その道の名は
「アルスター少佐、郵便です」
ファリスの第七王子誘拐事件が終息してから二カ月半。王立憲兵局は未だその事後処理に忙殺されていた。
もちろんランドルフも例外ではない。今日も休日を返上して膨大な報告書類にサインをしていると、部下のトールボットがそう言って書簡を差し出してきた。視線を落とせば、確かにランドルフの氏名が刻印されている。
受け取ろうとすると、遮るように背後からすっと腕が伸びてきた。カイル・ヒューズだ。カイルはトールボットの手から封筒を奪い取ると、中身を確認するようにオイルランプの明かりに透かしてみせた。その後もひっくり返したり振ってみたりと一頻り検分していたようだったが、最後に嫌そうに顔を顰めると、トールボットに向き直った。
「おいおい、なんだこりゃ。送り主の名前もなけりゃ、消印だってついてねえじゃねえか」
「は、はい。でも錬金班の検査は通ったので特に危険は―――」
「へー。じゃ、開けるぞ。俺に何かあったら末代まで祟るからなてめえ」
「お願いです後生ですから僕に開封させてください」
そのやり取りを横で見ていたランドルフは小さく溜息をつくと、カイルの手から封筒を回収した。
「カイル、トールボットで遊ぶのはよせ。モリーが調べてくれたんだろう? 彼女がミスをするはずがない」
机の上に置いてあった真鍮のペーパーナイフを手に取ると、躊躇いなく開封する。
中に入っていたのは一枚の便箋だった。封筒と同じく真っ白いそれを摘み上げると、ランドルフはわずかに目を細める。機械的な文字だ。おそらく印字機でも使っているのだろう。
文章は、至って簡潔だった。
―――わたしはだあれ
それだけだ。
◇◇◇
スカーレットがいくつもの空を越えて帰ってきたあの日。
あれからほどなくして御者を連れて戻ってきたランドルフは、地面に倒れたままのパメラ・フランシスと泣きじゃくる恋人を見て大層驚いたようだった。しかし動きをとめたのはほんの一瞬で、すぐに不審者を拘束すると、冷静な口調でコニーに何があったのか訊ねてきた。
そこでコニーが嗚咽を堪えながら例の生涯復讐宣言を伝えると、ランドルフは何とも言えない奇妙な表情を浮かべ―――それから額に手を当てがっくりと項垂れたのだった。げせぬ。
いそいそと自室の長椅子に腰かけたコニーは、びりっと音を立てて封筒を破った。中から手紙を取り出すと、お手本のように整った文字を目で追っていく。
送り主は先頃恋人になったばかりの少佐殿だ。そこには明後日に予定していたオブライエン邸への訪問に付き添えぬことを詫びる文面が並べられていた。相も変わらず多忙らしい。
コニーは小さく溜息をつくと、手にした便箋をチョコレート色のティーテーブルの上に放り投げた。それを見たスカーレットがわざとらしく肩を竦める。『いいこと、コンスタンス・グレイル』
ふわりと宙に浮かんだスカーレットはコニーを見下ろすと、白魚のような指をずいっと突きつけてきた。
『三度目の婚約破棄なんて、さすがに冗談にならなくてよ』
確かにそれは冗談ではない。が―――
「……だってまだ婚約していないし」
コニーはそう言うと、不貞腐れたようにそっぽを向いた。始まってすらいないのだから、破棄もなにもないだろう。
『は?』
「ん?」
『婚約者でないなら、一体どういう間柄だというの』
凍てつくような視線を向けられ、コニーは思わず顔を引き攣らせた。
「いや、その、ほら、一応、想い合っているからね、世間一般で言うところの、こ、こ、こい、恋人っていうか……」
『どうせ手を繋いだ程度でしょう』
図星を指されて、うっ、と怯む。いやもちろん口づけくらいしたことがある。あるに決まっているとも。ただそれは投獄中という少々特別な状況下のことで、ついでにそれ以降は気配すらなく、そもそも今は碌に会えてもいないわけだが。
『まったく、あの男もとんだ甲斐性なしね』
紫水晶の瞳が不機嫌そうに細められていくのを見て、コニーは慌てて訂正した。
「いや、その、ランドルフさまじゃなくて私がね……!」
『は?』
形のいい眉がぴくりと吊り上がる。声はなくとも、威圧的な表情がどういうことかと説明を要求してくる。やばい、怒られる。コニーの顔からさっと血の気が引いていった。
プロポーズするから待っていてくれと言ったのは他でもないコニーである。真面目なランドルフは今も律儀に待ってくれているだけで、この中途半端な状況は十中八九コニーのせいである―――いやもしかしたらランドルフが忙しいせいでもあるかも知れない。うん、きっとある。となれば責任は五分五分である。ただ、そうだとしても―――
ぜったいに、怒られる。
そっと視線を逸らせば、勘のいい女王さまは何かを悟ったようだった。一拍の間を置いて、歌うような声が降ってくる。
『―――それで』
声につられてぎこちなく顔を上げれば、スカーレット・カスティエルは見惚れるように艶やかな笑みを浮かべていた。それから、ゆっくりと首を傾げる。
『甲斐性なしのコンスタンス・グレイルは、いったいどんな理想的なプロポーズをしようっていうわけ?』
もちろんいくらコニーとて、この二カ月もの間なにも考えなかったわけではない。
なので、よくぞ聞いてくれた、というように重々しく頷いてみせた。
「一番の候補はアナスタシア通りの水瓶を持つ乙女像がある噴水前で歌いながら求婚した瞬間に通りにいた人がいっせいにカドリールを踊り出すっていう―――」
『却下』
「え、ええと、じゃあ、これから毎回デートの終わりに画家さんに絵を描いてもらうようにして、ついでにその時背景にこっそり文字をひとつずついれてもらってぜんぶ並べたら『けっこんしよう』っていう文章に―――」
『却下』
「そ、そしたらメッセージカードつきの球根を贈って花が咲いたらカードが飛び出てくるようになるっていう仕掛けはどうかな……! ほら、求婚だけに……!」
とうとう沈黙が落ちた。
「その、球根と、求婚を、かけて」
美しい顔に頭痛を堪えるような表情が浮かぶ。
「きゅうこん、だけに……」
深い、深い、溜息が落ちて―――
『―――わたくし、はじめてあの堅物に同情したわ』
これが、一週間前のことである。
◇◇◇
「……アルスター少佐」
ランドルフが裁判用の捜査資料を確認していると遠慮がちに声を掛けられた。顔を上げれば、どこか困惑した表情を浮かべたトールボットが立っている。
「その、また、郵便が……」
送り主の名も消印もない封筒には見覚えがあった。ランドルフはわずかに眉を顰めると、手にしていた資料を机の脇に置いて封筒を受け取った。これと同じものが届けられたのは―――確か、一週間ほど前だったか。
「奴さん、今度はなんだって?」
揶揄うようにこちらを見てくるカイルの前で中身を確認する。やはり便箋に記された文字は手書きではなく、印刷されたものだ。ただし、今回は一言ではなかったが。
わたしはだあれ
はじまりはゆらゆらとゆれるゆりかごだった
わたしはだあれ
目を通し終えると、ランドルフは手紙をカイルに手渡した。
「いたずらだろうな」
「まあ、確かに脅迫や怨恨って感じじゃないが―――」
カイルが頭を掻きながら首を捻る。
「念のためにお前が担当した事件でこの数カ月の間に出所した奴らを調べとくか」
「……今は余計なことをしている暇はないと思うが」
この手の悪ふざけは多かれ少なかれあるものだ。もちろん事件性があれば調査するが、今のところその気配はない。ランドルフが選ばれたのも例の事件で何度も紙面に名が載ったからだろう。ならば、この忙しい時期にわざわざ時間を割く必要はない。そう思っての言葉だったのだが、カイルはあっさりと肩を竦めた。そのまま控えていた部下に向き直る。
「トールボット」
「へ?」
「俺は今クソ忙しいのか?」
「はあ、まあ、そりゃあもちろん―――」
「あ?」
「ええ、もちろん暇です。暇ですとも。暇以外にあり得ません」
瞬時に真顔になったトールボットが敬礼と共に返答する。カイル・ヒューズは悪魔のような笑みを浮かべると、満足そうにこう言った。
「そういうことだ」
◇◇◇
「コニーお姉さま!」
オブライエン邸の誇る緑豊かな中庭。木漏れ日が差し込む道を女主人であるアビゲイルと談笑しながら歩いていると、一足先に待ち構えていた金髪の天使がコニーの胸に飛び込んできた。その小さな体をぎゅっと受けとめてやれば、弾けるような歓声が上がる。コニーも笑いながら腕の中を覗き込んだ。
「元気だった、ルチア?」
ルチア―――ルチア・オブライエンは元気よく「はい!」と返事をすると、それから視線をわずかに上げて顔を輝かせた。
「今日はスカーレットさまもいらっしゃるのですね」
その言葉にスカーレットはちらりと天使を見下ろすと、ひらひらと手をかざした。まるで冬空のような対応である。コニーは思わず薄情者にじっとりとした視線を向けたが、心優しき天使は気にしなかったようだ。
「でも、スカーレットさままで一緒にソルディタ共和国に行ってくださるなんて―――本当に、夢みたいですわ」
スカーレットはつんと顎を上げると、『どこかのポンコツが母国語しか喋れないっていうんだから仕方ないじゃないの』と憎まれ口を叩いた。確かに勉強の成果は今のところ出ていないようだが、それはただ単にコニーが遅咲きなだけである。いずれ満開の花を咲かせるのだと指摘しようと思ったが、ルチアが嬉しそうに笑っているので水を差すのはやめておいた。
「それとユーリから聞いたんですけれど、あちらには果実をまるごと使った氷菓子があるそうなんですの。宝石みたいにきれいで、とっても美味しいんですって! ぜったいにぜったいに食べに行きましょうね……!」
きらきらとした純真な笑顔を向けられて拒絶できるとしたらそれはもはや人間ではないだろう。もちろんコニーは「よしきた……!」と頷きながらルチアを抱きしめる腕に力を込める。
その様子を傍で見ていたアビゲイルがくすくすと笑い声を立てた。それから、そうそう、と口を開く。
「あちらでの滞在先なんだけどね、貴方たちのためにウォルターがとっておきの離れを用意してくれるそうよ」
「……ん?」
「ソルディタの青い海が一望できるんですって。ベッドはもちろん天蓋つき。蜜月にはぴったりね」
「……んん?」
「もちろん護衛はつけるけれど、私としてもあの子がついていってくれるなら安心だもの」
「……んんん?」
一体何の話だと戸惑うコニーを見て、アビゲイルとルチアが互いに顔を見合わせた。それから同時にこちらを向く。
「ランドルフお兄さまもご一緒に行かれるのですよね?」
「ソルディタに行くのは来年だし、その頃には結婚式も終わっているでしょう?」
当たり前のように声を揃えてくる親子に、コニーの顔が盛大に引き攣った。その様子を怪訝そうに見ていたアビゲイルがふと思い出したように首を傾げる。
「そういえば、あの子は?」
「い、忙しいみたいで……」
言いながら、ついうっかり目が泳いでしまったのが良くなかったのだろうか。アビゲイルがすっと表情を消して、ひどく静かな口調で訊ねてきた。
「あなたたち、婚約は、しているのよね?」
コニーはとうとう誤魔化し切れなくなって「ハハハハ……」というひどく乾いた笑い声を上げた。スカーレットが小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。そんな二人の様子にルチアはきょとんと瞳を瞬かせると、困ったようにアビゲイルを見上げた。
―――そこでようやく全てを悟ったアビゲイル・オブライエンは、頬に手を当てると「仕方のない子たちねえ」と言って苦笑した。
※
『ばかコニー』
オブライエンの屋敷からの帰り道。橙色の夕日が差し込む馬車内で、スカーレットが呆れたように目を細めた。
『もたもたしているから機会を逃すのよ』
「おっしゃる通りで……」
『それに、やることもいちいち回りくどいし』
「返す言葉もない……」
情けなくて背中を丸めていると、わざとらしい溜息が聞こえてくる。
『―――お前が自分から求婚したいと言ったのは、あの堅物と対等の存在になりたかったからでしょう?』
馬はゆったりとした速度で王都の目抜き通りを進んでいった。夕暮れ時とはいえ様々な店が立ち並ぶ往来にはまだ人が多く、時折賑やかな声が入ってくる。
コニーは顔を上げると、こくりと頷いた。
「……うん」
スカーレットの言う通りだった。結局のところ、コンスタンスはランドルフに伝えたかっただけなのだ。守られるだけなのは嫌だ、私にも、あなたの人生を一緒に背負わせてくれと。
『なら、本人にそう言えばいいのよ。それだけの話だわ』
スカーレットはさも簡単だと言わんばかりに笑う。すると本当に何でもないことのように思えてくるから不思議だった。コニーは全身から力を抜くと、そっと背もたれに寄りかかる。それからひとりごとのように呟いた。
「……会いたいなあ」
『くだらない演出を捻り出す暇があったら、確実に会うための手段を考えるべきだったわね。その方がよっぽど建設的よ』
確かに一理あるなと思ってコニーは苦笑した。傲岸不遜な女王さまに道理を説かれる日がくるなんて、全く以って世も末である。
スカーレットは宝石のような瞳を一瞬だけ光らせると、悪戯っぽく口角を上げてこう告げた。
『―――わたくしだったら、そうするわ』
◇◇◇
「……アルスター少佐…………」
またか、とランドルフは思った。けれど明らかに困り果てている部下を見捨てることもできず、視線を向けて「どうした」と訊ねる。もちろん理由などわかりきっていたが。
その証拠に、もはやカイルなど途方に暮れた様子のトールボットを見ようともせず、報告書に視線を落としたまま仔犬でも追い払うようにしっしっと手を振っている。
「知ってるか、トールボット。しつこい野郎は女の子から嫌われるんだ。お前がすぐ振られる理由はそれだな」
「冤罪がひどい」
送り主不明の封筒だが、カイルの調べによれば犯罪は関わっていないということだった。ちなみに根っからの仕事中毒である副官はその時点で興味を失ったらしい。けっきょく犯人も目的もわからないままだが、今のところ実害はない。ランドルフはいつものようにペーパーナイフで封を切ると中身を取り出した。
わたしはだあれ
はじまりはゆらゆらとゆれるゆりかごで
ときに追い風となり ときに向かい風となり
あなたをささえる三本目の足となり
たとえ物言わぬ昏い石となったとしても
あなたを見守っていきましょう
わたしはしるべ あなたをみちびくひかりのしるべ
わたしは、だあれ
今回はこれまでと比べて格段に文章量が多かった。思わず目を瞬かせていると、肩越しに手紙を覗き込んでいたカイルが唐突に「よし」と口を開いた。
「あー、あれだ、お前はすぐにこの案件にあたった方がいいな」
「いや、これはおそらく……」
言いながら振り向けば、無理矢理に椅子から立たされ背中を押される。
「ほら、行った行った」
「おいカイル、」
「前にこの手紙に危険はないっつったけど、撤回しとくな。こう何度も来てたら事件性を感じるな。うん、感じる。重大犯罪の匂いがする。ものすごく」
白々しい口調で捲し立てると、トールボットに手紙を渡す。すると内容に目を通したトールボットも爽やかに歯を見せながらこう続けた。
「心配しないでください、少佐。ちょっとくらい少佐がいなくてもこっちは大丈夫ですから」
「そーそー。その分こいつが働くからな。馬車馬のように」
色男がきらきらとした笑顔を浮かべれば、トールボットの顔からさっと表情が消えた。その様子に果たして本当に大丈夫だろうかと一抹の不安を覚えたが、上機嫌のカイルと「だいじょうぶですから、ええ、ほんとうに。だいじょうぶ、だいじょうぶ……」と真っ青な顔で繰り返すトールボットに追い立てられ、ランドルフは憲兵局を後にしたのだった。
※
室内は人気がなく薄暗かった。明かりはステンドグラスから漏れる彩光だけで、象牙色の石床に繊細な図柄ごと映し出されている。色づいた淡い光がぼんやりと浮かび上がる様はひどく幻想的だった。
「―――それで、一体どういうつもりだ」
ランドルフの言葉に、祭壇に凭れかかるようにして聖典を開いていた男が顔を上げた。
「おや、ばれてしまいましたか」
樽のような体躯の男は狼狽えることもなく手にしていた教本を閉じた。
「ばれるもなにも、これは教会の常套句だろう。地区教会なら印字機もある」
言いながら、懐から手紙を取り出す。ランドルフはもちろん、カイルも、トールボットですらあの詩が示すものが教会だと気がついた。さらにそれがランドルフに宛てたものとなれば、送り主はまずハームズワースで間違いない。そんなふざけた真似をする聖職者が他にいるとは思えないからだ。ちなみにプロポーズをするのだと息巻いていた恋人は、残念ながらこう言った器用な手段は思いつかないだろう。
お節介なのはてっきり部下たちだけだと思っていたが、どうやら他にもいたようだ。
「あなた方の行く末なんて、正直言ってまったく興味はないのですが―――」
ハームズワースは可笑しそうに目を細めた。
「私の麗しき女神が大変気にされていましてねぇ」
「心配しなくても、うちのコンスタンスはちゃんとひとりで出来ると思うがな」
若干不本意な気持ちでじろりと睨みつければ、ハームズワースはお道化たように両手をランドルフに向けた。
「もちろんですとも。ただ、救いの手は素直に受け取っておくべきですよ。それが相手を想ってのことであれば、なおのこと」
内容よりも飄々とした態度が納得できず、多少は反論でもしておこうと口を開く。その時、入口付近で悲鳴のような声が響いた。
「ランドルフさま!?」
振り返れば、小柄な少女が若草色の瞳を真ん丸にして「どうして、此処に……」と呟いている。けれど、すぐにはっとしたように視線を宙に向け、わなわなと口元を震わせながら大声を張り上げた。
「スカーレット―――!」
◇◇◇
成金豚に用があるから教会に行きましょう、とコニーがスカーレットから言われたのは今朝方のことだった。ハームズワース子爵がコニーの処刑をとめるために色々と尽力してくれたことは聞いている。いつかお礼を言わなければと思っていたので丁度良かった。
受付を済ませると、子爵がいるという礼拝堂に向かう。そこにはすでに先客がいて、それでようやくコニーは気がついた。多忙なはずの恋人がこんなタイミングよくいるはずがない。謀られたのだ。今となっては珍しく機嫌の良いスカーレットを疑問に思うべきだった。そもそもあのスカーレット・カスティエルが相手のためにわざわざ出向くわけがないのだ。どう考えても呼びつけるに決まっているではないか。
コニーは悲鳴のような声を上げた。
「今度はいったいなにしたのスカーレット……!」
『人聞きが悪いわね。会えたんだから何だっていいじゃないの』
スカーレットはちっとも悪びれた様子もなく、それどころか愉しそうに口角を持ち上げている。仕方がないので共犯者に違いない彼女の下僕を恨みがましく睨みつければ、ハームズワースはあっさりと肩を竦めた。
「むしろ感謝して欲しいものですな。あなた方の関係があまりにも進まないので、アルスター伯は焦れた多方面からかなり圧力をかけられていたようですよ」
「……ハームズワース」
唸るような声音に、コニーははっと息を呑んだ。子爵の言葉を理解すると、顔から血の気が引いていく。
「た、大変ご迷惑をおかけしたようで……」
「気にしなくていい」
久しぶりに目にした軍服姿の恋人は、やはり見上げるほどに長身で頑丈そうだった。顔立ちは相変わらず鋭く、意志の強そうな眼差しがコニーに向けられている。心臓がどきりと大きく脈打った。
互いに言葉もなくそのまま見つめ合っていると、スカーレットが咳払いをした。コニーは慌てて居住まいを正す。
「ええと、その、ランドルフさま」
「うん?」
名を呼べば、ランドルフは常に纏っている厳しい雰囲気を幾分かやわらげてこちらに視線を落とした。真夏の青空によく似た瞳に吸い込まれるように、コニーはずっと伝えたかった想いを零す。
「あなたのことが、だいすきです」
紺碧の双眸がわずかに見開かれた。
「だから、ずっと、一緒にいてください」
ふいに静寂が落ちた。遠くから正午を告げる聖マルクスの鐘の音がかすかに聞こえてくる。
ランドルフは、ゆっくりと息を吐いた。
「……ああ」
コニーはほうっと胸を撫で下ろすと、それからすぐに頬を緩める。
「ずっとですよ」
今度の返事は早かった。「ああ」
「いいんですか、ずっとって死ぬまでですよ」
「ああ」
「死んでからも、離れてあげないかも知れませんよ」
冗談めかして告げれば、ランドルフは眩しそうに目を細めた。それからまた、ああ、と答えると、思わずと言ったように破顔した。
「そうしてもらわないと、困る」
「困るんですか?」
「ああ、非常に」
ランドルフは引き締まった貌に真面目な表情を浮かべると、重々しく頷いた。
「―――死活問題だ」
精悍な顔がゆっくりと近づいてくる。影が落ちる。まるで繊細な陶器を扱うような仕草で顎に指をかけられ、コニーはそっと瞼を閉じた。熱い吐息とともに唇が重なり合う―――寸前に、こほん、という咳払いが降ってきた。
コニーはぱちくりと瞳を開けた。ランドルフもはっと我に返ったように動きをとめて固まっている。
ハームズワースは苦笑しながら、「一応、女神の御前ですので」と釘を刺した。スカーレットが呆れたように鼻を鳴らす。そこでようやくコニーは自分が今何をしようとしていたか気がついた。
「――――っ!」
ばっとランドルフから離れると、心の中で声にならない絶叫を上げる。一気に体温が上昇し、首筋がかっと熱くなる。あまりの恥ずかしさにぷるぷると体を震わせていると、なぜかあまり動じていないランドルフが慰めるようにぽんぽんと頭を撫でてくれた。げせぬ。
そのまま両手で顔を覆って項垂れていると、頭上から声がかけられる。
「では、これを以て婚約届ということにしましょうか。正式な宣誓はまた追って連絡しますよ。グレイル嬢はご両親にも伝えないといけないでしょうし。それに、そろそろ信徒が祈りにやってくる時間なので。ここを開ける準備をしないと」
『まったく世話が焼けるったらないわね。さ、行くわよコニー』
スカーレットは腰に手を当てて、ふよふよと礼拝堂の扉に向かって行く。コニーはのろのろと顔を上げた。ランドルフが苦笑しながら、「俺もそろそろ戻らないとな」と告げる。何となく離れがたくて取り留めもない別れの挨拶を交わしていると、焦れたようなスカーレットの叱責が飛んできた。
『もう、聞こえなかったの? 式までにやることがたくさんあるんだから、続きはまた今度にしなさい』
コニーは思わず背筋を正し、そのやり取りを見ていたハームズワースがわずかに肩を震わせた。それから子爵は側廊から垂れ下がった紐を引きに行く。天窓を覆っていた暗幕がさあっと左右に分かれ、目も眩むような陽射しが差し込んだ。
『別に、急ぐことはないでしょう?』
聞こえてきたのは、意外にも穏やかな声音だった。気がつけば身廊から祭壇へと導くように光の道筋ができている。そのきらきらとした光の中で、スカーレット・カスティエルはひどく満足そうに笑うとこう言った。
『だってこの先の道は―――ずっと、続いていくんだから』




