幕間
そこは、サンマルクス広場からさほど離れていない路地裏の一画だった。
日中だというのに薄暗く、見るからに怪しげな店が軒を連ねている。お世辞にも清潔とは言えない狭い往来を、褐色の肌に金色の髪を持つ異国の青年が足早に歩いていた。その肩には毛並みの良い砂漠狐が乗っている。
颯爽と進んでいた青年が足をとめたのは、通りの中では比較的地味な印象の酒場だった。まだ陽が高いせいか【閉店】の看板がかかっている。
けれど、青年は悩むことなく今にも壊れそうな扉を叩いた。返事はない。わずかに眉を顰めると、今度は直接扉の取っ手に手を掛ける。
どうやら鍵はかかっていないようだった。不用心なことに、錆びついた音とともに扉が開かれる。
「……ミスター・ロゥ?」
灯りのない店内に向かって青年は呼びかけたが、やはり返事はなかった。警戒するように室内に入る。
すると、噎せ返るような鉄の臭いに気がついた。立ち止まって辺りを窺えば、酒瓶の並んだカウンターの向こうで、店主らしき中年の男が血だまりの中に沈んでいる。
青年はさっと顔色を変えると、カウンターを飛び越え店主のもとへと駆け寄った。店主は腹を裂かれているようで、かろうじて命はあるがすでに朦朧としている。青年は低く呻いた。
「勘弁してくれ――おい、起きろ情報屋! もうあんたしか手がかりがないんだよ!」
声を荒らげれば、男の意識がわずかに浮上した。けれど、その視線はうつろなままだ。さらには青年を追い払うような仕草をするので、舌打ちしながら銀製の認識票を取り出した。
「いいか、俺はあんたの敵じゃない。ほら、よく見ろ。これはバスケス・ジェイのものだろう!?」
刻印の彫られた面を眼前に突きつけてやれば、澱んでいた眼球が徐々に焦点を結んでいく。程なくして事態を察したのだろう。色を失っていた唇が戦慄き、神よ、と動いた。それから、青年に向かって縋るように声を絞り出す。「これ、を」
血だらけの手で渡されたのは、故郷の露店でよく売っているような砂漠の鉱石だった。青年が怪訝に思っていると、男はそのまま言葉を続ける。
「……ステュ、ラクス、の」
「あ?」
「翼を、持つ、蛇、に、ワジの約束を……果たしに、きた……とつたえ……」
言いながら、その双眸が次第に光を失っていく。青年は焦ったように男の肩を掴んだ。
「いや待て待て待て、もっとちゃんと説明――」
必死の懇願もむなしく、次の瞬間、男の身体からがくんと力が抜けた。そしてそのままぴくりとも動かなくなる。事切れたのだ。腹部の傷は一目でわかるほどの致命傷だった。むしろよく持った方だと言えるだろう。けれど。
「あ゛あ゛、畜生!」
青年は頭を掻きむしった。
これでは、何の解決にもなっていない。
くそったれと毒づいていると、傍らにいた砂漠狐が突然ぶわりと毛を逆立てた。そして何かに警戒するように歯を剝き出しにして威嚇する。青年ははっと目を見開くと、反射的に身を捻った。けれど間に合わない。躱しきれずに、物騒な金属音とともに銃弾が脇腹を掠めていく。衝撃に思わず息をつめた。
どうやらまだ残党が潜んでいたらしい。青年は顔を顰めて小さく舌打ちすると、振り向きざまに腰に吊るしていたダガーを投げつけた。当てる必要はない。威嚇用だ。
青年に銃を向けていた男が、短刀を避けようとわずかに上体を逸らす。その隙に懐から取り出した煙玉を思い切り壁に投げつけた。
破裂音とともに勢いよく煙幕が発生する。相手が何事かと怯んだ瞬間、青年は脱兎のごとく店を飛び出した。
〇
一度も振り返らずに路地裏を抜けると、さすがに力尽きて、青年はぐったりと石垣に凭れかかった。煙には即効性の痺れ薬が仕込んであった。しばらくは店内に残してきた男が追ってくることはないだろう。
「痛って……」
傷口を確認すれば、手のひらをぬるりとしたものを伝っていった。幸いなことに弾は掠っただけで、そこまで深くはないようだ。出血量も問題ないだろう。
もちろん、うまく、手当てができれば、の話だが。
普段と違う主人の姿に、砂漠狐が不安そうにきゅいと鳴く。撫でてやろうとしたが腕が痺れてうまく持ち上がらない。青年は小さく嘆息した。
なるべく息を吸わないようにしたつもりだったが、どうやら多少煙を吸ってしまったらしい。
青年はずるずるとその場に座り込むと、そのまま意識を手放した。