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エリスの聖杯  作者: 常磐くじら
本編
104/171

9-5

 

 さあここが踏ん張りどころだぞ、とミレーヌはぐっと拳を握りしめて気合を入れた。


◇◇◇


 きらびやかなシャンデリアの下では、腹の底まで着飾った狐狸どもが笑顔を貼りつけて踊っている。ミレーヌの仕事はこいつらから名前をぶんどってやることだ。


 ―――数日前、ウォルター・ロビンソンは集めた嘆願書を王宮に届ける算段がついたと言ってきた。

 それだけではない。キンバリー・スミスのもとには団体員だけでなく、グレイル領の若者も集まり、今や王都中で解放運動が行われている。おっとりとした見た目に反して気のつくケイトは文字通りキンバリーの右腕として補佐をしているはずだ。


 ミレーヌの書いた記事は、けっきょく、どこの出版社にも取り上げられることはなかった。もしかしたら、どこからか圧力が掛ったのかも知れない。けれど、一番の原因は純粋な実力不足だろう。悔しいが、所詮ミレーヌは世間知らずの貴族のお嬢さんだったのだ。けれど、打ちひしがれている暇はない。記事はまた書けばいいが、コンスタンスの処刑は待ってくれない。ミレーヌのちっぽけなプライドなどどうでもいいのだ。


 だから恥も外聞も捨てて、ミレーヌ・リースは堂々と()()()()()()()として動くことにした。今集まっている嘆願書の署名は平民がほとんどだ。国の中枢を動かすためには、ひとりでも多くの上流階級の人間の名が欲しい。

 貴族を集めるにはどうしたらいいのか。ミレーヌとて貴族の端くれなので、それくらいは知っている。夜会を開けばいいのだ。

 リース家はグレイル家に負けず劣らず貧乏だったが、資金面や招待客の手配は、どこからともなく現れたハームズワース子爵がすべて執り行ってくれた。ちなみに当の子爵は肝心の夜会には出席できないらしい。どうやら彼は彼で忙しいようだ。


 ミレーヌは広間を見渡せるように配置された演壇までやってくると、すう、と息を吸い込んだ。



◇◇◇



 声の限りに友であるコンスタンス・グレイルの窮地を訴える。そして、彼女を救うために良識ある方々の助けが必要なのだとも。

 喧噪がぴたりと止んだ。しかし、壇上に向けられる視線は決して好ましいものではなかった。ひそひそと囁き合う声。あからさまに眉を顰める者や、小馬鹿にしたように鼻を鳴らす者―――

 明らかな侮蔑の気配にミレーヌの足が竦む。怯んでいる場合ではないのに言葉が続かない。


 獲物を甚振る直前のような薄ら寒い空気を破ったのは、意外にもわざとらしい溜息だった。


「まったく、つまらないわね」

 そう言ったのは細身の美女だ。広間の注目が一瞬にしてミレーヌから彼女に移動する。

「エマニュエル伯爵夫人……?」

 確か彼女はコンスタンス・グレイルと懇意にしていた変わり者の伯爵夫人ではなかったか。

「私、面白いことは大好きなのよ」

 残念なことに、その儚げな美貌はひどくつまらなさそうに顰められていたが。

「でもね、さすがにこれは――――笑えないわ」

 凍えるような眼差しに、ぎくりとミレーヌの身体が強張った。ああ、けっきょくこれも駄目だったのか。ミレーヌ・リースは本当に何をやっても中途半端だ。これではコンスタンスに合わせる顔がない。唇を噛みしめ俯いていると、かつかつと踵の高いヒールが鳴った。音は段々と近づいてきて、演壇の前までぴたりと止まる。


 ミレーヌは、思わず顔を上げた。


 エマニュエル夫人はぴんと背筋を伸ばし、ミレーヌの真正面に立っていた。驚きに目を瞬かせているミレーヌを見下ろすと、ふっと唇を持ち上げる。それからワルツでも踊るような優雅な動きでドレスの裾を翻すと、ざわめく後方を振り返った。


 色素の薄い瞳が客人たちをゆっくりと睥睨していく。


「あなた方も本当は気がついているのでしょう? ()()()みたいにね」

 

 責めるでも揶揄うでもない、ひどく淡々とした口調。誰かが息を呑む音が聴こえた。それも、ひとつやふたつではない。


「子供なんて誘拐するわけないじゃないの。だってあの子は―――誠実のグレイルなんだから」


 そこで夫人は何かを思い出したように可笑しそうに噴き出すと、ミレーヌの手からあっさりとペンを奪った。それからさらさらと壇に置かれた羊皮紙に名を記す。

「あ、ありがとうございます……!」

 上擦った声で礼を言えば、伯爵夫人は何でもないようにひらりと手を振った。そして来た時と同じように颯爽と立ち去っていく。

 ぼんやりとその姿を目で追っていると、不機嫌そうな声が背後から掛けられた。

「……どこに名前を書けばいいのよ」

 振り返った先にいたのはエミリア・ゴードウィンだった。

「ゴードウィン、夫人……?」

 彼女は十年前に処刑されたスカーレット・カスティエルの取り巻きのひとりだったはずだ。意外な人物の登場にミレーヌはぽかんと口を開けた。するとエミリアの頬にさっと朱が差し、言い訳でもするように喚き散らす。

「だって、仕方ないじゃない! スカーレットの夢を見ちゃったんだから! あの悪魔、人の枕元に立って何て言ったと思う!? 昔みたいに人を人とも思わない目つきで、『このわたくしの死を、たかが子爵の小娘ごときが再現するなんて許されると思って?』って―――見なさいよ、この鳥肌!」

 エミリア・ゴードウィンは不本意極まりないという表情を浮かべ、広間中に響くような大声を張り上げた。


「―――私は、スカーレット・カスティエルの怨霊に憑りつかれるなんて死んでもごめんだわ!」


 おそらく、その言葉が決定打だった。

 客人たちは顔をさっと青褪めさせると、目を白黒させるミレーヌの前で奪い合うように列をなし、まるで魔除けのように署名をしていったのだった。




◇◇◇




 今や世論は完全にグレイル家の娘に向いていた。そして、さらに予期せぬ援軍が海を越えてやってきた。

 

 ソルディタ共和国の小さな出版社から発行されたという()()は、瞬く間に増刷を重ね、そのあまりの売れ行きに目をつけたウォルター・ロビンソンによってアデルバイドにも輸入されることになった。

 本の内容は、架空の国の陰謀を描いた手に汗握るサスペンスだ。しかし、それは表向きで、本当は実在する国の告発ではないかと言われている。何せ、主人公が子爵という身分違いを乗り越え王太子と結ばれるのだ。そんな国はひとつしかない。


 そして、表向きは聖女と謳われる賢妃が、実は巨大な犯罪組織の一員という裏の顔を持っているのだと小説は示唆している。



 『真実の愛の真実』などというふざけた題名の本を手にした瞬間、ミレーヌはやられた、と思った。なぜならその著者名は―――


「……アダムス・ヒックス」

 苦々しい口調で呟けば、ケイトが首を傾げる。

「知っているの?」

「いいえ、まったく。でもイニシャルはA.H.ね。アンソニー・ハーディーみたいに」

「アンソニー・ハーディー?」

「彼女の別名義よ。……また懲りずに新しいものを用意したのね」

「だから、彼女って誰……!?」

 ミレーヌは、転んでもただでは起きない性根の曲がった赤毛を思い出してぶすっと膨れた。


「―――()()()()()()()()




◇◇◇




 セシリアは小さく舌打ちをした。

 こんな事態になるなんて、一体誰が想定できただろう。

 キンバリー・スミスの解放運動はもちろんだが、絶対に受け取るなと伝えた膨大な署名もいつの間にか王宮に運ばれている。処分しようにも貴族連中の名が連ねてあれば無碍にもできない。極めつけはあの赤毛だ。今や国中の疑惑の目がセシリアに向けられているではないか。


 ―――あんな平凡な小娘なんかのために。


 榛の髪に若草色の瞳。どこにでもいるようなパッとしない少女。なのに、気づけば誰もがコンスタンス・グレイルを助けようとしている。そのことがセシリアには理解できなかった。


 そしておそらく―――目の前の男も。

 

 クリシュナは、常に冷静な彼にしては珍しく苛立ちを隠せないでいるようだ。

「処刑は決行する。小娘の首が無様に転がるのを見れば、騒いでいる連中も少しは大人しくなるだろう。―――ああ、その前にオブライエン家の養女を始末しておかないとな」

 その言葉に、ぴくりとセシリアの眉が動いた。すぐに平静を装ったが、目敏いクリシュナが見逃すはずもない。

「どうした?」

「別に。遺体の処理が面倒だと思っただけ。理由を訊いても?」

 何でもないように告げれば、クリシュナは口角を持ち上げ低く嗤った。

「もちろん、生かしておく必要がないからだ。サルバドルなど放っておけばいい。最初から殺しておけばよかったんだ。アメリア・ホッブスを見逃してどうなった? いいかい、ただでさえアビゲイル・オブライエンとその犬がうろちょろとしつこいんだ。この暑いのに不愉快極まりない。だから―――ぼろぼろになった子どもの死骸を屋敷に贈りつけてやれば、さぞ胸がすくと思わないか?」

 それはただの私情だろう。セシリアはそう思ったものの、反論はせずに黙っていた。沈黙を同意と捉えたのか、クリシュナは先程よりかは幾分か落ち着いた口調で言葉を続けていく。

「まったく不愉快な状況だよ。いつの間にかくだらない噂まであるようだしね」

「噂?」

「知らないのかい? ―――コンスタンス・グレイルは死者の声を聞くことができ、十年前に処刑されたスカーレット・カスティエルの冤罪を晴らすために動いていると」

 その瞬間セシリアは息をとめ、それから掠れた声で呟いた。


「……死者の、声?」




◇◇◇





 拘置所の個室の扉を開けば小柄な少女がベッドの上で腹筋を鍛えているところだった。十も続かぬうちに力尽きてそのまま崩れ落ちていたが。


「……意外と元気そうね」

 呆れたように声を掛ければ、コンスタンス・グレイルは弾かれたように上体を起こした。

「セシリア王太子妃……!?」

 名を呼ばれ、セシリアは条件反射のように微笑んだ。

「ええ。ところであなた、死んだ人間と話せるんですって?」

 途端にコンスタンスの目がわかりやすく泳いでいく。

「それは……」

「嘘つき」

 強い口調で制すれば、少女はわずかに驚いたような表情を浮かべた。

「死んだ人間は喋らない。だから何も思わない。ただ灰になるだけ」

 

 そうに決まっている。


 だって己には―――そんな声など、一度も、聞こえたことがないのだから。


 ふいに冷たい嗤いが込み上げてきて口の端が吊り上がる。おそらく今自分はひどく歪んだ笑みを浮かべていることだろう。

 コンスタンス・グレイルはそんなセシリアをじっと見つめていた。それからややあって、「あなたは」という静かな声がぽつりと落ちる。


 向けられた若草色の瞳はひたすらにまっすぐだった。まるで芽吹いたばかりの草木のようだとセシリアは思った。


「―――あなたは、誰の声が聞きたかったんですか?」

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