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血の海に沈むセシリアが完全に事切れたことを確認すると、クリシュナは立ち上がった。
「撤収だ。王子を探すぞ」
そう言いながら踵を返す。そして―――
低く、呻いた。
「どーも、メイ財務総監補佐殿」
にこやかな笑みを浮かべながらこちらに銃口を突きつけてくる端正な顔には、嫌と言うほど見覚えがある。
「……貴様」
男の背後では、長銃を構えた憲兵たちがずらりと控えていた。それだけではない。退路を断つように四方から物々しい足音が近づいてくる。
クリシュナは、ぎり、と奥歯を噛んだ。
「あれ、副総監だっけ? まあ、どうでもいっか」
「なぜ、ここが」
「女神のお導きってやつだよ。残念ながら、やってきたのは美女じゃなくて豚のおっさんだったけどな」
男は軽口を叩いた。けれど、その目は微塵も笑っていない。
「さて、あんたに選ばせてやるよ。―――今死ぬか、後で死ぬか」
まあどっちにしろ死ぬけどな、とカイル・ヒューズは心底楽しそうに告げたのだった。
◇◇◇
銃声が、聞こえる。
洞窟内に反響していく容赦ない金属音に、ユリシーズは立ち止まった。思わず後ろを確認しようとすれば、ぎゅっと力強く手を握りしめられる。
「振り返ってはだめ」
その声にはっとして顔を向ければ、ルチアは、その幼い横顔に不釣り合いなほど真剣な表情を浮かべていた。
「前を向くのよ、ユーリ」
静かな声だった。けれど、どこか逆らえない気迫がある。
「そして生きるの。生き延びるの。そうしなきゃ、あの人の覚悟が無駄になる」
ユリシーズはわずかに逡巡すると小さく頷いた。それからまた歩きはじめる。こんなに長い距離を歩くのは一体いつぶりだろう。筋力の落ちた足はわずかにもつれ、心臓が早鐘を打つ。出口までがひどく長く感じられた。
やっとのことで地上に出る。途端、強い光がユリシーズに降り注いだ。思わず額に手を翳す。ここはどこだろう。目を細めて周囲を見渡す。どうやら小高い丘に囲まれた雑木林のようだった。遠くに聖マルク鐘楼も見える。とすれば、広場からはそう離れていないのだろう。
とりあえず大通りを目指すべきだろうかと考えていると、驚いたような声が背後から掛かった。
「あなたたち、どうして、ここに」
声の方向に視線を向ければ、木々の陰に隠れるようにして外套を目深に被った少女がいた。ショシャンナだ。瞳を零れんばかりに見開いて、こちらを見ている。
「いったい、なにが……」
言いながら事態を察したのか、その顔が徐々に青ざめていく。けれど、動揺したのはユリシーズも同じだった。近くに武装した敵がいるのではないか。そして、またあの暗く恐ろしい地下牢に連れ戻されるのではないか。そう考えた途端、凍りついたように体が動かなくなる。
お互いを牽制するように見つめ合っていると、ふいにルチアが呟いた。
「誰か、来ますわ」
彼女の視線を辿れば、大柄な女性がこちらに向かって軽々と斜面を降りてくるところだった。見覚えのある大剣を背負ったその姿に、ユリシーズは息を呑む。
「ユーリのお知り合い?」
ユリシーズは逸る気持ちを押さえながら、こくこくと首を縦に振った。それを見たルチアは「そう」と頷くと、まるで友人に挨拶でもするような気安さで、ショシャンナの方へと向き直る。
「というわけなので、逃げるなら今のうちですわよ」
「は?」
ショシャンナが間の抜けた声を上げた。ユリシーズも驚いてルチアを見つめる。
「……あたしを、見逃すの?」
誘拐犯だった少女は呆然と呟いた。
ルチアは困ったように微笑むと、ゆっくりと口を開く。
「―――王太子妃殿下は、きっと、善人ではなかったのでしょう」
突然告げられた言葉に、ショシャンナが怪訝そうに眉を寄せた。確かに彼女にとっては訳のわからない話に違いない。
「けれど、だから死んで当然だとは思いません。思えるほどには、ルチアはあの人を知らないもの」
とはいえ、妃殿下も奴らの仲間だったのだから実際は非道な人間だったのかも知れない。彼女によって傷つけられたり、あるいは、命を奪われた者もいるかも知れない。そして、そうした者たちにとっては死んで当然の存在だったのかも知れない。
けれど、ルチアと同じくユリシーズも何も知らなかった。もちろん、いずれ知ることになるのかも知れないが、少なくとも今この場に存在しているのは―――セシリアという名の女性に救われたのだという事実だけだ。
「ショシャンナは、ルチアたちを助けてくれましたわ」
ぴくり、とショシャンナの肩が動いた。
「ルチアが殴られたら冷たい氷を用意してくださいましたし、あの乱暴な見張りも追い払ってくれた」
「それは……」
厳しい表情が、だんだんと困惑するようなものに変わっていく。
「そのお礼もできないほど、ルチアは礼儀知らずじゃないんですのよ」
ルチアが屈託なく笑う。それは優しいだけではない、覚悟を決めた笑みだった。
「さあ、逃げて。でも、忘れないでくださいませ。この先あなたの犯す罪はわたくしの―――ルチア・オブライエンの罪でもあるということを」
◇◇◇
「―――時間だ」
その声に、コニーは閉じていた瞼を開くとゆっくりと立ち上がった。鼠色の質素なワンピースはこの日のために用意されたものだ。
部屋から出れば、看守からおもむろに盃を手渡される。中には紅い液体が入っていた。突然のことに思わず身構える。まさか、毒でも入っているのではなかろうか。躊躇っていると、後ろから間延びした声がかけられた。
「ただの果実水ですよ」
振り向いた先にいたのは見知った男だった。相変わらず樽のような体に、今日は、式典用の白い法衣を纏っている。
「……ハームズワース子爵?」
「あの方があなたに変なものは飲ませるなと仰るのでね」
子爵は、看守に聞こえぬように声を潜めるとくすりと笑った。あの方とは誰だろう、とコニーは内心首を傾げる。
しかし、とりあえずはその言葉を信じることにした。このでっぷりと肥った男はおよそ聖職者とは思えぬほどに堕落しきっているが―――コニーの知る限り、嘘はつかない。
果実水を飲み干すと、すぐに手枷が嵌められた。執行人たちに付き添われ、そのまま護送用の馬車に乗せられる。
モルダバイト宮から広場へと続く門が開錠されると、待ち構えていたかのように怒号が鳴り響いた。馬車から降りれば、それはさらにひどくなる。
まるで十年前のようだ、とコニーは思った。
ふと見上げた空は、どんよりと湿った雲に覆われている。そんなところまで、十年前と同じだった。
(―――まあ、スカーレットのようにはなれないけれど)
彼女は、その圧倒的な美貌と気高さで人々を黙らせたのだ。そんな真似、この平々凡々な顔では逆立ちしたってできっこない。コニーはちょっぴり苦笑した。そして、ゆっくりと深呼吸をしてから歩き出す。
「売国奴め!」処刑台に向かう途中で、誰かが叫んだ。「人でなし!」「悪魔!」「王子をどこにやったんだ!」口々に罵声が浴びせられる。コニーはぐっと唇を噛んだ。
「―――やかましいわ、クソガキども!」
その時、よく通る声が広場中に響き渡った。
「ああ、まったく、これだから毛の生えそろってないガキは嫌なんだよ! どいつもこいつも、このあたしに躾け直されたいのかい!?」
しゃんと背筋の通った身綺麗な老婦人を先頭に、着飾った妙齢の女性たちがぞろぞろと広場に入ってくる。その浮世離れした華々しさに、人々は、はっと言葉を失うと、次々に道を譲っていった。
「やだ、オードリーってば口が悪いのね」
「ばかね、ミリアム。オードリーは耳も性格も悪いわよ」
麗しい花々は軽口を叩き合いながら零れんばかりの微笑みを振りまいている。気づけば男も女も―――さらには年端も行かぬような子供たちまでもが、彼女たちをうっとりと見つめていた。
コニーは、ぽかんと口を開けた。呆気に取られていると、今度は全く関係のない方向から新たな声が上がる。
「いい加減に、してちょうだい……!」
生憎と、群衆に埋もれてその姿は見えなかったが。
「だいの大人が揃いも揃ってなんて無能なの……! コニーが、そんなことするわけないじゃない……! ちょっと考えれば、そんなこと、すぐにわかることじゃない……!」
けれど、間違いない。あれはケイトだ。あのいつも笑みを絶やさぬおっとりした子が、声を張り上げて憤っているのだ。
「そうそう、こっちにはあのパメラ・フランシスの取り巻きだった子の証言だってあるんだからね! あ、今の詳しく知りたい人はここに号外あるんで読んでー!」
ちょっぴり図々しいのはきっとミレーヌだろう。
―――虫の羽を捥ぎ取ろうとするような高揚した空気はいつの間にか霧散し、その代わり、ざわざわと懐疑的な声が上がっていく。広場には、奇妙な風向きが生まれつつあった。
コニーはぱちくりと瞬きをした。これはいったいどうしたことだろう。
重く垂れさがった雲間から、ぽつり、と雨が落ちてくる。それは瞬く間に勢いを増し、ざあざあと地面を穿っていった。
気づけばコニーはその場の衆目を集めていた。誰も彼もがコニーの言葉を待っている。熱病に魘されたような上擦った感覚の中で、コニーも何かを応えようと口を開く。
しかし、次の瞬間―――乱暴に背中を蹴りつけられて地面に倒れ込んだ。そのまま髪を掴まれ、無理矢理に跪かされる。
「―――コンスタンス・グレイル!」
大声を張り上げたのは王立憲兵局に属する男だった。確か、誘拐幇助の一件でコニーを取り調べたゲオルグ・ガイナという男だ。
「隣国の王子を拐かし、国家転覆を企てた罪により、これより斬首刑を執り行う!」
ガイナが言い終わると、傍らに控えていた死刑執行人が空高く剣を掲げた。
躊躇いなく下ろされた剣が音を立てて風を切る。そこらかしこで悲鳴が上がる。コニーは、ぎゅっと目を瞑った。
後悔なんて、するものか。
その時、コニーの頭上で呻くような声が上がった。次いで、金属が叩きつけられる硬質な音も。
いつまでたっても衝撃は来なかった。そっと目を開ければ、執行人がその場に蹲っている。手首にはなぜかナイフが突き刺さっており、ぽたぽたと血が滴っていた。
その足元には、剣が、転がっている。
「そこまでだ」
耳に飛び込んできた重低音に、どくり、とコニーの心臓が跳ね上がった。上げた視線の先にいたのは、黒髪に紺碧の瞳。
おっかない顔をした、誰よりも不器用で優しい人。
―――ランドルフ・アルスターは額に汗を滲ませ息を切らしながらも鋭く叫んだ。
「この処刑は無効だ! 王子ならここにいる!」
振り返った先には、太陽のような色合いの髪を無造作に束ねた大柄の女性が立っていた。サンだ。その腕の中には宝石のような青紫の瞳を持った少年がいる。きっとあれがユリシーズなのだろう。
サンが少年を地面に降ろした。王子は、幼いながらも利発そうな顔立ちをしていた。ひどく疲れているようだが、それでもしっかりとした口調で告げる。
「私を攫ったのは祖国の手の者だ! この女性は、何の関係もない!」
その宣言に人々がどよめいた。一体どういうことかと動揺が広がっていく。
「戯れごとを!」
焦ったようにガイナが吠えた。
「信じられるものか! 第一そこの女―――お前のことは知っているぞ!」
そう喚きながらサンに向かって指を差す。
「サンと言ったな。だが、しかし―――」
ガイナはひどく醜悪な表情を浮かべると、高々と声を張り上げた。
「―――ファリスの第三殿下派の陣営に、サンという名の人間はいない!」