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※流血描写があります。
太陽の、入れ墨。
忘れるわけがない。それはほんの数カ月前までこの国を破滅させようと暗躍していた犯罪組織――【暁の鶏】の象徴だ。
コニーの全身から一瞬にして血の気が引いていく。何とかしなければと気持ちはひどく急くものの、真っ白になった頭では何も考えられない。
呆然と立ち尽くしていると、冷静な声がコニーの耳朶を打った。
『ラタン聖堂なら、確か、サントベル通りから馬車が出ていたはずよ』
その言葉にハッと我に返った。ぐっと拳を握りしめると、そのままくるりと踵を返す。
驚いたような声を上げたのはエリ・レヴィだった。
「え、どした、急に」
コニーは一瞬悩んだが、足をとめることなく声を張り上げた。
「ミレーヌに忘れ物を届けてきます! すぐ戻るのでエリさんはここでちょっと待ってて!」
「は……!?」
背後で何か声が聞こえた気がしたが、立ち止まっている余裕はなかった。
――【暁の鶏】の非道さは嫌と言うほど知っている。首を突っ込んできた一般人を見逃してくれる保証はない。
息を切らせながら全速力で駆けていく。しばらくすると遠目にミレーヌの姿が見えた。
「ミレっ……!」
けれど、残念なことにコニーの声はミレーヌの元へは届かなかった。ちょうど乗合馬車がやってきて彼女は乗車してしまったからだ。
次の馬車を待つべきか、否か。
今度は、悩んだりはしなかった。
ぐっと拳を握りしめると、コニーはまた地面を蹴った。
〇
「――ここ、だよね」
小さく呟いた声は思いのほか反響した。
あれからすぐに別の通りから出ている馬車に乗り込んだコニーは、周囲を警戒しながらミレーヌを探していた。
ラタン聖堂は王都郊外に佇む歴史ある建造物だ。聖堂にしては珍しく木造式で、数カ月前に落雷によって半焼した。まだ補修工事の途中だったはずだが、今日は休みのようで、ひっそりと静まり返っている。
だいぶ修繕が進んだ聖堂内を進んでいると、三女神の像の前で倒れる少女を見つけた。
「っ、ミレーヌ……!」
慌てて駆け寄ろうとすると、『後ろ!』と鋭い声が飛んでくる。同時に電撃が閃いた。ばちばちっという音とともに低い呻き声が上がる。振り返った先では男がうずくまっていた。黒い布で頭部と顔の下半分を隠している。その足元には鋭い切っ先の短刀が転がっていて、コニーはぎょっとして後退った。そして気づく。
囲まれて、いる。
音もなく忍び寄ってきたのか、それとも最初からいたのか。答えはわからないが、ひとりやふたりではない。全員が目の前で膝をつく男と同じように武装し、布で顔を隠している。
心臓が早鐘を打った。逃げなければと頭ではわかっているのに凍りついたように体が動かない。
すると、そのうちのひとりが目を細めてナイフを構え直した。そして、そのまま助走をつけて襲い掛かってくる。
スカーレットが焦ったように声を荒らげた。
『コニー!』
わかっている。けれど、ダメだった。足が竦む。恐怖に呼吸が乱れる。
――その時、金色のかたまりが疾風のように飛び込んできた。
太陽のような毛玉は、今にも振り下ろされようとしていた腕に勢いよく飛びかかると、鋭い牙を立てる。
次の瞬間、男の悲鳴が上がった。からんという音ともにナイフが地面に落ちる。
危機を脱したコニーは呆けたように声を漏らした。
「……クゥちゃん?」
砂漠狐はその大きな瞳でちらりとコニーを一瞥すると、つん、とそっぽを向いた。
呆然とするコニーの目の前で、鋭く空を切る音がした。残りの男たちが次々に倒れ込んでいく。驚いて視線を向ければ、その身体に鋭く刺さるものが見えた。短刀ではない。細長い針のようなものだ。血は出ていない。なのに、屈強な体格の男たちが起き上がることができないでいる。
ゆっくりと顔を上げれば、唯一その場に立っていた青年が凍てつくような眼差しで男たちを睥睨していた。
いつも太陽のように輝いていた瞳が、今は、あまりにも冷たい。
「エリ、さん……?」
思わず呟けば、青年――エリ・レヴィはひどく困ったように眉を下げた。
お互い黙ったまま見つめ合う。
重たい沈黙を破ったのは、場違いなほど甲高い声だった。
「――あら。何だか予想と違う状況ね」
はっとして声の方に視線を移せば、いつの間にか入り口付近に全身ピンクの小太りの女性が立っていた。彼女は地面に伏したまま覆面の人間たちを見下ろすと、愉しそうに唇をつり上げる。
「……ああ、なるほど。針先に痺れ薬が仕込んであるのね。こちらの手間を省いてくださって感謝するわ」
そう言ってにっこりと微笑むと、すっと腕を振り上げた。
すると、それが合図だったかのように彼女の背後から幾人もの若者たちが現れ、次々と室内に踏み込んでいく。
「え」
驚くコニーの目の前で、彼らは躊躇うことなく身動きの取れない黒づくめたちを次々と捕縛していった。
「……貴様ら、何の権利があってこんなことを」
捕らえられたひとりが歯を剝き出しにして低く呻いた。
「いいのか、我々は――」
「――まあ、怖い顔。いったい何のお話かしら?」
しかし、相変わらずフリルたっぷりのドレスを纏った女性は無遠慮に相手の話を遮ると、わざとらしく首を傾げてみせる。
それから、ゆっくりと男を見下ろした。
「初めまして、坊や。あたくしは、キンバリー・スミス」
そして次の瞬間、ぞっとするような鮮やかな笑みを浮かべたのだった。
「通りすがりの――しがない一般市民よ」
〇
「一般市民だと?」
キンバリー・スミスに食ってかかった男は、両手を後ろに拘束されたまま唸り声を上げた。
「ええ、その通りよ。どこにでもあるような市民団体に所属する、どこにでもいるような一般市民」
「ふざけるな。なら、こいつらは」
なおも食い下がる男に、キンバリーは可笑しそうに噴き出した。
「だから、市民団体の一員だって言ったでしょう? いやだわ、ご存知ないの? 最近はね、市民が自衛のために武装をする時代なのよ?」
言いながら白々しく頬に手を当てると、おっとりと首を傾げる。
「ところで、よろしければ教えて頂ける? 暴漢に襲われていた少女たちをたまたま見つけてたまたま助けたことの、いったい、どこが問題なのかしら?」
そう告げれば、男が悔しそうに口を閉ざした。
「お答え頂けなくて残念だわ」
けれど、おそらく傷口に塩を塗り込んだ後に踏みつけるのがキンバリー・スミスのやり方なのだろう。
「――なら、憲兵隊が来るまで不審者の身柄を拘束しておかなくちゃ。それが善良なる市民の務めというやつだもの。ああ、本当に、たまたま通りがかってよかったわ」
流れるようなやり取りを前に、コニーはぽかんと口を開けていた。スカーレットが『あらあら』と肩を竦める。
『あの子たちったらうまく使われたのね』
「え?」
『ミレーヌとケイトよ。事情はよく分からないけれど、この場を憲兵や軍人が対応するのでは何か問題があったんでしょうね。だから、キンバリー・スミスが出てきたのよ。ちゃんと無関係な市民が被害にあったって言う大義名分を作ってね』
コニーは思わずキンバリーを見た。すると、自称・一般市民の彼女はにっこりと微笑んで口元に人差し指を立てる。ちっとも悪びれることのない態度にコニーの頬がわずかに引き攣った。
「それじゃあ、あなたもこちらに来てもらえる?」
キンバリーはそう言いながら、いつの間にか懐から取り出していた拳銃をコニーの背後にいるエリ・レヴィへと向けた。
物騒な状況にぎょっとしていると、ぐいっと思い切り身体を引き寄せられる。
「――へ?」
そのまま首に腕を回され、頸動脈にひやりとした何かを当てられる。確認するまでもなくナイフの類だろう。
つまり、これはもしや――
盾にされている、というやつではなかろうか。
「ひとつ、訊くけど」
背後から聴こえてくるのは、いつもと変わらぬ飄々とした声。
「俺が、そいつらのお仲間だって証拠でもあった?」
「いいえ、残念ながら」
応じる相手にも動揺は微塵もない。
「なのに、見逃してくれるつもりはないんだ?」
「そうねえ――」
キンバリー・スミスは楽しそうに目を細めた。
「あなたの正体を教えてくれるなら、考えてもいいわよ?」
「……もちろん、しがない一般市民さ。あんたと同じように、ね」
その回答はどうやら合格点を貰えなかったようだ。銃口の矛先は変わらず青年を捉えたままだった。
すると、わざとらしいため息が落ちる。
「信じてもらえなくて、残念だよ。――でも、俺も今捕まるわけにはいかなくてね」
エリは、コニーの首に刃先を当てたままゆっくりと入り口に向かっていく。
「……こちらも、ひとつ、聞いてもいいかしら?」
すれ違う瞬間、キンバリーが口を開いた。
「どうしてその子を助けたの? 罠だと気づいていたでしょう? 見捨てていれば、こんな目に遭うことはなかったのに」
それはもちろん、《砂漠の薔薇》の行方を知っているのがコニーだからである。といっても実際のところ答えを得ているのはスカーレットだけで、コニーは何も知らないのだが。
けれど、黙り込んだエリを見て、キンバリー・スミスは年長者の余裕をもって微笑んだ。
「気をつけなさい、坊や。底なし沼よ」
エリは答えなかった。ただ、コニーの肩に回された腕がぴくりと震える。
「せいぜいはまらないようにすることね」
そう言うと、キンバリーは可笑しそうに声を立てて笑った。
意味がわからず、コニーは思わず顔を上げる。すると、何故かこちらを見下ろしていたエリと目が合った。
エリ・レヴィはひどく嫌そうに顔を顰めると、誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
「……参ったな」
〇
人質を盾にした青年が、こちらを警戒しながらも聖堂を立ち去って行く。
けれどもキンバリー・スミスは黙ったままその場を動かないでいた。
ふたりの姿が完全に見えなくなると、部下のひとりが口を開く。
「代表、あの少女は――」
「放っておいても大丈夫よ」
キンバリーはあっさりと肩を竦めるとそう断言した。「妙に悪運が強いから、あの子」
普段は取るに足らない平凡な少女だが、逆境でのしぶとさは不死身のデュランといい勝負だと思っている。
それに、とキンバリー・スミスは声には出さずに目を細めた。
それに、あの青年はコンスタンス・グレイルを傷つけるようなことはしないはずだ。
「――さあ、鼠探しを始めましょうか。ああ、この場合は鶏かしら?」
そう言って拘束した男たちを見下ろせば、彼らは皆一様に怪訝そうな表情を浮かべた。
「あら、ご存知ないの? あなたたちの中にいる、招かれざるお客さまのことよ」
今日のキンバリー・スミスの仕事はふたつ。
ひとつめは、目の前にいる彼らの動きを封じておくこと。多少想定外の出来事があったものの、それはすでに完了している。
問題は、ふたつめだ。
モーシェ・バルシャイは【暁の鶏】に自らが人選した諜報員を送り込んでいたという。けれど、その男はすでに遺体として発見されている。殺害状況から、特務機関の人間の中に【暁の鶏】の密偵がいる可能性が高い。ただ、それが誰かはまだ特定できていないのだ。
つまり、やらなければいけないのは――鶏探しである。
「どんな方か知りたいでしょう? せっかくだから、教えてあげる。そうねえ、おそらく仲間になったのはここ数年。能力にはまったく問題はないわ。人当たりも良いはずよ。これまで一度も任務に異議を唱えたことはないし、間違っても自ら諍いなんて起こすタイプじゃない。けれど、特別親しい人間もいないでしょうね。入局は誰かの推薦だったはず。その紹介者はきっと権力のある人間ね。ああ、そうそう――」
キンバリーが語るのはあくまでも推測に過ぎない。けれど、きっかけにはなるだろう。おそらくこの場にいる全員が無意識のうちに条件に当てはまる人物を探そうとするはずだ。
なぜなら、仲間である彼らはキンバリーたちよりもよほどよくその人物のことを知っているのだから。
「――数日前に、体調を崩していた」
モリー・ワイズからの報告によれば、マーク・ロゥの殺害現場には神経を麻痺させる薬剤の痕跡が見られたという。周囲に煙玉の破片があったこともわかっている。十中八九、エリ・レヴィの仕業だろう。
麻痺薬の効果は非常に強力で、まともに吸えば半日は碌に動けないだろうという代物だった。
はじめは困惑した様子だった諜報員たちだったが、その表情が次第に疑念へと変わっていく。そして、とうとう視線がひとりの男にうつった。
――それは、最初にキンバリーを恫喝した男だった。
「あら、あなただったの?」
男は舌打ちすると、靴の爪先に仕込んでいたナイフで手首を拘束していた縄を切った。そして、素早く懐に手を伸ばす。
けれど、武器を手にすることはできなかった。
銃声は、一発だった。
正確無比に腕を撃ち抜かれた男が苦悶の表情を浮かべて蹲る。
キンバリー・スミスは無表情のまま、硝煙の立ち昇る銃を構えていた。
それからゆっくりと男に近づいていくと、負傷した方の腕を思い切り踏みつける。男の口から苦痛に満ちた絶叫が上がった。
けれど彼女は表情を一切崩すことなく、男の前髪を掴んで顔を上げさせる。
そして、そのこめかみに太陽の入れ墨があることを確認すると、ようやっと口の端を吊り上げた。
「見ぃつけた」
それから、そっと男の耳元に顔を近づけると「ねえ、坊や」と囁いた。
「――ロースト・チキンはお好き?」