終章
気がついたら、空を抜けていた。夜を抜けて、朝を抜けて、それを何度も、何度も繰り返して―――
◇◇◇
なんだか、長い夢を見ていた気がする。
スカーレットはゆっくりと瞼を開いた。頭が痛い。ここはどこだろうか。記憶が、ひどく、混乱していた。ぐるりと視線を巡らせば、どうやら粗末な馬車の中のようだとわかる。目的地に着いたのか、それともこれから出発するのか―――わからないが、今は動きをとめている。
「出るんだ」
隣に座っていた男がそう言ってスカーレットの背中を小突いた。なんて無礼な輩なのか。手を振り上げようとして、両手首に手枷を嵌められていることに気がついた。霞がかった思考が徐々にはっきりしてくる。
そうだ。スカーレット・カスティエルは、これから処刑されるのだった。
どうして忘れていたのだろう。粗末な馬車は護送用だった。ここはサンマルクス広場で、スカーレットはこれから斬首されるために処刑台に向かうのだ。けれど、どこか現実味がないのは先程まで見ていた夢のせいだろうか。
―――果たして、あれは、夢だったのだろうか。
スカーレットは戸惑っていた。おそらくは死への恐怖が見せた、一時のまやかしだったのだろう。それにしては、いやに生々しかったが。
(でも、このわたくしが怨霊になるだなんて)
確かに己を陥れた奴らには生き地獄を味合わせてやりたいという気持ちはあるが、かと言って、そんな未練たらしく情けない真似をするだろうか。スカーレットにも矜持というものがある。
外套を被りなおして馬車から出れば、怒号と罵声に出迎えられた。耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言ばかりだが、あいにくとそんなことで傷つくような殊勝な心は持ち合わせていない。この処刑はつまるところただの見世物である。ということは、あのような野次など夜会で流れる音楽に等しい。まあ、少々喧しく、品がないが。
幸いなことに、見世物になるのは慣れている。どんな形であれ注目を浴びるのは嫌いでない。だから、スカーレットにとって、この場に立つのは夜会でダンスを踊るのとたいして変わりがなかった。少なくとも、そう思うことにする。
気づけば、雨がぱらぱらと降っていた。台座までたどり着くと、執行人のひとりが「外套を外せ」と言ってくる。スカーレットは肩を竦めてその通りにしてやった。
纏わりつく髪が煩わしかったので軽く首を振ると、ゆっくりと、視線を上げる。
その瞬間、嵐のような怒号がぴたりとやんだ。広場にいる誰もがスカーレットを食い入るように見つめてくる。
(まったく、つまらないこと)
スカーレットは思った。これでは本当に夜会と変わらない。
周囲を見渡せば、庶民に紛れて貴族たちもいるようだった。見知った顔もいくつかある。
まず目に入ったのは、エミリア・カロリングだ。何が恐ろしいのか、すでに真っ青になって震えている。ならば、最初から来なければいいのに。相変わらず考えの足りない子だ。
彼女の近くには、扇子で顔半分を隠したデボラ・ダルキアンがいた。スカーレットはわずかに眉を寄せ、心の中で首を掻っ切る仕草をしておく。あの夢が真実であれば、デボラが笑っていられるのもあと十年足らずのはずだ。せいぜい覚悟しておくといい。
デボラを牽制するように並び立っているのはリリィだろう。こんなところでも負けず嫌いを発揮しているらしい。いけ好かない女だったが、あの根性だけは認めてやってもいいかも知れない。
その時、ふと人混みに隠れるようにしてこちらを窺う青年の姿に気がついた。青年はずいぶんと冷めた表情を浮かべていたが、スカーレットと目が合うと、一転してその端正な美貌を歪めてしまう。
スカーレットはわずかに息をとめた。けれど、そのまま顔色を変えずに視線を逸らす。スカーレットまで、泣くわけにはいかなかった。そんなことをしたら、あの生真面目な人はもっと傷ついてしまうだろう。
(……レティシアが泣き虫なのは、お兄さまに似たのね)
ふと、夢に出てきた明るくて素直な姪のことを思い出した。彼女はマクシミリアンから、レティ、と呼ばれていたのだ。まるで、かつてのスカーレットのように。
つくづく不思議な夢だった。死を目前にしたスカーレットがこんなにも落ち着いていられるのも、おそらくはあの夢のおかげなのだろう。
群衆を見渡していると、少し離れたところに巨大な人影を見つけた。ハームズワースだ。
(何でも口にした者の時の流れを交差させるという逸話があるとかで―――)
ふいに夢の中で交わした会話を思い出す。ここに来る前に飲まされた果実水についての話題だ。もちろんその内容はあまりに突拍子もなく、また、荒唐無稽だった。
でも、もし、とスカーレットは思った。
もし、あれが夢ではなかったとしたら?
もし、何か、理由のつかないようなとんでもない奇跡が起こって―――本当に、十年後に飛んでいたとしたら?
我ながら馬鹿げた話だとスカーレットは心の中で苦笑した。どちらにせよ、己に残された時間はあと少し。判断を下すには、あまりにも情報が足りなかった。
きっと、答えは出ないままだろう。
スカーレットはゆっくりと目の前の人々を観察していった。その一人一人を逸らすことなく見つめていけば、相手の方がたじろいでいく。
ただ、どんなに目を凝らしても父であるアドルファス・カスティエルの姿はそこにはなかった。昨日までのスカーレットであればその事実に失望していただろう。やはり父にとって大事なのは国だけで、自分はまったく愛されてなどいなかったのだと。けれど、今のスカーレットには手に取るようにわかってしまった。
父は―――否、あのスットコドッコイは、おそらく普段通りの顔をして、普段通り使用人に指示を出し、普段通り屋敷で過ごしているに違いない。
そしてきっと、誰も見ていないところで泣くのだろう。
(あの人はね、痩せ我慢がお得意なのよ)
お母さまが笑いながら言っていた言葉の意味が今ならわかる。そして気がついた。
あれが、夢なわけがない。
スカーレットは、ふん、と鼻を鳴らした。そうか。
そうだったのか。
「呪われろ」
その言葉はするりと出てきた。
「貴様ら全員、呪われるがいい―――!」
広場に集まったすべての人間に聞こえるように傲慢に告げる。
そう、これは呪いだ。そして十年後への宣戦布告だ。あの夢がこの先の未来だというのなら、恥も外聞も捨て、怨霊にでも何でもなってやろうではないか。
「ば、売女め!」どこからか叫び声が上がった。「淫売!」「悪魔!」「人殺し!」次々と罵声が飛び交っていく。
嵌められた口惜しさがなくなったわけでも、迫りくる死が恐ろしくなくなったわけでも決してない。ましてやこのふざけた運命を受け入れたわけでもないのだ。―――けれど。
膨れ上がった悪意は留まるところを知らなかった。群衆は罵声と怒号の渦に呑み込まれていく。大丈夫だ、とスカーレットは何度も己に言い聞かせた。大丈夫、あれは夢じゃない。
ならば証拠はあるのか、ともう一人の己が冷静に問いかけてくる。あんなものはただの都合の良い夢じゃないかと。
所詮、スカーレットは負け犬のように死んでいくのだと。
その時、目の前できょろきょろと頭を動かす小さな体が視界に入った。スカーレットはきょとんと目を瞬かせる。榛色の髪を三つ編みにした、幼い女の子。うっかり押し出されてしまったのだろうか。周囲の異様な熱気に、怯えた様子で辺りを窺っている。すると視線に気づいたのか、少女はゆっくりと顔を上げた。
若草色の瞳が、スカーレットを映し出す。
(―――ああ、なんだ)
スカーレットはほっとしたように息を吐いた。なんだ。やっぱり、夢ではなかったのだ。榛の髪に、若草色の瞳。そして、スカーレットは一度見た顔をぜったいに忘れない。だから、もう大丈夫だ。なにも怖くなんてない。だって。
だって、最後に笑うのはスカーレットなのだと、今、わかった。
ふっと口元が綻んだ。小さなコニーが瞳をいっぱいに見開いていく。スカーレットはひどく満ち足りた微笑を浮かべて口を開いた。
「―――未来で、待ってる」
雨はいつの間にか勢いを増し、突き刺さるように降ってくる。風が唸る。空はどす黒く渦巻いている。轟音とともに、真っ白な光が視界を覆った。そして、
そして――――




