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エリスの聖杯  作者: 常磐くじら
本編
105/171

回想(セスとシシィ)

※残酷・流血描写があります

 

 ―――手癖の悪さは、折り紙付きだ。


 高く澄んだ青空を彩るように、ゆったりとした陽差し除けの天幕があちらこちらで揺れている。その下では幾何学模様の絨毯が敷かれ、野菜や香辛料はもちろん、布や日用品の類までが所狭しと並べられていた。そんな大市場バザールの複雑な径路を、麻袋を背負った幼い子どもが迷いもなく駆け抜けていく。昼下がりとはいえ市場はまだ賑わいを見せていた。子どもは器用に人混みを避けていたのだが、ちょうど曲がり角に差し掛かったところで男のひとりとぶつかってしまう。

「気をつけろ、坊主!」

 怒鳴る男に向かって子どもは軽く帽子を上げつつも、走りをとめることはしなかった。

 しばらくしてたどりついたのは果物屋だ。檸檬の輪切りを浮かべた水盥に、明け方に採れたばかりの甘瓜を浮かせている。

 真剣な眼差しで果実を吟味しているのは年端も行かぬ少女だった。遠目からもわかる整った容姿を見つけると、子どもはわずかに相好を崩した。それから、脂下がった表情で少女と談笑していた体躯の良い店主の腰を蹴りつける。

「―――セスから離れろ、おっさん」

 といっても繰り出された右足に勢いはほとんどなく、子どもにとっては一種のじゃれ合いのようなものだった。店主もそれがわかっているので目くじらを立てることなく茶目っ気たっぷりに片目を瞑る。

「お、やーっと小さな騎士サマのお迎えか。にしても相変わらずちっこいなあ、お前」

「うるせえ。そのうちデカくなるんだよ。おっさんなんて余裕で見下ろしてやるから覚悟しとけ」

 失礼な店主はその言葉を聞くなりげらげらと腹を抱えて涙を拭った。むすっとしていると、今度はやわらかい衝撃がやってくる。

「シシィ!」

 ぎゅっと勢いよく抱き着いてきたのはもちろん隣にいた少女―――セスだった。

「会いたかったよーう!」

「そうか? たったの数日だろ」

 年老いたマザー・ナタリーから使いを頼まれたのは一昨日のことだ。中心街に店を構える馴染みの薬師から腰痛に効く膏薬を買ってきて欲しいとお願いされたのである。これまでにも何度も行っているはずなのだが、その度にセスはこうして大袈裟に再会を喜ぶので、気恥ずかしくなってついつい素っ気ない態度になってしまった。

 手にした巾着を意味もなくじゃらじゃらと弄っていると、ふいにセスが眉を上げた。

「それ、どうしたの?」

 ―――しまった。シシィは心の中で舌打ちをした。見慣れない巾着の存在に気づかれてしまったようだ。巾着の中身は明らかに銅貨―――こんなスラムにほど近い市場で銀貨や金貨にお目にかかることなどまずありえない―――である。今回は出稼ぎに行ったのではないから怪訝に思うのも当然だろう。

「あー」

 シシィはがしがしと頭を掻くが、うまい言い訳が思いつかない。

「……拾った」

 案の定、重たい沈黙が落ちる。セスは愛らしい顔に迫力のある笑みを浮かべると、ずいっとシシィに詰め寄った。

「ど、う、し、た、の?」

「いや、その、さっきぶつかったついでに、つい」

「つい?」

「ええと、手が、うっかりと」

 金目のものをくすねていたのである。目を泳がせながら小さく告げれば、途端にセスはまなじりをつり上げた。

「返してきなさい!」

「はあ!? なんでだよ!?」

「盗みは犯罪です!」

「盗られる方がわりーんだろ!?」

「盗る方が悪いに決まっているでしょう!?」

 マザー・ナタリー仕込みの気迫にシシィは「うっ」と怯んだ。

「あたしの目がこうして開いているうちは、シシィに胸を張って歩けない生き方なんてさせないからね!」

「こ、子ども扱いすんじゃねえ!」

「だってあたしのがお姉さんだもの!」

「ひと月早く孤児院に捨てられてたってだけだろ!」

「あーら、文句ならあたしより背が伸びてから言うのね」

 ふふん、と鼻で笑われ、シシィはがっくりと肩を落とした。わかっていたことだが、この口達者な自称姉にシシィ如きが敵うわけがなかったのだ。



 セスとともに重い足取りで今来た道をたどっていく。それでも相手が盗難に気づいていなければいいのにと思っていたのだが、香辛料を量り売りする店の前で必死の形相で探し物をする男を見つけてしまった。ついてない。

「あー、おい」

 中年の男はシシィを見ても「この盗人が!」と掴みかかってくるようなことはなかった。ぶつかったのは一瞬だ。相手が子どもだとは認識していても、顔までは覚えていないのだろう。

「さっきこの辺りに落ちてたのを拾ったんだけど。あんたの探し物ってこれ?」

 そう言って巾着を差し出せば、男は驚いたように目を見開いた。それから今にも泣き出しそうな顔で頷く。

「ああ―――ありがとう。この中には、妻の形見が入っていてね」

 へえ、とシシィは素っ気なく返した。何度も振り返りながら礼を言ってくる男の後ろ姿を複雑な気持ちで見送っていると、ぱちぱちという拍手が聞こえてくる。もちろんセスである。

「よくできました!」

「いや、言っとくけど別に褒められるようなことは何もしてないからな」

 シシィは思わず真顔で突っ込んでいた。盗ったものを持ち主に返しただけである。

「あら、だって間違ったことをしても最後にはちゃんと正しいことができるじゃない。それってとっても立派なことよ。さっすがシシィね!」

 セスは満面の笑みを浮かべると、ぽんとシシィの頭の上に手を乗せた。そして、そのままわしゃわしゃと力任せに髪を乱していく。

「ちょ、やめろ、首がもげる!」

「シシィってば照れてるー! かっわいいなあ、もう!」

「ちがう!」




 ぐったりしながら孤児院に戻れば、年長組のリアがとことこと近寄ってきた。

「シシィ、セス、おかえりー!」

「おう、ただいまー。なんか変わったことはあったか?」

 ふわふわの栗毛を撫でながら訊ねる。それはシシィが帰宅した際の口癖のようなものだったのが、リアはおっとりと首を傾げると、うん、と頷いた。

「へんな人がきたー」

「変な人?」

「そう、へんな人ー。えっとね、今年で十二歳になるセシリアっていう女の子を探してるんだってー」

 その言葉にシシィは眉を寄せた。捨てた子が惜しくなって両親が迎えにでも来たのだろうか。

「へえ、そりゃ骨が折れるな。こちとら正確な生まれ年なんてわかんねえし、だいたいこの町じゃ女の半分がセシリアって名前だろ。確か今の領主の娘だってそうだ」

 セシリアとはかつて不毛だったリュゼ領に祝福をもたらした伝説上の修道女の名だ。

「うちにも『セシリア』はたくさんいるもんねえ」

 ちなみに、のほほんと話すリアだって()()()()である。同じ呼び名ばかりだと紛らわしいので、こうして愛称で区別しているのだ。

「で、そいつどうした?」

「まだいるー」

 リアはシシィの背後に向かって指差した。

「あ?」

 振り返れば、予想に反して身なりのいい見知らぬ男と、そいつに絡まれるセスがいた。シシィの顔が思わず引き攣る。




「セス、ということは、君の本名はセシリアかな?」

「は、はい」

「その瞳―――薔薇色、に見えなくもないね」

「はい……?」

 何だ、あの馴れ馴れしい野郎は。舌打ちをしたシシィは腕まくりをすると男に近づいていく。「おい、あんた―――」

 しかし、シシィの声が届く前に男がマザー・ナタリーに話しかけてしまった。

「シスター、彼女と少し話がしたい」

 男はそう言うと、有無を言わさぬ強引さでセスを客間に連れて行ってしまう。あっという間の出来事で制止する暇などなかった。

 そこで、一体どんな話があったのかはわからない。


 けれど、男との話し合いを終えたセスはすでに孤児院から出て行くことを決めていたのだ。





「……シシィ、起きて」

 セスが孤児院から去る前日の晩。子どもたちと一緒に雑魚寝をしていたシシィはぞんざいな手つきで揺り起こされた。

「ん、と……セス?」

 目を擦りながら確認すれば、しっ、と人差し指に唇に当てられる。「外に出られる?」



 ―――やってきたのは孤児院の裏手にある土手だった。そこに、ふたり並んで寝そべった。

 川から吹く風がさわさわと草を揺らしては青い匂いを届けてくれる。りりりり、と鈴に似た声を持つ虫がどこかで鳴いている。夜の中にも濃淡があり、頭上では白い月が煌々と輝いていた。

 セスはぽつりぽつりと語り出した。どうやら領主の娘は生まれつき体が弱く、もう長くは生きられないらしい。

「それで、あたしが、そのセシリアお嬢さまになるんだって」

 リュゼ子爵には昔から馴染みの娼婦がいたそうだ。彼女は子爵が知らぬうちに子を孕み、産み落としていたらしい。もちろん娼婦がまともに子どもを育てられるはずもないので、そのまま孤児院に預けることにした。ただセシリアという名だけは決めていたため、読み書きができる商館の主人に頼み込み、名前を縫いつけた毛布を持たせたという。

 その名が子爵の娘と同じ『セシリア』だったのは偶然なのか、それとも何か意図があったのか。件の娼婦はすでに他界しているとのことなので、永遠にその謎は解けないままだろう。

「それさ、人違いだっていう可能性はないのかよ?」

 この町だけでもいったい何人の『孤児院育ちで十二歳のセシリア』がいると思っているのか。

「だいたい、その条件なら―――」

 続けようとした言葉を、セスが珍しく強い口調で遮った。

「きっと、本当に子爵の落とし子かどうかはどうでもいいんだと思うわ。適性とか、性格とかもあるだろうし。向こうの需要と供給が一致したのが、たまたま、あたしだったのよ」

 大人っぽく微笑むセスはまだ子供とはいえ、ハッとするほどきれいだった。おそらくそういうことも関係しているのだろう。

 理由はわかったが、納得できるかはまた別だ。どこか裏切られた気持ちになっていたシシィは、気づいたら毒を吐き出していた。

「だからって貴族のご令嬢なんてセスに務まるのかよ。それに需要と供給って―――そんなにお姫様暮らしがしたかったのか?」

「ううん、もっといいことよ」

「は?」

「―――孤児院を支援してくれるんだって」

 その言葉にシシィは表情を消して黙り込んだ。

「あたしがお嬢さまの代わりを立派に務めれば、子どもたちに教育を受けさせてくれるって言うの。みんながみんなシシィみたいに器用だったら孤児院を出てもうまくやっていけると思うけど、そうじゃない子もいるでしょう? でも、文字さえ読めれば路頭に迷う子は格段に減る」

「……で? 肝心のお前の幸せはどこにあるんだ」

「みんなとともに」

 後悔など微塵も感じさせないきっぱりとした口調に、シシィはわざとらしく「あーあ」とため息をついた。それから膝についた土を払うと立ち上がる。「仕方ねえなー」

「何かあったらすぐに俺を呼べよ。こう見えて腕はけっこう立つ方だし、機転も、まあ、割と利く方だと思うし」

「ちっちゃいけどね」

「うるせー」

 余計な茶々を入れる()()()()を睨みつければ、彼女は悪びれもせずにペロッと舌を出してくる。

「いいか、セス。俺の―――」

 言いながら、ちょっと違うな、とシシィは思った。だから一端言葉をとめて振り向くと、にかっと笑ってこう伝えた。

「俺たちみんなの幸せはさ、お前も一緒に笑っていられる未来なんだよ」

 セスは目をぱちくりと瞬かせると、それから、ひどく気恥ずかしそうにへらりと口元を緩めたのだった。




 みんなで幸せになろう。


 そう、約束したはずなのに。



 いったい何が起こっているのだろう。どくどくと早鐘を打つ心臓を宥めすかして、シシィは炎の中を進んでいった。

「マザー・ナタリー!」

 育ての親の名を呼ぶが、ナタリーどころか誰の返事も帰ってこない。ぱちぱちという火の爆ぜる音と、唸るような炎の声があるだけだ。

 どうして、どうしてこんなことに。

 ―――今日、シシィは隣町まで使いに行っていた。少々面倒な作業だったため、すべてを終える頃にはすでに日が暮れていた。本来であればそのまま町に一泊して明朝出立するのだが、今日は路銀が惜しかったので宿は取らずに帰ることにしたのだ。

 孤児院にたどり着いた頃には月はとっくに頂きを通り過ぎていて、そして、すでに火の手が上がっていた。

 シシィは怯むことなく炎の中に飛び込んでいった。そこらかしこで赤い炎が燃え広がっている。なるべく勢いが少ない道を進んでいくが、それでも痛みを伴う熱風が襲う。咽喉が焼けつきそうになりながらも、シシィは大声を張り上げた。

「リア! ピート! クリス! ジェシー……!」

 誰か、誰か、返事をしてくれ。お願いだから。

「くそっ……!」食堂に向かう途中で炎の塊が天井から降ってきた。じりじりと皮膚が嬲られていく。この辺りは火の回りが早い。それでも前に進もうとすると、悲鳴とともに誰かがシシィの腕を掴んでとめた。

「シシィ……!」

 いつかのように力いっぱい抱きしめられる。

「セス……?」

「よかった……! 生きてた……!」

 涙の滲む声でそう言ったのは、確かに子爵家に引き取られたはずのセスだった。けれどもその姿はご令嬢とは思えないようなひどい有様だ。頬は煤け、腕は火傷し、上等なドレスは襤褸切れのようになってしまっている。それに、血のようなものがべったりとこびりついていた。

 シシィはばっと体を離した。

「怪我してるのか!?」

 セスはぎくりと体を強張らせると、力なく首を振った。その様子を怪訝に思ったものの、セスの血ではないということに安堵してそれ以上の追求はしなかった。

「いったい、なにが……?」

「―――あたしのせいだ。あたしが、バカだったんだ」

 セスは歯を食いしばりながら低く呻いた。

「あの領主は最初から入れ替わりを知っている人間を生かしておくつもりなんてなかった。あたしが、もっと早く気づいていれば―――!」

「セスのせいじゃねえだろ」

 宥めるようにぽんぽんと背中を叩けば、セスの肩がわずかに震えた。

 その時、吹き抜けの二階部分から声が降ってきた。

「おい、今、人影が見えたぞ! まだ生きている奴がいるんじゃないか!?」

 その声に集まってきた物々しい足音はひとつやふたつではない。鈍く光るのは刃物だろうか。

 ―――どういう、ことだ。

 武器を持った男たちに、血だらけのドレス。

 ()()()怪我をしていないと言った。ならば、これは、誰の血だ?

 どうして、誰も、返事をしないのだ?

「……セス」

 彼女は己を見た時、何と言ったのだったか。

 ―――良かった、()()()()

 おかしくはないか。その言い方では、まるでシシィ以外は―――

「みんなは、どうしたんだ?」

 セスは、はっと息を呑んだ。赤茶の瞳は愕然と見開かれ、唇が戦慄わななく。彼女はぐっと唇を噛みしめると、泣きそうな顔で首を振った。

 まにあわなかった、と。

「他に、無事な子は……」

「いない。マザー・ナタリーも、リアも、みんな殺されてた。死体がなかったのは、シシィだけで」

 怒りのあまり目の奥で火花が散った。なんてことを。なんてことを―――

 握りしめた拳に爪を立てる。痛みで少し頭が冷えた。今は怒りをぶつけている暇はない。シシィは低い声で告げた。

「あいつらが来る前に、早く逃げるぞ」

 ぐいっと細い手首を引っ張り、中庭へと続く扉の前まで来る。けれど、なぜか少女はそこから動こうとしなかった。怪訝に思って振り向けば、どしんと突き飛ばされて、一人だけ中庭へと押し出される。体勢を崩して尻もちをついた。

「セス!?」

「あたし、足遅いもの」

 突然告げられた脈絡のない言葉にシシィは眉を寄せる。

「シシィは速いもんね。だから、助けを呼んできて」

 そんなこと、できるわけがないのに。

「さあ、行って。姿を見られたからには、きっと、あいつらはどこまでも追ってくる。だから、」

 絞り出すような声だった。おそらく彼女は囮になるつもりなのだ。そのことに気づくと同時にシシィは跳ね起きた。一人で逃げるなんて冗談じゃない。逃げるなら、ぜったいに二人で、だ。そう思って手を伸ばした瞬間だった。

 シシィの目の前で、炎に包まれた柱が唸り声を上げながら崩れ落ちる。伸ばした手は届かない。


「―――行け!」

 最後に聞いたのは、焦ったようなセスの声と。

 ばたばたという階段を駆け降りる、いくつもの足音。

 ―――行け。

 弾かれたようにシシィは走り出した。眦からは熱いものが零れ、咽喉からは嗚咽が漏れる。はやく。はやく。急がないと。けれど―――



 憲兵を連れて戻って来た時にはすでに火の海が広がっていた。立ち昇る赤い炎が夜空を焦がす。ぱちぱちと火が爆ぜる度にそれは星屑のように瞬いた。


 ごうごうと燃え盛る孤児院を前にシシィは脇目も振らず慟哭した。





 眩しい陽光が痛いくらいに瞼を刺して、シシィは朝が来たことを知った。孤児院の裏手にある土手。セスとふたりで寝そべった草むらに、今は一人で横たわっている。

 ぜんぶ夢だったのだろうか。霞がかった思考のままぼんやりとしていると、どこからともなく声が聞こえてきた。



「―――苦労して探してきた手駒をこうも容易く壊されるとはね」

 厭味ったらしく笑ったのは、半月ほど前に孤児院を訪れた男だった。

「ひとり残らず殺せって命令でしたからねー。まさか屋敷にいるはずの人間が孤児院にいるとは思わないし、仕方ないんじゃないっすかねー」

 オジョウサマの顔もよく知らなかっただろうし、と応えるのは幼い少年の声だ。おそらくまだ声変わり前だろうが、のんびりとした口調に反して内容は辛辣だった。

「君はあの子どもの顔を知っていたんじゃなかったっけ、サルバドル」

「俺、昨日の作戦には参加してないですもん。あれ、あのバカ子爵の独断なんで。やったのはバカの子飼いども」

 場にそぐわぬ明るい声に、男が頭痛を堪えるような溜息をついた。

「あの愚か者は何を考えているんだろうね。せっかく手駒が自ら協力するような状況にしてやったというのに」

「どーせ脅せば何とかなると思ったんじゃないっすかねー。あの手の貴族は下賤の命なんて糞とも思わないから」

「それで保身に走ったというわけか」

 話に出てきているのは、間違いなくリュゼ子爵のことだろう。

 

 ―――そうか、あの男(リュゼ)か。


 シシィはその事実を脳裏に焼きつける。

 あの男が、セスを。マザー・ナタリーを。リアを。小さな弟妹きょうだいたちを。

 どす黒い炎が腹の中でぐるぐると暴れ出した。感情の奔流を堪えるようにぎりっと奥歯を噛みしめる。

 その時、がさりという枯葉を踏む音がして、シシィの頭上に影が差した。

「生き残りがいたのか。名は?」

 どうやら気づかれたらしい。だというのに不思議なくらい心は凪いでいた。もともと隠れるつもりもなかったのだ。殺すなら、さっさとそうすればいい。そんなことさえ考えた。


 そうすれば、みんなのところへ逝ける。

 

 だから手足を地面に投げ出したまま、掠れた声で「シシィ」と呟いた。男の目が細まって、じっとシシィを検分していく。

「―――ああ、女か」

 驚きもなく告げられた言葉を、少しだけ意外に思った。シシィはこれまで一度も己が男だと他人に名乗ったことはないが、この格好と口調を見て皆勝手に勘違いをしてくる。孤児院の家族以外にシシィの性別を女だと認識している人間は少なかった。

「ならば―――君もセシリアだな」

 懐かしい呼び名にまた心臓が千切れそうになった。セス。シシィ。リア。どれも『セシリア』の愛称だ。

 男は乱暴な手つきでシシィの顎を掴むと、ぐいっと己の方に向けさせる。

「これはまた見事な薔薇色の瞳だな。リュゼ家に特有のものだ。少年だと思って見落としたか。あのセスとかいう少女は何かを隠している気配があったが―――なるほど、君のことだったのか」

 脳髄を金槌で打ち付けられたような衝撃が走る。この男は今、シシィの薔薇色の瞳がリュゼ家のものだと言わなかったか。そうだ、確かに孤児院で初めて会った時、この男はセスに言っていたではないか。薔薇色の瞳に見えなくもない―――と。だとすれば、屋敷に連れて行かれたセスも、当然、その説明を受けていたはずだ。


 探しているのは、珍しい薔薇色の瞳を持つセシリアという名の十二歳の少女。

 

 それがシシィであることに、あの賢い姉が気がつかなかったはずがない。

(―――セス!)

 シシィは声にならない悲鳴を上げた。彼女は最初からシシィを守ろうとしてくれていたのだ。

 もはや耐えることなどできなかった。上体を折り曲げてその場に蹲る。くるしい。くるしくて、かなしい。怒りにも似た、けれど怒りよりも遥かに醜くてどす黒い何かが今にも腹を食い破ろうとしてきている。

 震えながら息を吐き出すシシィに、男は興味深そうに目を細めた。

「子爵が憎いかい? なら、復讐を、させてあげようか」

「ふく、しゅう」

「君がこちらの言う通りに動くというのであれば、あの下種野郎をじっくりと嬲らせてあげるよ。しばらくは生きていてもらうことになるけれど、奴の役目が終わったら好きに遊んでいい」

 つまり、シシィに、セスの代わりを務めろということだろうか。

「……冗談じゃない」

 シシィはさっと男から顔を背けると、低い声で吐き捨てた。

 子爵とどういう関係かは知らないが、そもそもこいつらが、()()()()、セスを連れて行かなければ―――

「ふうん。じゃあ、どうするんだい?」

「いっ」

 容赦なく前髪を掴まれ、逸らしていた顔を無理矢理に上げられた。愉しそうに目を細めた男がシシィの顔を覗き込んでくる。青みがかった銀色の双眸。瞳孔のすぐ横に、二連の黒斑があることに気がついた。

「まさか己の手で本懐を遂げるとか言うつもりじゃないだろうね? 今日食べるものにも困るような非力な子どもが、腐っても領主相手に」

 シシィはわずかに目を見開いた。そうだ。もう、シシィには頼れる人も帰る家もない。何もないのだ。

 あるのは、今にもこの身を喰いつくそうとするような昏い炎だけ。

「良いことを教えてあげようか。我々は暁の鶏(ダェグ・ガルス)と言ってね。この国を亡ぼす密命を受けているんだ。今回の件はその下準備というわけ。怖気づいた?」

 シシィの世界はあの温かい孤児院だった。それだけだった。その大切な世界が壊された今、この国がどうなろうが知ったことではない。

 ―――だから。


「さあ、悪魔に魂を売る覚悟はできたかい?」


 そう言って嗤う悪魔のような男が差し出した冷たい手を、躊躇いもなくシシィは取った。



◇◇◇



 ―――あなたは、誰の声が聞きたかったんですか?


 セシリアは寝室の窓辺に立つと、夕陽に沈んでいく城下街を見下ろした。

 あの時、どうして何も答えることができなかったのだろう。すぐに言えばよかったのだ。答えなどわかりきっていたのだから。


 誰も、と。


 セシリアを置いていった者たちの誰の声も―――ましてや彼女の声なんてこれっぽっちも聞きたくない。




 だって、きっとひどく怒られてしまうだろうから。


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