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エリスの聖杯  作者: 常磐くじら
後日談
115/171

トールボットの受難


 どうしてこうなった。


 トールボットは遠い目になって天を仰ぐと、そっと女神に問いかけた。


 ◇◇◇


 水瓶を持つ乙女像。

 それは、王都がアナスタシア通りの南端に存在する王立公園のシンボルである。

 丸い水盤の上に立った乙女は麗しい微笑みを浮かべ、掲げた瓶からは水がこぼれ落ちる設計になっている。その優美さから王都の観光名所のひとつとして名を連ね、ついでにデートの待ち合わせ場所としても鉄板だ。

 だからなのか、乙女の前に立つ人々は皆どことなく浮ついた空気を漂わせている。

 けれど、トールボットの目の前にいる少女は明らかにがっかりした表情を浮かべていた。否、がっかりどころではない。もっとはっきり言ってしまえば「お前かよ」という顔である。 

 一応れっきとした貴族のご令嬢であるはずなのに、思ったことがそっくりそのまま顔に出ているのはどういうわけか。特に目なんてあれだ――まさしく、死んだ魚である。

 ちなみにトールボットも全く以って同じ気持ちでいた。つまり――


 どうして、こうなった。


 事の発端は、数時間前に遡る。


 ◇◇◇


「あれ? アルスター少佐、午後から非番なんですか?」

 王立憲兵局の第一捜査室。仕事中毒(ワーカホリック)と言っても差し障りない上司が珍しく帰り支度をしていることに気がついて、トールボットは思わず声を上げた。

「ああ」

 黒い外套の袖に腕を通しながら年若い上司――ランドルフ・アルスターは頷いた。相変わらずの無表情。けれど、心なしか機嫌が良さそうだ。

「先週末から王立公園に異国の巡業団が来ているだろう? それを観に行くことになってな」

 何でも空中曲芸で有名な一座らしく、公演は連日満員だという。チケットはすでに完売しているようだが、珍しい屋台も数多く出店しているし、天幕近くでは団員が無料で即興演劇や軽業を見せてくれるので、それだけでも充分に楽しめると聞いている。

 ということは、もちろん、()()ではないのだろう。

 隣の(デスク)では、カイル・ヒューズが「この朴念仁がやっとまともなデートプランを……!」と咽び泣いていた。感涙に肩が震える度に山積みにされた捜査資料が揺れて今にも雪崩を起こしそうだ。おそらくその様子では、「よくわからないが、アビゲイルからチケットを押しつけられたんだ。おそらく子供向けの行事だからだろう。ルチアは年の割に大人びているからな。その点うちのコンスタンスなら問題なく楽しめると思う」という問題発言を聞き洩らしているに違いない。


 噂によれば、ランドルフ少佐は先日地区教会にて婚約を宣誓してきたという。

 もちろんお相手は一人しかいない。紆余曲折を経て今や立派な腫れ物となったコンスタンス・グレイル子爵令嬢である。

 ふたりの婚約には未だ否定的な声もあるが、トールボットは全面的に応援していた。理由など決まっている。

 

 ランドルフが幸せそうだからだ。


 トールボットにとって、ランドルフ・アルスターという男は入局当時からずっと変わらず憧れの人だった。

 確かに顔は少々おっかないし常に無表情だが、仕事はできるし腕も立つ。それに実は面倒見だっていいのだ。

 平民上がりのトールボットが貴族階級の同僚から嫌がらせを受けていた時も「うちの班を敵に回すということでいいんだな?」と相手を牽制してくれたし、落ち込むトールボットに「気にするな、やっかみだ」と言って慰めてくれた。女だったらたぶん惚れてた。

 実際うっかりときめいてしまった直後に「てめえのケツもてめえで拭けねえのかこの能無しが」と悪魔(カイル)にこってり絞られたせいで我に返ったが。なにあの人。いや人じゃなかった。悪魔だった。


 何はともあれ、おめでたい話だ。トールボットの心も浮き立つ。それに、少佐が幸せそうだと悪魔の機嫌も良い。とっても良い。大事なことなので二度言った。たぶんあの悪魔は少佐以外に友達がいないんだと思う。


 トールボットはすっかり嬉しくなって頬を緩めた。


「ほんと最近は平和ですもんねー」

 つまらなそうに相槌を打ったのはやはり悪魔だった。

「人騒がせな花火野郎も捕まったしな」

「花火? ああ、例の――って、もう捕まえたんですか!?」

 『花火野郎』とは、郊外のセヌ河沿いで連日のように大型花火を打ち上げていた愉快犯だ。それだけでは出張所の管轄だが、使われていた火薬の入手経路がはっきりせず、爆弾にも応用できることから数日前から本部での捜査に切り替わっていた。

「あー、お前、外回りに行ってたんだっけ。昼前に不審者に職質かけて見つけたんだと。野郎、名無しの権兵衛(ジョン・スミス)とか名乗ってるらしいぞ。今マルクス班がこっちにしょっ引いてくる途中で――」

 その時、カイルの言葉を遮るように事務方の男が捜査室に飛び込んできた。

「た、たった今、一報が入りました! 護送中だった自称ジョン・スミスが逃走したようです……! 隠し持っていた爆竹に点火したらしく捜査員が多数負傷、マルクス班長も火傷を負われたということで、上層部からアルスター少佐に代理指揮要請が――」

 ――うっわあ。

 急に背後から冷気を感じて振り向けば、悪魔がこきこきと手首を鳴らしながら微笑んでいた。何も知らないご令嬢たちが見たら黄色い悲鳴が上がりそうな甘い笑みだが、部下であるトールボットも別の意味で悲鳴を上げそうである。ついでにそのまま失神したい。

(マルクス班の奴ら、死んだな……)

 せめて骨くらいは拾ってやろう。遠い目のまま哀れな仔羊たちに合掌していると、苛立ったようなやり取りが聞こえてきた。


「……あーもーいいからこっちは任せて帰れって。相手はただの花火野郎なんだし」

「そういうわけにもいかないだろう」

 どうやら仕事熱心な上司は午後の予定(デート)をキャンセルして現場に向かうことに決めたようだ。

「――トールボット」

「ははははいっ!?」

 ふいにランドルフから名を呼ばれ、トールボットの声が裏返る。振り向けば、いつも通りの無表情がそこにあり――


「ひとつ、頼まれてくれないか」


 ◇◇◇


「こ、コリン・トールボットです」


 榛の髪に若草色の瞳。至って平凡な顔立ち。

 ぱちくりと目を瞬かせたコンスタンス・グレイルは、一瞬だけ()()()()()()()()()首を傾けると、すぐに合点がいったように頷いた。

「ああ、ランドルフさまの部下の――」

 どこにでもいるような印象の少女は、意外にも記憶力がいいらしい。

 それに、顔立ちこそ地味だが、よくよく見れば今日のコンスタンス・グレイルは非常に愛らしかった。髪は白い花をあしらった髪飾りで器用にまとめられているし、唇は蜂蜜を塗ったようにつやつやしている。膝下丈のワンピースに長めの革靴の組み合わせも城下で流行しているものだ。

 これはもうあれだ。

 明らかにめかしこんでいる、というやつだ。

 どうしよう、と頬を引き攣らせていると、コンスタンスも何かを感じ取ったように見る見るうちに表情を強張らせていく。

 居たたまれない。非常に、居たたまれない。

 トールボットは思わず天を仰いでそっと女神に問いかけた。

 どうしてこうなった。

「じ、実は、その、アルスター少佐は急用が出来てしまいまして――」

 運の悪いことに、例の花火男が逃走したのはこのアナスタシア通りだった。ご丁寧に公園内に入って行くのを見たという目撃証言もある。確保は時間の問題とはいえ、ランドルフが婚約者の身を案じるのは当然で、トールボットはコンスタンス・グレイル嬢の保護を頼まれたのだ。


 曰く、放っておくと何をするかわからないから、と。


「それで、その、私が代わりに。ここから一本離れた通りに馬車を呼んでいるので、ご自宅までお送りします」

「……何があったんですか?」

「へ?」

 トールボットはぱちくりと目を瞬かせた。今、この少女は、()()、と言ったか? 何か、ではなく――

「え、ええと……」

「そう言えば、ちょっと前に例の花火を打ち上げていた犯人が捕まったって」

「ぶっ」

 なぜ知っている。うっかり噴いてしまったトールボットは、慌てて口元を拭うとコンスタンスの方をちらりと窺った。彼女は動揺するトールボットには構わず、毅然とした様子で言葉を続けていく。

「さっき新聞社に勤めている友人に偶然会って。すぐに記事にしなきゃって息巻いていたから……。そのことと、何か関係があるんですか?」

「い、いえ、その……」

 こめかみから嫌な汗がしたたり落ちてくる。

 何とかして、誤魔化さなければ。

「……ん?」

 その時、コンスタンス・グレイルが視線をわずかに持ち上げた。もちろんそこには何もない。けれど、何かを確認するかのように小さく頷いて見せる。

「確かに、憲兵の数が異様に多い……」

「おおおおお祭りをやっているからじゃ、ないでしょうか……!」

「いや昨日も知り合いの子と一緒にこの辺りに来たんですけど、その時はこんなじゃなかったような……」

「だだだだだいたいいつもこんな感じですよ……!」

 必死に取り繕うが、何の説得力もないトールボットの訴えはそのまま黙殺された。

「それに、普通ならアナスタシア通りに馬車をとめるはず……」

 図星を指されてぎくりと肩が強張る。コンスタンスの指摘通り、この付近にはすでに非常線が張られており、馬車を繋ぐことができなかったのだ。

「そう言えば、此処に来る途中で爆竹の音がしたって誰かが……。てっきりお祭りの余興かと思っていたけれど――」

 確実に追い詰められていく状況に、だらだらと冷や汗ばかりが流れていく。

「……ミレーヌは、犯人は男の人だって言っていたよね」

 もはやコンスタンス・グレイルはトールボットなど見てはいなかった。口元に指を押し当てながら、独り言にしてはやけにはっきりとした言葉を紡ぐ。

「……そうだね、ここに来るのは子供連れの親子か、カップルか、もしくは話題作りのご婦人方が多いから、男の人がひとりでいたら目立つはず……」

 そこまで呟くと、はっとしたように園内に視線を向けた。広大な敷地内は自然に溢れ、『乙女の憩いの間』と呼ばれる中央広場は緑の芝生に覆われている。今日は催しに合わせて軽食や土産物の屋台がずらりと軒を連ね、中央後方には舞台用の天幕が設置されていた。近くでは一座の人間だと思われる者たちが風船を子供に手渡したり、蛇腹楽器(アコーディオン)で陽気な音楽を奏でたり、あるいは一輪車に乗りながら何本もの酒瓶でお手玉をして人々を沸かせている。コンスタンス・グレイルはそれらをぐるりと見渡したかと思うと――


 次の瞬間、ばっと駆け出していった。


「え、ちょ、待っ……!?」


 慌てて追いかけるが一向に距離が縮まらない。というより、人混みが邪魔でうまく走れない。対して、小柄な彼女は器用に人の波を避けていた。まるで逃げ足の速い小動物のようだ。

(なんなのこの子……!)

 何度も人にぶつかりながらようやっと追いついた先は、土産物を売っている露店だった。

 敷布の上には日持ちする焼き菓子や、仮装用の仮面などが並べられている。何の変哲もない店だ。しかし、どういうわけか周囲には人だかりができ、何事かざわついていた。とりわけ輪の中心にいる人間の顔は険しく、愉しそうな雰囲気とはかけ離れている。

「……どうかしたんですか?」

 思わず訊ねれば、野次馬のひとりが答えた。

「物取りだよ」

「え」

 すると場の中心にいた店主らしき男が忌々し気に言葉を引き取った。

「妙な男に商品を盗まれたんだ」

「――どれですか?」

 いつの間にかしゃがみ込んで敷布の上の品物を確認していたコンスタンスが静かな口調で問いかけた。そこには、仮装用の鬘や付け髭、縁だけの眼鏡や帽子、さらにはたくさんの仮面が並べられている。

 仏頂面の店主が指差したのは、そのうちのひとつ。道化師の面だった。

「うちで一番値が張るやつだ。追いかけようと思ったが逃げ足が早くてね。それにこの人混みだ。あっという間に見失っちまった。まあ、憲兵を呼んだから直に捕まるだろうよ」

「他に、何か気づいたことは?」

 少女の問いに店主は片眉をぴくりと上げると、程なくして、ああ、と頷いた。

「そういや何かが焦げついたような匂いがしたな」

 例の花火男は逃亡のために爆竹を暴発させたと言っていた。だとすれば、その物取りと同一犯である可能性は高い。

 生憎、憲兵はまだ到着していないようだ。トールボットとしては逃走した男の行方を追いたいところだが――

「……道化師がいても注目を浴びない場所…………」

 その時、ぽつりと呟く声がした。

「――トールボットさん。ランドルフさまから、今日の公演の招待券、預かってます?」

「……へ?」

 何の話かとゆっくりと首を傾げ――はっと思い出した。

 オブライエン公爵夫人から譲り受けた招待用のチケットは、どうやら日付の指定があるわけではなかったらしい。とはいえ、少佐は今後暇が取れるかわからない。なので、親しい友人とでも行くように伝えてくれと託されていたのだ。

 慌てて招待券の入った封筒を差し出せば、コンスタンスは一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべた。

 彼女は白い封筒をぎゅっと握りしめると、そのままくるりと踵を返す。

「……私、ちょっと行ってきますね!」

 言うが早いか今度は巨大な天幕へと駆け出して行く。

 またもや一人残される形となったトールボットはぽかんと口を開けると、瞬く間に小さくなっていく背中に向かって思わず叫んだ。


「ちょ、えええええええ!?」


 ◇◇◇


 幸いなことに舞台の幕はまだ上がっていないようだった。薄暗い天幕の中は、開演を待ちわびる観客たちの熱気であふれている。


「ぐ、グレイル嬢……!」

 コンスタンス・グレイルを追いかけて慌てて天幕に駆け込んだトールボットは、ようやっと目当ての人物を探し当て、息を切らせながら呼び止めた。

 すると、名を呼ばれた少女がしっと口元に指を立てる。トールボットは声を潜めながら訊ねた。

「……どうしてここに?」

「犯人は、あれだけたくさんの選択肢がある中で、わざわざ道化師の仮面を選んだんです」

 周囲を警戒したまま少女が口を開いた。

「いくら変装のためでも、そんな恰好で外を歩いていたら目立つに決まってます。でも、ここなら誰も気にしません。団員の振りをしながら裏口から逃げることだってできる」

 きっぱりとした口調で言い切ると、しかし、すぐに困ったように眉尻を下げた。

「って、思ったんですけどなんか予想とちょっと違ってて……」

「ですね……」

 トールボットもまるきり同意見だった。厄介なのは、観客たちの多くが()()()()()()ということだ。露店で仮装用品が当たり前のように売り物にされている時点で察するべきだった。もちろん道化師だけではく、亡霊を模した仮面や獅子の被り物などをつけている者もいる。中には明らかに年嵩な男性や、人目を避けるような出で立ちの婦人もいるので、おそらくお忍びの意味もあるに違いない。よくみれば道化師の顔にも色々な種類があるようだが、余程の記憶力がない限り区別するのは難しいだろう。

 いずれにせよ、この状況で例の犯人を見つけるのは至難の業だ。

「……とりあえず、一座の責任者に出入口を封鎖するように伝えてきます。もうすぐ応援の憲兵も来ると思うので、引き継いだら帰りましょう。少佐が心配しますから」

 婚約者(ランドルフ)の名前を出せば、少女はうっと怯んだようだった。

「で、でも、ぜったいここに逃亡犯がいるのに――」

 そう言って、諦めきれないようにきょろきょろと視線を彷徨わせる。

 すると、ふと耳を澄ませるような不思議な仕草をした後、はっとしたように一点を見つめた。

「――あの人だ」

「え?」

 視線の先にはひとりの男。確かに道化師の面を被っている。しかし、特に不審な点は見当たらない。

 怪訝に思っていると、コンスタンスが言葉を続けた。

()()()()()()()

 はっとして男の袖から先を確認すれば、確かに手の甲の皮が捲れ、水膨れとともに赤く腫れあがっていた。

 思わず言葉を失っていると、ふいに男がこちらを振り向いた。さっと表情を強張らせたトールボットを見て何かを悟ったのか、道化師の仮装をした男はそのまま脱兎のごとく駆け出していく。

「っ、待てっ……!」

 慌ててその後を追いかければ、何も知らない観客たちが驚いたように道を開ける。先ほど少女が言った通り、男は裏口から逃走しようと考えていたらしい。脇目も振らず舞台袖に向かって行くのを見て、トールボットは苦々しい思いで顔を顰めた。幸い、この暗さにも慣れてきたところだ。地面を蹴り上げ、加速する。そのまま一気に距離を詰めれば、逃げ切れないと悟ったのか、あと少しで裏口にたどり着く――というところで唐突に男が立ち止まった。

「――げ」

 振り返った男の手には、なぜか、発煙筒がある。

(もうやだこの男……!)

 今はまだ発火していないようだが、この密集した場所に煙が立てば間違いなく観客たちはパニックになるだろう。

 さすがに迂闊に動くことができずにトールボットはその場に踏みとどまった。相手の出方を慎重に窺っていると、ばたばたという足音とともにコンスタンス・グレイルが追いついてくる。

 なんて間の悪い、とトールボットは思わず頭を抱えた。

 少女はすぐに状況を把握したらしい。一瞬だけ息を飲み込むと、救いを求めるように小さく叫んだ。

「スカーレット……!」

 ――スカーレット?

 浮かんだ疑問はすぐに立ち消えた。なぜなら次の瞬間、男の手元を狙いすましたかのように小さな稲妻が走ったからだ。

 低い呻き声とともに、その手から発煙筒がこぼれ落ちる。男は苦悶の声を漏らしたまま痛々しい火傷痕を押さえていた。

(今のは静電気、か?)

 突然の事態に面食らっていると、その隙に今度はコンスタンス・グレイルがトールボットの脇をすり抜けていく。

「ちょっ――」

 ぎょっとして制止するも、どうやら少女には届かなかったようだ。トールボットの全身からさあっと血の気が引いていく。

(いやだからもう、ほんとなんなのこの子……!?)

 屈みこんだ少女が転がる発煙筒に手を伸ばすのと、我に返った男が懐からナイフを取り出したのはほぼ同時だった。

 トールボットは小さく舌打ちしながら彼女を庇おうと手を伸ばすが、間に合わない。

 男が鈍色に光る刃先をそのまま突き立てようとした瞬間、疾風のように現れた黒い影が少女を抱き込んだ。

 あれは――

「少佐……!?」

 ランドルフ・アルスターは片腕に少女を抱えたまま半身を捻ると、振り向きざまに男の鳩尾を蹴り上げた。男が吹っ飛ぶと同時に、裏口から突入した同僚たちが手際よく男を拘束していく。

 あっという間のできごとだった。

 トールボットは安堵のあまり深く、深く、息を吐いた。それからはっと気がついてランドルフに頭を下げる。

「すすすすみませんでした……!」

 こういう事態にならないように警護を任されたというのに、けっきょくランドルフの大事な婚約者を危険に晒してしまった。

 泣きそうになっていると、ランドルフは静かに首を振った。

「いや、状況はだいたい想像がつく。――コンスタンス」

 泣く子も黙る死神閣下が婚約者を見下ろす表情は、その二つ名通りひどく険しかった。さすがのミス・グレイルもばつが悪そうに体を縮こまらせている。

「どうしてこんな無茶をしたんだ」

「だ、だって……」

 少女の顔がわずかに歪む。

「……せっかくの、デートだったのに…………」

 その言葉に少佐の肩がぴくりと動いた。

「久しぶりだったのに……」

 どんよりとした気配を滲ませながら、コンスタンスはどんどん俯いていく。それを見たランドルフはひどく困ったように視線をうろうろと彷徨わせ――

「…………次からは気をつけてくれ」


 あ、負けた。


 ◇◇◇


 定刻より遅れたものの、無事にファンファーレが鳴り響き、歓声とともに舞台の幕が上がる。


 拘束された『花火男』は同僚たちの手によってすみやかに総局に送られた。しかし現場の後処理のためにランドルフだけはその場に残ることになり、同じくコンスタンス・グレイルを送り届けるために留まっていたトールボットとともに周囲に異常がないことを確認してから開演の許可を出したのだった。


 舞台袖にいたトールボットは、そっと窺うように隣に視線をやった。そこには一枚絵のように寄り添うふたりの姿がある。

 コンスタンス・グレイルは初めてのサーカスに興奮を隠せないようだった。頬を上気させ、瞳をきらきらと輝かせながら舞台に釘づけになっている。その微笑ましい様子を受けて、傍らにいたランドルフの表情も柔らかくなる。大変珍しいことに、わずかながら口角も持ち上がっているようだ。

 ランドルフはそうしてしばらく婚約者を見守っていたが、ふいに腕を伸ばして彼女の頭を優しく撫でた。

 コンスタンスがばっと顔を上げ、酸欠の金魚のようにぱくぱくと口を開閉させる。顔はもちろん、首筋まで熟れた林檎のように真っ赤である。無意識の行動だったのか、ランドルフはきょとんと目を瞬かせて首を傾げた。それから不思議そうに己の掌を眺めていたが、何かに納得したように頷くと、そのままその手を彼女の指に絡めにいく。

 ――そこまで目にすると、トールボットは慌てて視線を正面に戻した。

「……じゃ、じゃあ、俺はこのまま本部に戻りますね! 報告書を書かないといけないんで!」

 少々上擦った声で告げれば、ランドルフがこちらを向き直った。

「なら俺も一緒に――」

 そう言いかけた相手を慌てて手で制す。

「だめです」

 紺碧の瞳が再びきょとんと瞬いた。

「少佐は()()()()()()()()()の方から事情を聞かないと」

 冗談めかして伝えれば、ランドルフは戸惑ったような表情を浮かべた。それからわずかに逡巡すると、ふっと笑みをこぼす。

「――世話をかけるな」

 本当に、全くとんでもない一日だった。そしてこの平凡でパッとしなさそうな少女はとんでもない婚約者殿だった。けれど、その一言ですべての疲れが吹き飛んだ気がして、トールボットは笑顔のまま力強く頷いた。

 去り際に、ふたりの手がしっかりと繋がれているのを確認して――


 ◇◇◇


「――『よかったなあと思いました』?」

「はい」

 満面の笑みを浮かべながらぐっと親指を立てれば、びりびりびりという非情な音を立ててやっとの思いで書き上げた報告書が散り散りに破かれた。

「ぎゃあああああああ」

 なにこの人。いや人じゃなかった。悪魔だった。

「で?」

 一瞬にして紙屑になった報告書の成れの果てには目もくれず、カイル・ヒューズは半眼で続きを促してくる。

「……で?」

 意図が分からずゆっくりと首を傾ければ、呆れたようなため息が降ってくる。

「惚けてんじゃねえよ。それで、火薬の出処はどうなってんだよ」

 例のジョン・スミス――いやたぶんもう本名もわかっているはずだがトールボットは聞いてない――は黙秘を貫いているらしい。

「あれそれ俺の仕事でしたっけ……?」

 どう考えてもマルクス班のやるべきことではないのか。ヘマをやらかした彼らはその件で目の前の悪魔にこってりとしぼられているはずで、同情心から骨は拾ってやると決めたのは記憶に新しい。

「あ?」

「すいませんすいません何かよくわからないけどすいません……!」

 悪魔の威圧に全力で謝ってしまうのはもはや条件反射のようなものである。

 だから、次に続けられた言葉にトールボットの思考は本格的に停止した。

「――捜査権奪い取ってきたに決まってんだろ。これもう、うちのヤマだから」

「へ……?」

平和(ひま)だっつってたよなー、お前。あの花火野郎、メルヴィナの犯罪組織(マフィア)と繋がってるって話も出て来てるから気合入れていけよー」

 どうやら悪魔にとって平和と暇は直線(イコール)で結ばれるものらしい。

 華やかな美貌がひどく見慣れた残酷な笑みを象る。思わず周囲に助けを求めれば、親愛なる同僚たちが、まるで触らぬ神に祟りなしだと言わんばかりにさっと目を逸らしていった。

 ということは、つまり――


 トールボットはこれから待ち受ける事態に思わず遠い目になって天を仰ぐと、そっと女神に問いかけた。



 ――どうしてこうなった。



 トールボットの受難は、始まったばかりである。


こんなところで言うのも何なのですが、この度拙作を書籍化させて頂ける運びとなりました。

これも偏にここまでつき合って下さいました皆さまのおかげだと思っております。

心よりお礼申し上げますと同時に、詳細を活動報告に載せてありますので「仕方ねえな、読んでやるか」と言う菩薩のような御心をお持ちの方がいらっしゃいましたらぜひに(へこへこ)


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