9-10
―――時を遡ること数日前。
ファリス王城の一画。かつて第二王妃の離宮だったその場所は、まさに、青天の霹靂を迎えていた。
◇◇◇
「……どういうことだ」
侍従からの一報を受け、ファリスの第二殿下であるロドリックは混乱を振り払うように声を荒げた。
「エルンストが、我が国に来ただと?」
彼の人は最低限の護衛だけを引き連れ、人目を憚るような出で立ちで現れたという。
報告によれば、十年来の友人であるヘンドリック王を見舞いに来たなどと語っているようだが―――
「そもそも、おかしいではないか。あの男は今頃メルヴィナに行っているはずではなかったのか?」
「い、いえ、それが、実はあちらで調印を結んでいるのはカスティエル公だったらしく―――」
ロドリックはちっと舌打ちをした。
「狸どもが……! いったい、何を考えている……!」
不快感も露に吐き捨てる。しかし、すぐに思い直したように唇を捲り上げた。
「―――いや、これは逆に好都合だな。誰の浅知恵か知らないが、王と言えど正式な招待もなく他国に足を踏み入れるなど侵略行為と捉えられても仕方あるまい。もちろん丁重にお帰り頂くが、その前に恩を売りつけておくのも悪くなかろう」
厄介な時期に訪れてくれたものだが、これを口実に戦争の準備を進めてもいいかも知れない。
ロドリックは母親譲りの美貌に酷薄な表情を浮かべて嗤った。それから、控えていた侍従にエルンストと面会するための仕度を手伝うように命じる。
けれど相手は血の気の引いた顔のまま、凍りついたように動こうとしない。
「どうした?」
「エルンスト王は、第三殿下に招かれたと……」
あり得ない話にロドリックは眉を顰めた。アレクサンドラは城塞内にある監視塔の牢獄に幽閉され、今もなお身動きが取れないでいる。例えうまく看守を買収したとしても、表立って動くのは不可能なはずだ。
「確認したところ、王は正式な信書もお持ちになっておりました。そして、確かにアレクサンドラさまのご署名も、そこに。それで、その、賓客として、すでに王宮内に―――」
その言葉を聞いた瞬間、かっと頭に血が上る。
「誰の許可を得てそのようなことをした!」
今にも切りかかりそうな剣幕に、侍従が慌てたように弁解した。
「テオフィルス殿下です! 突如現れたあの方が私どもを力尽くで追いやったのです! 今は私兵に阻まれ、状況が全くわかりません……!」
ぎり、と奥歯を噛みしめる。怒りで眩暈がしそうだった。
―――この期に及んで、第四殿下だと?
いつからだ。それに、いったい、どうやって。
あの二人がいつ、どのように接触していたかも不明だが、そもそも、アレクサンドラの奴は一体何を考えて―――
嫌な予感にぞくりと二の腕が粟立っていき、気づいた時には立ち上がって叫んでいた。
「塔に向かうぞ! 裏で手を引いているのは間違いなくあの女だ! 拷問しても構わない、何が目的かすべて吐かせろ!」
すぐさま側近を集めて塔に向かった。アレクサンドラが閉じ込められているのは、三つに連なる監視塔の一際高い主塔―――その上層部分に当たる。そこは、主に身分の高い囚人のために作られた監獄のひとつだった。檻ではなく円筒形の部屋であり、ひとたび鍵がかけられてしまえば中から開けることは不可能だ。食事すらも専用の通気口でやり取りされる。
塔の唯一の出入り口である厳重に閉ざされた鉄製の扉を開ければ、こもった黴の臭いとともに光が差し込んでくる。天窓から降り注ぐ陽射しの下で、窶れてもなお美しい女がこちらに向かって微笑んだ。
その瞬間、ロドリックは愕然と目を見開いた。「……違う」
青褪めながら、ふらりと一歩下がる。
「―――こいつは、アレクサンドラじゃない!」
我ながら、悲鳴のような声だと思った。けれど、違うのだ。確かに目の色や体格は似ているが、違う。これは、別人だ。
「お前は、誰だ……?」
わずかに震える声で訊ねれば、女は完璧な臣下の所作で頭を垂れた。
「アリアナと申します、ロドリック殿下」
「アリ、アナ……?」
呆然と繰り返せば、ええ、と笑いを含んだ声が返ってくる。
「僭越ながらアレクサンドラ王女の侍女をさせて頂いております。そうそう、親しい者は―――アリーなんて呼びますわね」
◇◇◇
ファリスの第三殿下派の陣営に、サンという名の人間はいない。
ゲオルグ・ガイナの言葉に、しゃがみ込んだままのコニーは驚いてサンを見上げた。太陽のような髪に薄紫色の瞳を持った大柄な彼女は、少しだけ困ったように微笑んでいる。その腰元では、ユリシーズがきょとんとした表情を浮かべて首を傾げていた。
「何者かは知らないが―――そこの子供も、果たして本物の王子かどうか怪しいところだ」
ガイナは嘆かわしいと言わんばかりに大袈裟に首を振った。集まった人々はまたもや騒めき、ひそひそと囁き合う。
サンは何も言葉を紡がなかった。黙ったまま事態を静観している。どうして、とコニーは動揺した。なぜすぐに否定しないのか。なぜ疑われるままにさせておくのか。
攫われた幼い王子の身を案じ、懸命に助けようとする姿に嘘偽りはなかったはずなのに。
周囲から疑問と非難の言葉が上り始めた頃、静かな声が辺りに響いた。
「―――そちらにいらっしゃる方は、間違いなくユリシーズ殿下にございます」
現れたのは、初老の男だった。身なりは整っているが、どことなく疲労の色が濃い。そして明らかに頭頂部が薄かった。
どこかで見たことがある、とコニーは思った。
「ケンダル!」
ユリシーズが嬉しそうな声を上げた。あ、とコニーの口から声が漏れる。そう、ケンダル。ファリスの特使としてアデルバイドを訪れていた外交官のケンダル・レヴァインだ。けれど、彼は今、ファリスに帰っているはずではなかったか。
「早かったな」
サンが意外そうに眉を上げた。
「老体に鞭打って馬を走らせましたから」
ケンダルは肩を竦めると、「これを」と言って懐から書状を差し出す。
「先だって行われた議会での承認書を預かってきております」
「この短期間でよく通ったな」
「テオフィルス殿下の口添えもありましたが―――やはり、エルンスト王の訪問が大きかったかと。すでにかの国の繋がりを得ているのかと、身に覚えのある輩は戦々恐々としたことでしょう。急拵えのはったりとはいえ、うまくいきましたな。すでに神殿側の承諾も得ているので、あとは御身の署名のみです」
「そうか」
書状を広げたサンは、途端、嫌そうに顔を顰めた。
「血判つきとは、また古風なものだな」
「それがしきたりに御座いますゆえ」
サンはため息を返すと、受け取った羽ペンでさらさらと名前を書きつける。それから、背負った大剣の包みを解いた。
「残念ながら、この身を流れる血の片方はさほど貴くもないが―――」
言いながら刃先に親指を滑らせると、血の滴る指の腹をそのまま無造作に押しつける。
「これでいいか?」
レヴァインは押印を確認すると満足そうに頷いた。「充分かと」
それから、恭しく片膝をつく。ユリシーズと―――
サンに、向かって。
「改めまして、ご無事で何よりでございます―――両殿下」
コニーは目を瞬かせた。
「……両、殿下?」
呟けば、サンは悪戯がばれた子どものような表情で破顔する。
「いかにも。我が名はアレクサンドラ・ファリス。正統なるファリスの王位継承者にして―――」
それから、ひらりと書状をこちらに向けた。
「―――たった今より、新王である」
◇◇◇
結局のところ、愚かな兄弟たちはあの女の手の上で踊らされていたということだろう。自分も含め。
私兵を引き連れ監視塔に突入したテオフィルスは、悄然とした様子で膝をつく次兄を見ながらそう思った。
「……本物の、アレクサンドラは」
あと一息ですべてを手に入れることができたはずの男が、縋るような声を出す。
「もちろん、アデルバイドに」
女が微笑めば、ロドリックの口元が震えた。そのまま力なく崩れ落ちたところを拘束する。哀れな男は、もはや暴れることすらできないようだった。
側近たちの方はだいぶ抵抗したが、それでも圧倒的な数には敵わなかった。そのまま捕縛され、地下牢に連れて行かれる。
テオフィルスは静かになった室内に足を踏み入れると、姉によく似た女を見下ろした。表向きは侍女だが、その実態はアレクサンドラの影武者なのだとケンダル・レヴァインから教えてもらっている。
確か、アリアナと言ったか。
「―――死が、恐ろしくはなかったのか?」
ふと気になってテオフィルスは訊ねた。一歩間違えれば、本当にアレクサンドラの代わりに処刑されていたかも知れないのだ。
女がちらりとテオフィルスに視線を寄越す。
「私は、ただの影ですから。あの方のためにこの身を捧げることができるのであれば本望にございます」
それに、と女は続けた。
「サンが、約束を破ったことはありませんもの」
まるで、それが一番大事なことだとでも言うように。
テオフィルスは馬鹿馬鹿しいとばかりに鼻を鳴らした。ついでに聞いておく。
「この国を建て直せると思うか?」
「もちろんですとも」
そうか、とテオフィルスは頷いた。確かにアレクサンドラであればやってしまうかもしれない。
「まあ、私も姉上に命を救われた身だからな。潔く椅子取り争いから降りるとしよう」
「ご立派です、殿下。ちなみに本音をお聞きしても?」
「ケンダル・レヴァインを通して取引をした。自ら身を引けば、戴冠後の役職も保証してくれるそうだ。それに継承権も放棄しなくていいとな。つまり、アレクサンドラが世継ぎを拵える前に死ねば次代の王はこの私だ。―――せいぜい謀反でも起こされぬように気をつけることだな」
テオフィルスはそう言って口の端を吊り上げると、天鵞絨の外套を翻し立ち去って行った。
一人残されたアリアナは、遥か上にある塔の天窓を見上げた。そっと手を翳し、東の空に思いを馳せる。
その向こうにあるはずの、アデルバイドを。
◇◇◇
「し、新王……?」
「といっても、戴冠式はこれからだがな」
冗談めかしながらサンが笑う。コニーは思わず言葉を失った。
「―――怪我はないか」
そこに駆けつけたのはランドルフだった。新たなファリス王を名乗ったサンには一瞥もくれず、へたり込むコニーの傍まで来ると顔をじっと覗き込んでくる。
碧い瞳が検分するようにコニーを見つめた。その視線が何かを確かめるように頭のてっぺんから下へと降りていき、嵌められたままの手枷に気づくとわずかに細くなる。ランドルフは無言のまま軍服の胸ポケットから細長い針を数本取り出すと、枷につけられた釣り鐘式の錠前に差し込み器用に針を回していった。
かちゃり、という金属音とともに呆気なく鍵が外される。
「……少し、赤くなっているな」
いたわるように手首を取られて心臓が早鐘を打つ。
「だ、大丈夫です!」
ほら!とひらひらと振って見せれば、険しかった顔がわずかに和らいだ。コニーもつられてへにゃりと微笑む。
「王、だと? そんな、馬鹿な……」
呆然としていたガイナが我に返ったように声を上げた。ぶるぶると獣のように体を震わせながら、何度も首を横に振っている。
「諦めるんだな」
ランドルフが低く告げた。
「お前がルーファス・メイと繋がっていたことはわかっている。奴はすでに捕まった。他の仲間達もな。―――もう、終わりだ」
言った傍から、駆けつけてきた憲兵たちがガイナを取り囲む。ガイナの顔が忌々しげに歪んだ。拘束しようと伸びてきた手を乱暴に振り払う。
「このままで、すむと思うな……!」
呪詛のようにそう吐き捨てると腰に手を伸ばした。そこから拳ほどの鉄球を取り出すと、栓を抜いて大きく振りかぶる。「伏せろ!」ランドルフが叫んだ。一拍置いて、地響きのような轟音とともに爆風が吹き抜ける。コニーの身体も吹き飛ばされて、背中から地面に叩きつけられた。
あまりの衝撃に、ぐっと息が詰まる。
気がつけば、目の前で黒煙が上がっていた。人々が悲鳴を上げて逃げ惑っている。コニーは転んだ拍子に足を挫いたようだった。立ち上がれない。
ふと視線を上げれば、目と鼻の先で建国の祖であるアマデウス像の足元が崩れかけていた。爆発の余波を受けたのだろう。支えを失い、ぐらぐらと傾いている。
どうせなら後ろに倒れればいいものを、影はゆっくりとコニーに向かって落ちてきた。
―――逃げられない。
「コニー!」
その時、必死の形相をしたランドルフが地面に両手をついて覆いかぶさってきた。思わず悲鳴が漏れる。
これでは、ランドルフも一緒に下敷きになってしまう。
「退いてください、閣下! お願い、離れて!」
「―――誰が退くものか!」
バ閣下め。コニーは泣きそうになりながら何とかして押しのけようと腕の下で暴れたが、頑強な体はまるで分厚い鉄でも仕込んでいるかのようにびくりともしない。ランドルフの背中越しにアマデウス像が倒れ込んで来るのが見える。間に合わない。
「いやだ、誰か……!」
コニーは喚くように叫んだ。誰か、誰か。
「―――スカーレット!」
その時、ぱきん、と何かが砕け散る音がした。
コニーの頭上で巨大な像が一瞬にして粉々になる。同時につむじ風が巻き起こった。ばたばたと髪やスカートの裾が持ち上がる。砂埃とともに、今まさに弓矢のように降り注がれようとしていた礫が一瞬にして吸い込まれ、遠くに運ばれていく。
まるでお伽噺に出てくる魔法のような光景に、コニーはぽかんと口を開けた。
『覚えておきなさい、コンスタンス・グレイル』
鈴の音のように軽やかで傲慢な声。
風になびく、夜の底を掬い取ったような黒髪。
星を閉じ込めたような紫水晶の瞳に、見る者を惹きつけてやまない蠱惑的な美貌―――
まさに絵に描いたような希代の悪女は、得意気に胸を張るとこう言った。
『英雄はね―――遅れて登場するものなのよ』