9-6
カイル・ヒューズは端正な美貌を思い切り歪めると小さく舌打ちをした。捜査資料の束が山のように積まれた机で一心不乱に書類に目を通す男が視界に入ったからだ。
「―――少し休め」
カイルの声に、男はぴくりとも反応しなかった。わずかに充血した目が左右に素早く動きながら資料を追っている。その目の下には隈があった。
「ろくに寝てないだろ、お前」
おそらく婚約者の処刑が決まってから、ずっと。
―――捜査の傍ら、コンスタンス・グレイルを救うために多くの人間が立ち上がっていたことは知っていた。彼女の友人たちにグレイル子爵。領民たちだってそうだ。それに元婚約者やどこぞの海運王も。
彼らの尽力の甲斐あって風向きはゆっくりとだが変わりつつあった。けれど、その裏でキンバリー・スミスと連携し、予想できる障害を実力行使で取り除いていたのはこの男だった。もちろん【暁の鶏】を追いながら、だ。婚約者を助けたい気持ちは痛いほどわかるが、仕事中毒を自認するカイルでさえ心配になるほどの働きぶりである。
ため息をついていると、淡々とした声が返ってきた。
「問題ない」
「おおありだっつの。お前が倒れたら元も子もないだろーが」
「時間が惜しい。処刑は数日後だ」
「じゃあなおさら体力温存しとけ。それで間に合わなかったらコニーちゃん掻っ攫って国外逃亡でも何でもすればいいだろ。脱獄なら手伝ってやるから」
冗談のつもりだったのだが、ひどく奇妙な沈黙が落ちた。カイルの頬がひくりと引き攣る。
「待て待て待て。まさかお前、そっちの準備も進めてんのか……!」
思わず頭痛を覚えて額に手を当てれば、しれっとした表情で返された。
「何の話だ?」
「……っとに、薄情な野郎だな」
恨みがましく睨みつけても堪えた様子はない。カイルはさらに大きなため息をつくと、口を開いた。
「いいか、これでも俺は―――お前のことを大事な友人だと思ってるんだよ」
そう言ってびしりと指を突きつけてやると、ようやくランドルフが資料の山から顔を上げた。
「それは奇遇だな」
「あん?」
ランドルフは相変わらずの無表情だったが、先程までのひどく張り詰めた空気は幾分か和らいでいるようだった。
「俺も同じことを考えていた」
「へ―――」
「だから、言わない。言えばお前は何に代えても力を尽くしてくれようとするだろうからな」
臆面もなく告げられた言葉にたじろいだのはカイルの方だ。
「……そりゃまた大層な自信だな」
動揺のあまり憎まれ口を叩けば、ランドルフは「自信?」と不思議そうに首を傾げた。そしてそのままさらりと告げる。
「いや、ただの事実だ」
―――それが嫌味でも冗談でもなく、心の底からそう思っているのだとわかる口調だったので。
「このっ……人たらしが……!」
カイルが低く呻きながら頭を掻きむしっていると、部下のトールボットが恐る恐る声を掛けてきた。反射的に睨みつける。
「あ? なんだ?」
「ひっ、す、すいませんっ……!」
よほど恐ろしかったのか、悲鳴とともに速攻で謝られた。聞けば、どうやら来客があったらしい。ランドルフと顔を見合わせていると、ひょこっと扉の向こうから顔が出てきてひらひらと手を振ってきた。
◇◇◇
「お取込み中だったか?」
「いや、構わない」
ランドルフはそう言って立ち上がると、近くの椅子を引いた。
「俺はいない方がいいかな?」
念のためにカイルが訊ねると、客人である金髪の女性は不思議そうに目を瞬かせた。
「貴方はアルスター少佐の腹心だろう? ならば問題ないよ」
鋭い眼光に大きな口。服装は男物で髪は無造作に束ねられているだけ。美人というには野性味のある顔立ちだが、それでも充分魅力的だな、とカイルは思った。それから捜査資料を思い出す。確か―――サンと言ったか。ファリスの第三殿下の陣営の人間で、エウラリアという女性とともに行動していたはずだ。ケンダル・レヴァインと何回か接触があったことは把握しているが、ケンダルはすでに帰国している。それでも彼女たちがアデルバイドに留まっているのはユリシーズ・ファリスの捜索のためなのだろう。
「それで、用件は?」
ランドルフが訊ねれば、化粧っ気のない顔に子供のような笑顔が浮かぶ。
「実は鶏の首を絞める準備をしているんだけど、人手不足でね」
どういう意味かとカイルは首を傾げた。おそらく鶏とは【暁の鶏】のことだろうが―――
「それは」
話が読めずにいるカイルの傍らで、ランドルフがゆっくりと口を開いた。
「メルヴィナに出向いているのが陛下ではなくカスティエル公爵であることに関係しているのか?」
―――なんだそりゃ。
カイルは腕を組んだまま後方を仰ぎ見た。ランドルフは相変わらずの無表情で、女と言えば悪戯が露見した悪たれのように屈託なく破顔している。
「バレていたか」
「気づいたのはこの数日だがな」
カイルは目を白黒させた。陛下はメルヴィナには行っていない? それに、カスティエル公爵がどうしたと? 公爵はエンリケ殿下に付き添っているのではなかったのか? 確かにこの数日、姿は見ていなかったが―――。驚きのあまり思考がついていかない。
その事実を知っているこの女は、ケンダルだけではなく陛下とも接触していたということだろうか。
いや、とカイルはその考えを否定した。おそらく直接ではなく、外交官であるケンダルを通してやり取りをしていたのだろう。あの薄ら禿であれば面会という体裁をいくらでも取れたはずだ。
考えが追いつかないうちに、やたらと明るい声がカイルの耳朶を無遠慮に打つ。
「ならば、エルンスト王が今どこにいるかも?」
「予想はつく」
ランドルフが難なく告げれば、弾けるような豪快な笑い声が降ってきた。
「―――さすがは死神閣下殿だ」
◇◇◇
せまいあついしんどい。
等間隔に並んだ書架の間に巨体をねじ込みながら、ハームズワースはひっそりと嘆息した。
持てる金とコネ、ついでに神の威もちょこっと借りて入り込んだのは、市庁舎の謄本類を管理している資料室だ。通常であれば職員も立ち入りを禁止されている場所なので、もちろん空調など整備されていない。一歩間違えれば茹で豚の出来上がりである。ふうふうと唸りながら目的の資料を探していると、唐突に風が動いた。振り返れば扉が開いている。入ってきたのは見知った人物だった。
「おや、アルスター伯ではありま……」
声をかけた瞬間、わずかに険のある視線を向けられた。思わず言葉を引っ込めると、冷ややかな声が投げつけられる。
「―――進展は?」
「今のところは、特に」
ルーファス・メイが【暁の鶏】だということはすでに伝えてある。今はこうして奴の身辺を洗っているところだが、ランドルフが難なく立ち入っていることを鑑みるに、すでに総局でも得られている情報だろう。
「何かあればすぐに私かヒューズ准尉に言伝を」
ランドルフはひどく素っ気ない口調でそう告げると、さっさと踵を返してしまう。ハームズワースは思わず目を瞬かせた。
『……お前、あの朴念仁に何かしたの?』
さすがのスカーレットも、呆気に取られたような表情を浮かべてハームズワースを見下ろしてくる。しかし生憎と心当たりがない。
うーんと首を捻りながら記憶を辿っていると、「あ」とひとつの可能性に気づいてぽんと手を打った。
「ミス・グレイルとの婚約破棄の手続きをしましたねえ」
それも、ランドルフの了解を得ずに。
『なるほど、逆恨みね』
女神は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりにあっさりと肩を竦めた。ハームズワースも苦笑する。死神閣下にも存外子供っぽい一面があったものだ。もちろん、少し前までは考えられないことである。
不思議な子だな、とハームズワースは目を細めた。これといって特徴のない平凡な少女。それなのに、スカーレット・カスティエルだけでなく、あのランドルフ・アルスターまでも変えてしまった。
『―――それで、ルーファスの方は何かわかったの?』
考えを巡らせていたハームズワースは、その声にはっと我に返ると慌てて口を開いた。
「どうやら本物のルーファス・メイは十年以上前に亡くなっているようですね。貴族とはいえあまり裕福でない分家の末子で、素行が悪かったためにほとんど勘当同然に家を追い出されていたそうです。そこを狙われたのか、偶然なのか―――まあ、今となってはわかりませんが、哀れなルーファスは王都に来て間もなく命を落としています」
『その時に入れ替わったということね。それで、何の後ろ盾もない下級貴族が財務局で職を得られた理由は?』
「テューダー伯爵が後見人になっていたようです」
『テューダー?』
スカーレットは一瞬だけ眉宇を顰めると、すぐさま意味深な微笑を浮かべて首を傾けた。
『確か自殺したテレサ・ジェニングスの浮気相手もテューダーだったわね。ライナス・テューダー。あれもファリスの人間だったけれど、偶然かしら?』
テレサの夫であるケヴィン・ジェニングスはセシリア妃の出生の秘密に気づいて薬漬けにされたのだ―――という噂は今だ根強い。それに、他国の生まれとはいえライナスはテューダー家の跡取りのはずだ。ファリスに帰ったまま戻ってこないというのも不自然である。
ハームズワースは顎に手を当てると、ふむ、と呟いた。
「ならば、テューダー家も調べてみましょうか」
「決めたよ」
エンリケへの形式的な見舞いを終えて自室へと戻る途中の渡り廊下。
セシリアは、そこでルーファス・メイに扮したクリシュナとすれ違った。
周囲に人気はない。今ついている侍女は組織の者だし、警護の関係でエンリケへの見舞いの時間は決まっている。となれば、この場にクリシュナがいたのも偶然ではあるまい。
朗らかな笑みを浮かべながら話しかけてくる男に嫌な予感を覚えながら、セシリアも微笑を繕った。誰かに見られたとしても、遠目には挨拶を交わしているようにしか見えないだろう。
「決めたって、なにを?」
「前にも言っただろう? オブライエンの子供を殺す日だよ」
―――ほら、やっぱり。
セシリアは静かに息をとめてクリシュナを見つめた。
「せっかくだから、コンスタンス・グレイルの処刑と同じ日にしようと思ってね」
薄い唇を嗜虐的に歪めて囁かれる声は、まるで陽気な牧歌のように弾んでいた。
「明後日だ」
―――長い長い沈黙の後で、セシリアは、そう、とだけ呟いた。