序章
ちょっと長めの後日談。十数話くらいの予定です。
ひゅーひゅーと咽喉が鳴る。
頭上の月は濃紺の雲に覆われ、うすぼんやりとした光を零していた。
周囲には人気がなく、ぞっとするような重たい静寂に支配されている。
男は、地面に這いつくばるようにして力なく倒れていた。
息を吸い込もうとするたびに激痛が走る。先ほど腹を思い切り蹴られたときに嘔吐いたら、ほとんどが血にまみれていた。臓器に傷でもついているのかも知れない。捕らわれた際にずいぶんと抵抗したせいで手足を折られたような記憶もあるが、度重なる暴行のせいで四肢の感覚はすでになかった。
ただ、心地の良い闇が、ゆっくりと全身を蝕んでいく。
「――いいか、これが最後の機会だ」
落ちそうな意識の中で何度も聞いたその声は、顔の下半分を黒い布で覆っているせいでわずかにくぐもっていた。
「お前が懇意にしていた情報屋の居場所はすでに把握している。マーク・ロゥと言ったか。奴の仕事はただの仲介だな? 我々が知りたいのはその先だ」
低くもなければ、高くもない。平坦で、抑揚のないものだ。
「もう一度だけ訊く。シラ・ナバムの――」
温度を感じさせない淡々とした口調は、つまり、この行為に何の抵抗もないということなのだろう。
「砂漠の薔薇は、どこにある?」
満身創痍の男は、そこで、ふっと吐息のような笑い声を漏らした。
痛みを堪えながらのろのろと顔を起こすと、挑発するように口角を持ち上げる。
「地獄に、落ちろ」
そう吐き捨てても、こちらに向けられている硝子玉のような瞳には、やはり何の感情も浮かんでいなかった。
そして。
「――残念だ」
その言葉とともにナイフが閃く。
男が視線を逸らさなかったのはただの意地だった。それでも反射的に首から下げていた銀のペンダントを握りしめる。そこに刻まれた文字を祈るような気持ちでなぞりながら、またあの人に怒られるだろうな、とふと思った。
けれど、間一髪のところであれは守れた。及第点はもらえるはずだ。あとのことは、きっと、例の青年がうまくやってくれるだろう。
鈍色の刃が首筋に触れる。
――最期の瞬間、まったくそそっかしいやつめ、というあの人の声が聞こえた気がして、男はそっと微笑んだ。