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※残酷・流血描写があります
空は、雲一つなく晴れ渡っていた。
ふと十年前を思い出してセシリアは眉を顰めた。確かあの日も始まりはよく晴れていた。だから、わからなかった。その直後に嵐が訪れるなど―――
誰も、予想だにしていなかったのだ。
◇◇◇
セシリアは寝台の横に用意された椅子を引くと、死んだように眠り続ける美貌の夫を見下ろした。
―――コンスタンス・グレイルの処刑は、日没より前に行われる手筈となっている。残された時間は、あと半日ほどだろうか。
端正な寝姿を意味もなく眺めていると、ふいにエンリケの睫毛が震える。そのままゆっくりと瞼が開いて、鮮やかな赤紫色の虹彩が現れた。
「……なんだ、とどめでも刺しに来たか?」
ぼんやりとした口調に、セシリアは小さく溜息をついた。
「寝惚けるものたいがいにしてちょうだい。本気で殺すつもりなら、あなた、とっくに死んでるわよ」
「そう、か……」
まだ意識がはっきりしないのか、どこか焦点の定まらない視線を向けられる。
「夢を、見ていたよ」
エンリケはそう言いながら、緩慢な動作で体を起こした。
「私たちが、出会って間もない頃の夢だ」
そして、まるでひとりごとのように訥々と語り出す。
「……覚えているか? 王宮を抜け出して、城下で流行っているという大道芸を観に行ったことが、あっただろう。その帰り道に、私は、間抜けにも掏摸にあって。すると君は、すぐさま少年を捕まえてこう言ったんだ。―――たとえどんな理由があったとしても、胸を張って歩けない生き方なんて、するんじゃないって」
セシリアは、黙ったままエンリケの言葉を聞いていた。
「なんてまっすぐな人なのだろうと思ったよ。あれも、ぜんぶ、演技だったのか?」
その真剣な眼差しに一瞬だけ息をとめると―――すぐに苦笑した。「当然じゃない」
わざとらしく肩を竦めて、小馬鹿にするように鼻を鳴らす。事実、馬鹿げた質問だった。そう、馬鹿げている。
だって、この身に―――そんな大層なことを言える権利などないのだから。
「あれは、セスの言葉だもの」
聖女を演じるのは簡単だった。なぜならセシリアは本物を知っていたからだ。彼女ならどうするか。彼女なら何を言うか。いつだって、考えるまでもなく答えは出てきた。
「セスはね、世界で一番きれいで、優しくて、勇敢で」
エンリケが心を奪われるのも、民衆から慕われるのも当然だった。だって、それはセシリアであってセシリアでなかったからだ。
セシリアの記憶にある、この世で最も美しいものだったからだ。
「まっすぐで、正しくないことが、大っ嫌いで―――」
ずっと、ずっと、気づかない振りをしていたけれど。
答えは、いつだって、考えるまでもなく出てきていたのだ。
今日のように。
「―――ねえ、エンリケ」
セシリアは静かに息を吐いた。
「私ね、昔から、あんたのその迂闊さが大嫌いだった」
十年は決して短くなかった。もちろん互いに牽制し合い、腹を探り合うことがほとんどだった。けれど、ふとした瞬間に他愛もない会話を重ねることもあったのだ。これがもしアドルファス・カスティエルやランドルフ・アルスターだったらあり得なかっただろう。
セシリアはほんの少しだけ視線を落とすと、そのままぽつりと呟いた。
「でもね、今日だけは―――その迂闊さを褒めてあげるわ」
きっと、最初で最後だろうけど。
そう告げると、顔を上げてにっこりと笑みを浮かべた。エンリケの表情が強張っていく。「……セシリア?」
抵抗しようとする体を押さえつけ、無防備な首筋に手刀を落とす。病み上がりの体はすぐに意識を手放した。力を失ったように、がくんと上体が倒れ込む。
本当に迂闊な男だとセシリアは苦笑した。そして、そのまま息を吸い込む。
「―――誰か!」
声を張り上げれば、いくつもの足音が駆け込んで来た。俄かに騒がしくなった室内を尻目に、セシリアはそっと廊下へと抜け出した。
◇◇◇
壁半分を抜き取るように設計された明かり取り用の窓から、強い陽射しが差し込んで来る。
目敏い侍女と護衛が慌てたようにセシリアの後を追う。背後からの物言いたげな気配を無視して、例の渡り廊下まで足を進めた。
そこで予想通り目当ての人物を見つけると、微笑を浮かべたまま近づいていく。
「ごきげんよう、ルーファス」
「ああ、妃殿下。離宮の方が騒がしいようですが、何か」
「実は殿下の容態が悪化してしまって―――」
セシリアは会話の途中で立ち眩みを装い、その胸にしだれかかった。
「ごめんなさい、少し、眩暈が」
それはいけませんね、という応えとともに介抱するように腕を回される。そのまま、低い声を落とされた。
「……死なれると厄介だぞ」
「大丈夫、ただの発作だったみたいよ」
「なら、いい」
すっと体が離された。それから取り留めもない会話を交わし、何でもないように立ち去っていく。
セシリアは黙ったままルーファス・メイ―――否、クリシュナの後ろ姿を見送った。そしてその姿が完全に視界から消えると、握りしめていた拳をそっと開く。
手のひらの上にあったのは、鍵だった。真鍮製の、精巧なもの。遊ぶように揺らせば、ちゃり、という軽快な音が生まれる。
セシリアは、口の端をつり上げた。
手癖の悪さは、折り紙つきだ。
「妃殿下、一体どちらへ―――」
外に向かって足早に歩き出せば、とうとう侍女が声を上げた。なので、そのまま廊下の影に誘い込んで昏倒させる。手早く侍女服を奪うと、様子を窺いに来た護衛の首元に針を刺した。先端には即効性の麻酔が仕込んである。護衛はびくりと躰を硬直させるとずるずるとその場に沈んでいった。これでしばらくは身動きが取れないだろう。
◇◇◇
離宮を抜け出したセシリアが向かった先はサンマルクス広場だった。市庁舎の裏手―――歴史資料館の建設を記念して設置されたという偉人の彫像たちに紛れるようにして、錆びた銅板が置かれている。
その取っ手部分を持ち上げれば、地下へと続く階段が現れた。
洞窟内は薄暗く、ひんやりとしていた。階段を降りればすぐに見張り役の男がセシリアに気づき、驚いたような表情を浮かべる。セシリアは動じることなく微笑んだ。
「報告を受けていないの?」
男は戸惑ったように首を振った。
「いえ、自分はなにも―――」
「おかしいわね」
言いながら相手に近づくと、そのまま隠していたナイフを閃かせて頸動脈を掻き切った。男が血飛沫をあげながら声もなく崩れ落ちる。まず、一人目。
周囲を警戒しながら慎重に道を進んでいくと、牢獄付近で人質を監視している男を見つけた。退屈なのか岩肌にもたれかかっている。セシリアはナイフにこびりついた血と脂を衣服で拭いとると、そのまま手首をしならせて投げつけた。
ひゅん、という風を切る音から一拍置いて悲鳴が上がり、男が転がってくる。どうやら大腿部に刺さったらしい。痛みに呻く男の背後に回り込むと顎と頭を掴み上げ、思い切り捻る。
鈍くこもった音とともに男は呆気なく絶命した。
「……王太子妃、殿下?」
息を呑むような声でそう告げたのはルチア・オブライエンだった。口元を手で覆ったユリシーズを守るように前に立っている。
セシリアはその問いに答えることなく牢獄に近づくと、鉄格子を繋ぐ錠前に今しがたクリシュナから奪ったばかりの真鍮の鍵を差し込んだ。かちり、という音とともに掛け金が外れる。
ルチアが、大きく目を見開いた。
物々しい足音が遠くから近づいてくる。それも、ひとつやふたつではない。援軍であれば良かったが、残念ながらその可能性は低いだろう。あの神経質な男が鍵を盗まれたことにいつまでも気づかないわけがないのだ。
おそらく、もと来た道は使えない。
「―――右の道を真っすぐに進めば広場に出る階段がある」
幸いなことに洞窟内は一本道ではなく、蜘蛛の巣のように入り組んでいた。そのため出入口もいくつかある。ここから先は行き止まりだが、すぐ横に迂回路があった。
子どもたちは雷にでも打たれたかのように身動ぎひとつしていない。突然の事態に理解が追いつかないようだった。
「聞こえなかったのか? いいからとっとと―――」
言いながら、ふと既視感が湧き上がってきて胸を突いた。あっと思う間もなく、瞼の裏にひとつの光景が蘇る。ごうごうと唸り声を上げる生き物のような赤い炎。焦げた臭い。痛いほどの熱風。次第に近づいてくる嫌な物音。そして―――
(さあ、行って。きっと、あいつらはどこまでも追ってくる。だから、)
気がついた時には、セシリアは声を張り上げていた。
「―――行け!」
まるで、あの時のセスのように。
―――先に動いたのは、やはりルチア・オブライエンだった。
少女はセシリアの怒号に弾かれたようにユリシーズの手を取ると、どこにそんな体力を隠していたのか、そのまま思い切り駆け出していく。小さな後ろ姿はすぐに見えなくなった。
セシリアは思わず噴き出した。なんだ、元気そうじゃないか。
それからゆっくりと呼吸を整え、後方を振り返る。予想通りそこには険しい表情を浮かべたクリシュナと―――武装した仲間達がいた。見知った顔もいくつかあるが、サルバドルがいないのは僥倖だ。脱出した子供たちを地上で見つけても、彼であれば見逃してくれるだろう。
クリシュナはセシリア越しに牢獄を一瞥すると、不快そうに片眉を上げた。
「これは、何の真似だ」
あまりにも馬鹿げた問いにセシリアは肩を竦めた。「しょうがないだろ」
「なんだと?」
クリシュナが眉をつり上げる。セシリアは、ふん、と鼻を鳴らした。
「こっちの負けは端から決まってたんだよ。―――きっと、スカーレット・カスティエルが処刑されたあの時に」
十年前のあの日、すべての運命が変わったのだ。
あの女のせいで。そう、あの女が―――
スカーレット・カスティエルがすべての運命を変えたのだ。
クリシュナが忌々しそうに口を開いた。
「……王子は、どこだ」
セシリアは、にっと口の端を吊り上げた。
「―――誰が教えるかってんだ、下種野郎」
唖然とするクリシュナを見て、セシリアは笑った。ずっと心を圧しつけていた重く澱んだ靄が解けるように晴れていく。それは素晴らしく清々しい気持ちだった。
心はすっかり凪いでいた。セシリアは穏やかな微笑を浮かべて前を向く。視界の中心で、表情を消したクリシュナが淡々と片手を振り降ろすのが見えた。
「撃て」
醒めた声が洞窟内に反響した。
―――その直後、いくつもの銃弾がセシリアの体を貫いていった。身構える暇さえなかった。脳髄が吹き飛ぶような衝撃に、全身が一瞬だけ燃えるように熱くなる。けれど、すぐにすべての感覚がなくなった。両手を広げたまま、崩れ落ちるように地面に仰向けになる。こぷり、と口から血塊が溢れ出てきた。
ああよかった、とセシリアは思った。よかった。よかったのだ。だって、これで―――
(これで、やっと、終われる)
ゆっくりと息を吐き出した。
(最後に、ちゃんと、正しいことができただろうか)
そうでなければ、みんなに―――彼女に合わせる顔がない。
薄れゆく意識の中で、『あなたは、誰の声が聞きたかったんですか?』と真剣な表情で訊ねてきた少女を思い出す。あの時は馬鹿げた質問だと一蹴したけれど。
願わくは、最期に、たった一度だけ―――
(俺も、焼きが回ったか)
まるで聞き分けのない子供のような願いに苦笑が漏れる。その時だった。
―――よくできました!
ふいに明るい声が飛び込んできて、セシリアは、はっと目を見開いた。
―――さっすがシシィね!
勢いよく断言するその声を、己が聞き間違えるはずがない。
ああ、なんだ。安堵のあまりセシリアの顔がくしゃりと歪んでいった。なんだ。聞こえたんじゃないか。耳をすませば、聞こえてたんじゃないか。いつだって。
遠くに大好きな人たちの笑顔が見えた。何だかずいぶんと遠回りしてしまったようだ。
セシリアは―――シシィはかすかに口元を緩めると、そのまま眠るように瞳を閉じた。