヴリー。お前もよくわかっているはずだろう。情報の漏洩は命取りになる。たとえ、それが誰であろうと」
大義のためとはいえ、これまでどれほどの命がこの手からすり抜けていったか。
「だから、言うはずがない。私が、言うはずがないんだ」
己の手で潜入させた人間の情報は誰にも伝えないこと。
それが、数多の部下たちの死と引き換えにモーシェが得た唯一の教訓だった。
「答えるんだ。なぜ、お前がそれを知っている?」
「――いやな予感はしていたんです」
ふう、とイヴリー・コーエンは嘆息した。
「彼は、最期まであなたとの連絡手段を口にしなかった。なので、生存を装うことができませんでした」
珍しく皮肉気にそう言うと、テーブルに置かれた袋入りの焼き菓子に視線を移す。
「なるほど。あの少年が伝言役で、符牒はアニスのクッキーですか」
「……お前が内通者なのか」
信じられない気持ちで呟く。
「なぜだ。なぜ、お前が――」
確かに友人と呼ぶほどには親しくなかった。けれど、一か八かの賭けに巻き込むほどには信頼していた。
呆然と見つめれば、イヴリーはまっすぐな視線を返してこう言った。
「祖国のためです」