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雲ひとつない青空に、荘厳な鐘の音が鳴り響く。
ほどなくして教会の扉が開かれ、宣誓を終えたばかりの一組の男女が姿を見せた。割れんばかりの歓声に出迎えられ、花嫁である少女が幸せそうにはにかんでいる。普段は地味な容姿だが、今日ばかりは宝石のような輝きがあった。男性の方もそんな少女を愛おしそうに見つめている。
寄り添うふたりに降り注ぐように色鮮やかな花びらが舞う。あちらこちらで祝福の声が飛んでいる。
だから、コンスタンス・グレイルも負けじと声を張り上げた。
「――おめでとう、ブレンダ!」
〇
「まさかブレンダが結婚なんてねえ。お相手は幼馴染みですって?」
退場する主役たちを見送りながら、ミレーヌ・リースが意外そうに呟いた。
「ええ。男爵家の跡取りで、幼い頃から将来を誓い合っていたそうよ。すてきよね」
答えたのはケイト・ロレーヌだ。
コニーは不思議な感覚で友人ふたりのやりとりを聞いていた。今日はかつてパメラの取り巻きをしていたブレンダ・ハリスの結婚式だったのだが、コニーの知る限り、この友人たちとブレンダとの間に特別な交流はなかったはずだ。
疑問が顔に出ていたのか、ケイトが笑いながら、例の処刑未遂の一件から親しくなったのだと教えてくれた。
「ブレンダの告発があったから、パメラの証言が見直されることになったのよ」
「そうそう。そのおかげで私の書いた記事も売れたしね」
ミレーヌも得意気に胸を反らす。しかし次の瞬間、悪気の欠片もない口調で爆弾を落とした。
「でも、私、てっきりコニーの方が早く結婚するんだと思ってたわ」
「ははは」
コニーは思わず死んだ魚のような目をしながら乾いた笑い声を上げた。その様子を見たケイトが慌てた様子で口を開く。
「あ、アルスター卿はお忙しい方ですものね! それに独身時代は謳歌した方がいいってみんな言ってるからちょうど良かったじゃない! わ、私もコニーが結婚しちゃったら寂しいし! だから、その……!」
「あれ? そう言えば、噂の死神閣下さまは? 今日はコニーの付き添いとして来てくれるって話じゃ――ぐは!?」
ケイトの肘鉄が目にもとまらぬ素早さでミレーヌの鳩尾に入った。
ミレーヌはその場に崩れ落ち、コニーはさらに乾いた声を上げる。
「ははは……」
――ハームズワース子爵の立ち合いのもと、閣下と再婚約の宣誓をしてから早数カ月。
メイフラワー社の新米記者として並々ならぬ意欲を見せるミレーヌは、先日とうとう若者向けの定期購読紙にコラムを連載できることになったらしい。
ケイトもキンバリー・スミスの私設秘書として忙しくしているようだ。ちょっと前までコニーと同じくパッとしない同盟だったはずなのに、最近は服装も佇まいもどんどん洗練されて、いつの間にかきれいなお姉さんになっている。今日だってケイトのことを邪な目で見ているけしからん輩がいたので、スカーレットに頼んでこっそり遠ざけてもらったのだ。
そんな風に周りが未来に向かって着実な一歩を進めていくなか、コニーは――
なにも、はじまっていなかった。
『やだわ、コニー。お前、気づいたらおばあちゃんになってるんじゃなくて?』
小馬鹿にするような軽やかな声に、ぐぬぬ、と小さく呻く。
気づけば、すでに招待客たちは緩やかに解散し始めていた。人の波に押されるようにコニーたちも正門へと向かう。
すると、門の前が何やらざわついていた。見れば、周囲の好奇な視線をものともしない威圧感たっぷりの全身黒づくめの青年がひとり。
あれは――
次の瞬間、ケイトがはっと口元に手を当てて、「じゃ、じゃあ、私たちはこれで!」と別れの言葉を口にする。そして「え? え?」と戸惑うミレーヌの首根っこを掴むと、そのままずるずると引きずって行った。
「け、ケイト……?」
どうやらいらぬ気を使わせてしまったらしい。コニーはしばらくその場に立ち尽くしていたが、ぐっと拳を握りしめると意を決して歩き始めた。
ずんずんと渦中の人の元へと近づいていけば、精悍な顔つきの青年がわずかに相好を崩す。
「――コンスタンス」
ついでに嬉しそうに名を呼ばれたが、コニーは口をへの字に曲げたまま答えなかった。このくらいの意趣返しは許されるだろう。何せ、「今日は非番だから」と同伴を申し出てくれたのはランドルフの方だったのだから。
だというのに、直前になって仕事の呼び出しが入って行ってしまうだなんてあんまりである。
だから、少しばかり不満を示しても罰は当たるまい。
そう勢い込んでいたはずなのだが――
「遅れてすまない。これでも急いだんだが……けっきょく間に合わなかったな…………」
「おおおおお仕事ですから! 仕方ないです! もうぜんぜん! ぜんっぜん、問題ないです!」
珍しくしょんぼりと肩を落とす閣下を目にした瞬間、反射的に声が出ていた。スカーレットが小馬鹿にしてくるように鼻を鳴らす。いやだってあんな捨てられた仔犬みたいな目で見られたら。
すっかり毒気を抜かれてしまったコニーがおろおろと閣下を宥めていると、通りすがりの御婦人たちのわざとらしい声が聞こえてきた。
「――あら、死神閣下さまだわ。珍しい」
「隣にいるのは例の婚約者の子かしら?」
「でしょうね。噂通り素朴でいらっしゃるみたいだし」
「だいぶ前に再婚約されたと聞いていたけれど、結婚はまだ?」
「そうらしいわね。いくら死神とはいえ、二の足を踏む気持ちはわかるわ。ほら彼女って色々と――いわくつきでしょう?」
「やだ、聞こえるわよ。呪われたらどうするの」
くすくすと嘲笑があがる。
そのやり取りを聞いていたランドルフの双眸がすっと細くなった。無言のまま彼女たちに向かって行こうとしたので慌ててその腕を掴む。
ランドルフはわずかに困ったように眉を寄せて、コニーを見下ろした。
「……コンスタンス」
「大丈夫です。気にしてませんから」
コニーはそう言って、にっこりと微笑んだ。これは虚勢でもなんでなく、ただの本心である。彼女たちはただ陰口が好きなだけであって、本気でコニーを害そうともランドルフに近づこうともしているわけではない。もちろんいい気分はしないが、いちいち目くじらを立てるほどではないだろう。
けれど、なぜかランドルフはさらに眉間の皺を深くした。最近の閣下は驚くほど感情の表現が豊かだ。
今日は珍しいことが続くなあと思いながら見つめていると、背後から唐突に声を掛けられた。
「おや、アルスター卿ではございませんか?」
振り返った先にいたのは、派手な礼服に身を包んだ小太りの中年男性だ。これ見よがしに輝く宝飾品を身に纏っていたが、何よりもその頭頂部がきらきらと光り輝いている。
「――マクスウェル侯爵?」
ランドルフが意外そうに瞬きをした。するとマクスウェルと呼ばれた男は、突き出た腹を揺らしながらぺらぺらと話し始める。
「いやはや偶然ですな、このような場でアルスター卿にお会いするとは。実は花婿とは遠縁でしてね――ああそうだ、今日は娘も一緒に来ているのですよ。ぜひ、ご挨拶をさせて頂いても? 私に似ず、美しいと評判の子でね。良ければ嫁に貰って頂きたいくらいです。すぐに呼んできますので――」
酔っているのか侯爵は上機嫌だった。ついでに何やら聞き捨てならない言葉を発した気がして「うん?」とコニーは首を傾けた。
「……以前にも伝えたと思うが、私には婚約者がいるので」
ランドルフがやんわりと断りを入れる。けれどマクスウェルは冗談だと思ったのか笑うばかりでまともに取り合おうとしない。コニーの心がざわりと波打つ。
――以前にも、ということは、前にもこういうやり取りをしたということだろうか。
今さらながら、ランドルフがどこぞの子爵家とは比べものにならない血統書つきの大貴族だということを思い出した。もしかしたらコニーが知らないだけで、侯爵以外からもこういった誘いは多いのかも知れない。
冷や水を浴びせられたようにすっと血の気にが引いていく。
置物のように動かなくなってしまったコニーに気づいて、ランドルフが案じるような視線を寄越した。けれどもコニーは頑なにそちらを見ないようにする。
不穏な空気が漂い始めたが、話に夢中な侯爵はどうやら気づいていない様子だった。これっぽっちも悪いと思っていない表情で言葉を続けていく。
「でも、まだ――結婚はされていないのでしょう?」
ひくり、とコニーの頬が引き攣った。
「しかもお相手は確か下位貴族のなんとかという――」
おいなんとかってなんだ。
つるりとした頭部を睨みつけながら、コニーはぼそりと呟いた。
「……コンスタンス・グレイルです」
「そう、それだ」
地を這うような声音だったにも関わらず、侯爵はぽんと手を叩いた。晴れやかな表情を浮かべながら振り返り、そこにコニーを見つけて怪訝そうに首を捻る。どうやら、今の今までコニーのことなど目に入っていなかったらしい。それからすぐに、何かに気づいた様子でぴしりと凍りついた。
「……ええと、もしや、あなたが?」
恐る恐る、といった口調とは裏腹に、頭のてっぺんから足の爪の先までじろじろと観察される。まるで残念なものを見つけてしまったかのようなその顔には「え? こんな地味なやつが? まじで? まじで言ってんの?」と書いてある。いやもちろん声には出てないが。
「で、では、私はこれで……」
さすがに気まずくなったのか、侯爵が軽い挨拶とともに背を向ける。
そそくさと退散する男の姿が完全に見えなくなると、コニーは怒りの咆哮を上げた。
「どうせ、パッとしない見た目ですよ……!」
この場に残っている者はだいぶ少なくなったとはいえ皆無ではない。ぎょっとしたようにこちらを振り返る周囲を慮ってか、宥めるような声が掛けられた。
「コンスタンス」
「わかってます、わかってるんです、怒ったってしょうがないことだって。今日なんて約束もしてたけど、それもランドルフさまから言ってくれたことだったけど、来られなかったのは別にランドルフさまのせいじゃない。だって悪いのは悪いことをする悪い奴らだもの」
「コンスタンス」
「だから、今のだってしょうがないんです。ランドルフさまは優秀で、家柄が良くて、見た目だって最初はちょっぴり怖かったけどよく見たら可愛いし、しゅっとしてるし、それに比べて私なんて子爵だし、地味だし、特に取り柄もないし、ちんちくりんだし、ランドルフさまに釣り合ってないことくらい私が一番よく知ってるのに、それを偉そうにあのはげちゃびんめ……」
「……コンスタンス」
つい卑屈な本音を零せば、ランドルフの声に傷ついたような色が滲む。コニーは唇を噛みしめた。
このひとを、困らせたいわけではなかったのに。
「不愉快な思いをさせてすまなかった」
「なんでっ……!」
思わず悲鳴のような声が飛び出る。
「……なんで、ランドルフさまが謝るの…………!」
ランドルフのせいではない。ランドルフだけが悪いわけではない。それはわかっている。わかっているから、必死で気にしない振りをしているのだ。なのに今そんな風に謝られてしまっては――
余計に、みじめではないか。
咽喉が熱くなり、じわりと涙が滲む。ランドルフがぎょっとしたように表情を強張らせた。
「コ、コニー」
「――今日は!」
情けない姿を見られたくなくて、コニーはくるりと踵を返した。
「今日は、ひとりで帰れますから……!」
――という小噴火からあっという間に数日が経ち。
「やっちゃった……」
寝台に腰かけたコニーは、どんよりと両手で顔を覆っていた。
「あれはなかった……あの態度はなかった……八つ当たりもいいとこだった……」
しかも言い争いですらなく、ただコニーが一方的に感情をぶつけただけである。穴があったら入りたい。
さらに悲しいことに、あれ以降ランドルフからは音沙汰がない。嫌われていたらどうしよう。
「い、今すぐ謝りに――」
『放っておきなさいよ』
顔を蒼白にして立ち上がりかけたコニーを、空中でつまらなさそうに頬杖をついていたスカーレットが制した。
「で、でも……」
『あのねえ。こういうのは、ただ謝ればそれでいいってものでもないでしょう? もっとよく考えてからでも遅くないんじゃなくて? そうしないと、きっとまた同じことが起こるわよ』
口調はひどくどうでも良さそうなのに、内容は至って正論である。コニーはまた浅はかな行動を取ろうとしていた己を恥じた。
「スカーレット、ありが――」
『だいたいお前ときたら!』
「……ん?」
『その年にもなって、喧嘩は先に謝った方が負けだと知らないの!?』
「…………んん?」
『いいこと、コンスタンス・グレイル! わたくしなんて生まれてこの方、たったの一度も謝ったことなんてなくってよ!』
「うん、それはちょっと人としてどうなのかなと、思う」
勝ち負けの捉え方に関しては置いておくとして、それでもスカーレットの言い分はたぶん間違っていない。
コニーがすべきことは、この一件と真剣に向き合うことだろう。
取るべき道が見えてきて、少しだけ気分が落ち着いてきた。ここ数日あまり食欲が沸かなかったというのに、現金なもので、急にお腹が空いてくる。
食堂でなにか甘いものでも食べようかと考えていると、コツコツと部屋の扉が叩かれた。その向こうから「お休み中に申し訳ありません」と声を掛けてきたのは侍女のマルタである。どうしたのだろう、と首を傾げていると意外な言葉を告げられた。
「ミレーヌ・リースさまとケイト・ロレーヌさまがいらっしゃっています」
〇
「――大シュキタル展?」
手土産であるケイト特製の絶品ベリータルトを頬張りながら、コニーはきょとんと目を瞬かせた。
気の置けない友人たちの訪問を断る理由などなく、用件がわからないまま応接間に向かえば、開口一番、ミレーヌからそんな単語を聞かされたのである。
「うん。今日からサンマルクス広場でやってる催事展なんだけど、記者仲間から招待券が手に入ったからコニーも一緒に行かない? ケイトもつき合ってくれるって!」
「ええと、シュキタルって、あの砂漠にある国?」
確か、広大なユディス砂漠のオアシスに沿って形成された都市国家群――というやつだったか。アデルバイドにはない叙情的な風景が人気で、よく絵葉書にもなっている。どうやら異国めいた雰囲気が人々の心を掴むようだ。昔から観劇や大衆小説の舞台として選ばれることも多いので、国外旅行などしたことがないコニーにもある程度の知識はあった。
「そう、麗しのオアシス都市国家! ああ、ロマンスの聖地よ!」
「ロマンス?」
「あら、コニーったら知らないの? 砂漠といえばめくるめく冒険と――」
ミレーヌはぐっと拳を高く掲げると、満面の笑みでこう告げた。
「運命の恋って、相場は決まっているじゃない!」