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「ら、ランドルフ、さま……」
コニーは絶望的な気持ちで低く呻いた。
なぜ、彼がこんなところに――
黒い軍服姿の青年は「コンスタンス?」と怪訝そうに眉を顰めた。それからすぐに紺碧の双眸がわずかに見開かれる。どうしたのだろうと思って、はっと自分の状況に気がついた。
今のコニーはエリと身体が密着したままである。もちろん他意などなく事故以外の何者でもないのだが、傍から見ればまるで――抱き合っているようではないか。
そう思った瞬間、反射的に身を引いていた。そのまま素早く相手から距離を取れば、エリが「うん?」と不思議そうに首を傾げる。
コニーはひどく動揺しながら相手の様子を窺った。
けれど、ランドルフの表情は、いつもと変わらず何の感情も浮かんでいないように、見える。
そのことに、何だかほっとしたような、けれど、どこかがっかりしてしまったような――
「……君は」
ランドルフの視線は、すでにコニーではなくエリを捉えていた。軍服を見ればランドルフが憲兵の――それも上位階級だということはすぐにわかるはずだ。そのせいか、エリがわずかに警戒した様子で口を開く。
「俺ですか? しがない商人ですよ。催事展に参加する目的で入国してまして。ちゃんと申請も出してるんで、気になるんなら商会の方に確認してください。名前はエリ・レヴィ」
ランドルフは合点がいったように「ああ」と頷いた。
「君がエリか。ウォルター・ロビンソンから報告は受けている。襲われたそうだな。被害届を出すのを嫌がったと聞いているが、何か理由でも?」
「あのおっさん仕事早えな畜生……!」
エリは小さく吠えると、被っていた猫を放り投げ、がしがしと頭を掻いた。
「商売柄、知らない国で問題を起こしたくなかっただけですよ。ついでに一時的な記憶喪失でして。犯人につながる情報も教えられそうにないし」
(う、嘘つき……!)
すらすらと口から出てくる根も葉もない言葉に、コニーは顔を引き攣らせる。
(……ん?)
ふと視線を感じて顔を上げれば、ランドルフがこちらをじっと観察していた。怒るでも責めるでもなく、ただ静かに何かを問いかけるような眼差しだ。コニーは何とも落ち着かない気分になって、悩んだ末に、そっと視線を逸らす。
そんなことをすれば、まるで自分からやましいことがあると白状しているようなものだったが、残念ながらこの状況をうまく切り抜けられる自信がない。
幸か不幸か、ランドルフはそれ以上こちらに物言いたげな視線を寄越してはこなかった。
「それで、君たちはここで何を?」
非常に答えにくい質問に、コニーの肩が思わずびくりと跳ね上がった。
すると、またもやエリが飄々と嘘をつく。
「グレイルさんは俺の命の恩人でして。倒れていた場所でも見れば記憶が戻るかなと思って、ちょっとつき合ってもらったんですよ。ま、全然だめでしたけど」
「……そうか」
ランドルフは相変わらず表情の読めない顔で頷いた。
「実は、この辺りでちょうど殺人事件が起きたばかりだ」
「ああ、さっき野次馬が話しているのを聞きました」
「君は、一時的な記憶喪失だと言ったな。もしかしたら事件に巻き込まれたのかも知れない。――殺害された店主と面識は?」
「残念ながら、まったく」
エリは間髪入れずに否定すると、それからすぐに朗らかな笑みを浮かべた。
「でも、何か思い出したらすぐに知らせますよ。後で被害届も出しておきます。――じゃあ、俺たちはこれで」
「……へ?」
やましいことなどまるでないような爽やかな笑顔のままそう言うと、エリ・レヴィは呆けるコニーの手を強引に取り、そのまま足早に歩き始めた。
ぎょっとしたのはコニーである。
「ちょ、ちょっと、待っ――」
慌てて手を振りほどこうとすると、焦ったような声が落とされる。
「――3日間待ってくれって言っただろ……! あんた俺を殺す気か……!」
「いやその話まだ納得したわけじゃ――」
けれど、もちろん反論は聞き入れられず、有無を言わさずその場を立ち去ることになったのだった。
〇
「こっわ……!」
通りをひとつ過ぎたところで、エリはあっさりとコニーの手を離した。
「なにあのひと、めちゃくちゃ怖いんですけど!? しかも俺なんか威嚇されてなかった!? 気のせい!? あれ気のせい!?」
別にエリだけに特別おっかないのではなく、あれが死神閣下さまの通常運転なのである。けれど、もし、いつもより恐ろしかったとしたら――
それはきっと、コニーのせいなのだろう。
「……え、どした?」
気を抜くとじわりと涙が滲みそうになるのを堪えながら、コニーは何とか声を絞り出した。
「…………実は、ランドルフさまとは、親しくさせて頂いていて」
「ああ。そういや、さっきも名前呼ばれてたな」
「でも今は、喧嘩中、で」
「ん?」
その言葉にエリが怪訝そうに眉を寄せる。けれど、すぐに何かを察したようにかっと目を見開いた。
「まさか今の恋人……!?」
「つり合ってないのはわかってます…………」
「い、いや、確かにびっくりしたけどそういうわけじゃ……ほら、あんた性格抜け――いや良さそうだし、育ちも良さそうだし、それに貴族のお嬢さんなんだろ?」
「貴族って言っても子爵だし……ランドルフさまは伯爵でご実家なんて公爵だし……」
「で、でもあの兄ちゃん見た目は怖いって言うか近寄りがたいって言うか」
「私なんて地味だしパッとしないし……」
「いや可愛い可愛い! 大丈夫! 自信もって!」
「なんでだろう、エリさんが言うとぜんぜんちっとも大丈夫な気がしない」
そのままぐずぐずと落ち込んでいると、呆れたように「あのさー」と声が掛けられる。
「――大事なのはつり合いが取れてる云々じゃなくて、好き合ってるかどうかじゃないの?」
告げられた言葉は思いのほか正論だった。
コニーはぱちくりと目を瞬かせる。
「あんたはさ、あの無駄におっかない奴のことが好きなんだろ?」
「は、はい……」
「それで、よく知らないけど、あいつもあんたのこと大事に思ってんだろ?」
コニーはほんの少しだけ沈黙した。確かに結婚までに色々な障害はあるが、ランドルフの気持ちを疑ったことはない。
だから、小さく頷いた。
「よし」
にっとエリが口の端をつり上げて笑う。
「なら、それで充分だろ」
絵葉書でしか知らないような、美しい砂漠の世界によく似た瞳がやわらかく細められる。
コニーはぽかんと口を開けた。
「あの……!」
「ん?」
「ありがとう、ございます」
照れ臭い気持ちでお礼を言えば、エリは少しだけ驚いたようにコニーをじっと見下ろした。
それから、「どういたしまして」と再び笑った。
〇
「――あれ、なんか忘れてる気がする」
屋敷へと戻ってきたコニーはそう言うと首を捻った。
するとスカーレットが待ってましたと言わんばかりにふわりと宙から降りてくる。
そう言えば先程から一言も言葉を発していなかった気がする、が――。
スカーレットはコニーと目線を合わせると、にっこりと微笑んだ。
『――探偵ごっこ』
「はっ……!」
思わず間抜けな声が上がる。
「しまった……!」
東シュキタルの要人が例の殺害事件に関与しているかも知れないなどという眉唾物な話。さらに証拠を探すために数日ほど見逃してくれという胡散臭い提案。
これでは暗に了承したと受け取られても仕方がない――のではないだろうか。
青ざめながら硬直していると、ひどくご機嫌な笑い声が落ちてきた。『ねえ、コニー』
恐る恐る見上げれば、スカーレットは久方ぶりに例の捕食者の笑みを浮かべていた。果実のように瑞々しい唇が歌うように言葉を紡ぐ。
『何だかとっても――楽しいことになりそうね?』