第四話 セカンドノア Side:B 〜星界にて〜
1
僕達は三人揃って同じ大学に進学し、三ヶ月が過ぎた。
本当は月面の研究機関への参加を希望していたのだが、残念ながら不採用。これは仕方がない。いくら僕が望んでも『彼ら』が僕を選ばなかったのではどうしようもない。反面、スミカは安心したようだ。
自分の組織が管理・運営する日本のコロニーに実弟が残ると言う事は、身よりのない僕達、そしてスミカにとって最大の安心材料に違いない。
その間も戦争は続き、いくつもの閃光が数多の人の命を奪った。
それぞれの国の思惑がぶつかり合い、武力となって削り合う。そんなニュースしかテレビには映らない。
そんな中での進学だ。
僕達の将来というのは、まだまだ霧の中だ。
──この戦争はいつまで続くんだろう。
それを考えない日はない。
人間は日々成長する。僕達はもう大学生。そして次に待っているのは就職だ。
普通の会社に勤めるのか、戦争に荷担するのか。あるいは月面で『未来』の研究に勤しむか。月面研究所行きのチャンスはまだある。僕は諦めていない。
いずれにせよ、今の状況と無関係ではいられない。
──とは言え……。
今僕達は大学に向かうエレベータの中にいる。もちろん講義を受けるためだ。エレベータは、コロニーの居住区から伸び各ブロックに接続される通称『パイプ』の外側を通っている。これも日本のコロニー独特の構造だった。
「まさか三人揃って合格とはねー」
アカリが頭の後ろに手を組み、声を弾ませた。
「まぁいいじゃねーか。このご時世だし。大学で勉強出来るだけでもめっけもんだろーが」
タカシはが心にもない事を言った。
「勉強? あんたが?」
もちろんアカリはそれに突っ込む。タカシから『勉強』なんて言葉を聞くのは、高校受験の時以来だ。
「それなりに努力したんだよな」
僕は会話の流れに逆らわず、言葉を選んだつもりだった。
が。
「それなりってのは酷いじゃねーかよ。俺だってやるときゃやるんだぜ?」
タカシが徐々に増す重力を僕に押しつけた。つまり両手を僕の肩に乗せた。エレベータに備え付けてあるインフォメーションパネルには『只今の重力状況は0.5Gです』と表示されている。まだ体重は半分だ。
「分かってるって。分かったからその手どかしてくれよ」
「ふん、トップで合格しやがって。そのまま押し潰してやる」
いくら僕が体力がないとは言え、1G環境で二人分の体重くらいは支えられる。
だがその手は、肩から首にするっと移動した。
タカシが狙っていたのはスリーパーホールド。
──やばい、極められる!
さすがに首は耐G特性はない。
「ほらぁ、タカシもやめなさいよ。そろそろ1Gになるわよ?」
徐々に重みを増すタカシとその腕。
「ぐぇぇ。く、苦しい……」
冗談交じりに悲鳴を上げるが、タカシは手を緩めなかった。
替わりにこんな事を耳元で呟いた。
「お前がトップじゃなかったら……」
「え?」
タカシは極めかけていたスリーパーホールドを解いた。
「なんでもねぇよ」
タカシは腕組みして僕から視線を逸らし、窓を見た。
そして表情を変えた。
「な……!」
「どうし……」
僕がどうしたんだと口を開きかけた時、それは起きた。
閃光。
そして衝撃。
僕達が乗っていたエレベータが大きく揺さぶられた。
アカリが悲鳴を上げる。
照明が明滅し、エレベータが緊急停止した。
直後、照明がオレンジ色の非常灯に切り替わり、インフォメーションパネルに『主電源系統異常発生』と表示された。
「攻撃を受けたのか?」
僕は思わずタカシが覗いている窓に割り込んだ。
「分からん。だけど、監視網をすり抜けて攻撃が届くモンなのか?」
「それはあり得ない。あらゆる電磁波を無効化しない限りそんな事は……」
そこで僕ははっとした。
索敵圏外からの高出力レーザー。それならこの状況を作り出す事が可能だ。だが問題が多い。一つはエネルギー。鋼鉄製の分厚いブロックを貫く高出力なレーザーは、工業施設で用いるレーザーとは桁違いの電力を必要とする。戦艦クラスの艦艇でもなければ発射する事すら困難だろう。
いや。
──今はそれどころじゃない。
ふと見ると、アカリが不安げに肩を抱え震えていた。目に怯えの色が浮かんでいる。
僕はそんなアカリを見て冷静さを取り戻した。
──今優先すべきはここから移動する事だ。
その時初めて警報が鳴り響いた。
──運営局も見逃したか。
僕は携帯端末を鞄から取り出し、被害状況の情報にアクセスした。そして唖然とした。
「まずい。今の攻撃を受けたのは隣のブロックだ。ここも危ない!」
「今はどこにいても危ないだろうが。とにかく避難だ。脱出機構は動くか?」
僕達が乗っているエレベータは、コロニーは居住区から施設のブロックまでの移動だけではなく、有事の際は緊急時には脱出艇になる。そのため『パイプ』の外側を通っているのだ。
「ちょっと待ってくれ」
僕は手早くエレベータの操作パネルを操作。手順に従い端末に表示されたOKボタンを押す。
オールグリーン。気密もスラスタも問題なし。脱出機構に問題はない。
「大丈夫だ。すぐに脱出を……」
その時。
再び閃光が走り、床面からむわっとした熱を感じた。次いで先ほどとは比較にならない振動がエレベータを揺るがした。
タカシが叫ぶ。
「やべぇ! この『パイプ』が撃たれた!」
──な、まずい!
今この簡易脱出艇で『外』に出るのは危険だ。
状況を調べようにも、僕が持っている端末は既に圏外表示になっている。先ほどアクセスした情報にアクセス出来ない。インフラが破壊されたか、運営局が一時的に規制をかけているかのどちらかだ。
──待つか。出るか。
僕は迷った。
エレベータから切り離した脱出艇でコロニー本体に避難するか、『パイプ』側のシャッターを開けて内部に閉じこもるか。
もちろん僕の判断だけではなく、タカシやアカリの判断も尊重される。だが、アカリは恐慌状態だ。耳を押さえてしゃがみ込んでいる。冷静な判断は無理だ。
「タカシ!」
「ああ。どっちの方法も今は危険だ。だが待てねぇ。どうする、リュウ?」
──僕の判断か。
敵が今回使った武器は、監視網に引っかからない距離からの攻撃が可能で、コロニー外周部に浮遊させている『リフレクタ』をものともしない威力を持つ兵器だ。
考えたくはないが、新開発の超長距離からの大出力レーザーの可能性がある。直撃されたら脱出艇は瞬時に蒸発するだろう。
──くそっ。運営局に、せめてスミカに連絡がつけば!
敵勢力の規模によっては、次弾があるのかないのか判断出来る。
予想だが、この兵器の弱点はきっと連発出来ない。多くの技術的な問題点を解決しない限り、電力をバカ食いするからだ。
その時、やっとコロニー内の防災放送設備が息を吹き返した。
『警戒態勢維持。敵勢力判明。戦艦クラスの艦艇を一隻、最大望遠で確認。それ以外の敵勢力及び被害状況は不明』
その放送は全てのエレベータ、シェルター、居住区、各施設ブロックに伝達される。
──この声、スミカだな。
僕はその放送から得た情報で決断した。
──ありがとう、助かったよスミカ。
敵は高出力レーザーを連発出来ない。だが再充填すればまた撃ってくる。脱出するなら今しかない。
「タカシ、アカリを頼む!」
「おう!」
僕はエレベータの脱出機構を操作し『パイプ』から切り離した。
スラスタのチェックを姿勢制御。問題なし。
後は自動操縦だ。
──後は、次弾が来るまでの時間に間に合うかどうかだ。
「ね、ねぇリュウ? もう大丈夫だよね?」
タカシに肩を抱かれたアカリは、不安を隠さない。だが先ほどよりは落ち着いたようだ。
「ああ、もう大丈夫。後は居住区に戻ってシェルターに潜り込めば大丈夫」
僕はエレベータの窓から、コロニーが『アルマジロ』形態に移行しつつあるのを確認しながら、アカリに語りかけた。
「アカリは心配性だなぁ。こんな時のために色々訓練してたじゃないか。シェルターでおっさんに食ってかかったアカリはどこに行った?」
「……うっさい!」
──いつもアカリに戻ってきたかな?
僕は思わず笑みをこぼした。
ただ。
タカシの目は、僕に挑むような、そんな感情を宿していた。
2
「とりあえず何とかなったな」
脱出艇から居住区に乗り移り、シェルターに飛び込んで人心地ついた僕達は、三人揃って大きなため息をついた。それは命を失わずに済んだ安堵のため息だ。
「そうだね。『アルマジロ』への移行も完了したし、後は敵がどっか行ってくれればもう安全だ」
とは言え。
僕は有事の際の手順や設備の不備に不安を隠せない。
『アルマジロ』に移行する前の状態──『ハリネズミ』形態の時に今回のような攻撃に晒されると、居住区でも安全の保障はない。
日本のコロニー独特の問題だが、常時居住区の外郭を晒している他国のコロニーよりはましだろう。
──ましだって?
それは被害規模を数値で表現した場合の比較だ。
今回の攻撃で人命が失われた事には変わりない。
恐らく、僕達がいた『パイプ』の隣のブロックは、『パイプ』ごと宇宙空間に吹き飛ばされた。確かショッピングモールのブロックだったはずだ。被害規模は数千人に及ぶかも知れない。
僕は端末を操作し、被害状況にアクセス。
思った通り、行方不明者が数秒ごとに一〇〇人単位で増えていた。
──吹き飛ばされたと言っても、ブロックを直撃したわけじゃない。
僕は自分に言い聞かせた。
後は自衛隊の救出部隊の仕事だ。
何人の人が救出されるかは、運営局と自衛隊の連携にかかっている。
「なぁリュウ」
「ん?」
「買い物に行ってそれで死んじまったなんて、想像も出来ないよな」
「んん、ああ」
僕はタカシの真意を図りかねた。
「俺たちもそうだ。学校に行って、講義中に攻撃食らう可能性があるって事だろう?」
「そうだな。国際協定でガスとか核の使用は禁じられているけど、レーザー兵器は通常兵装だ。その技術向上には歯止めはかけられない」
宇宙空間において、レーザー兵器は最も有効な兵装だ。大気圏内のように減衰する事なく、文字通り光の速さで対象に届き、対象に穴を穿ち切断する。
「問題は何で日本が攻撃を受けたのかって事だろう?」
「そうだな。他国のコロニーはそんな兵器を使わなくても簡単に地盤ブロックに穴が開く。日本独特なんだよな『ハリネズミ』構造ってさ。『リフレクタ』もそうだし」
リフレクタとは、コロニーの周囲に散布されている光学兵器を反射する機器だ。個別に姿勢制御、軌道修正が可能で、日本独自技術の高純度な反射特性を持っている。このリフレクタを配備しているのは、日本と同盟国くらいだ。その他の国のコロニーは、高出力レーザーじゃなくても充分にダメージを与えられる。
「俺は今回の件、どっかの国の実験じゃないかと思ってる」
「実験?」
「ああ。レーザー兵器に対してある程度耐性のある日本のコロニーに攻撃し、直撃させた。これは他の国にとっても脅威だろう?」
僕は言い返せなかった。タカシの言う通りだからだ。
「運用に問題があるだろうが、これが量産されて技術が向上したら、コロニーなんて、どの国だって、どこにいたって危ないって事になる。違うか?」
「……ああ、そうだ」
「ちょっとタカシ! あんた何言い出すのよ」
アカリが僕とタカシの間に割って入った。
「確かに戦争の兵器はどんどん強力になっていくけど、その対抗手段も同時に進歩するでしょう? コロニーを壊滅させる兵器なんか持ったら、その国が周辺国から袋だたきにされる」
「アカリ……。俺は、今回の攻撃はこの戦争を終わらせる一つの手段だと思ってる」
そうか。タカシはそう考えたか。
「そ、それは危険な考え方だわ」
「いや。抑止力を持つ事は安全の担保だ。タカシの言う事もあながち間違ってはいないよ」
「リュウ、あんたまで……」
「でもね、アカリ。その『抑止力』を保有する事は物事の善し悪しで考えれば、決していい方向には進まない。かつて地球に人類がいた頃『核』でその状況を作り出したけど、お互い睨み合いする事しか出来なかった。外交カードとして使った国もあったけどね」
そう。
かつて人類は『抑止力』の在り方を間違えていた。
そして今回もまた過ちを犯そうとしている。
──止めなきゃとは思うけど。
僕達は一介の学生風情だ。国家単位での動きに逆らえようはずもない。
「僕達が出来る事なんて限られてる。出来る事と言えば、各国のお偉いさん方がバカな決定をしない事を祈るくらいだよ」
「いや、それは何もしないのと同じだ、リュウ」
「タカシ?」
タカシは僕を睨んでいる。あの時、エレベータ内で僕を見た、挑むような目つき。
──何を考えているんだ?
「……すまん、ちょっと言い過ぎた。そうだよな。これは危険な発想だ。アカリ、リュウ、悪かった」
タカシは前言を撤回した。
だが、その目に宿った感情はまだくすぶっているようだった。
3
「退学する? タカシが?」
僕は驚いた。
せっかく国立の大学に受かったのに、三ヶ月で退学なんてもったいない。
僕の部屋では、タカシがあぐらを組んだ姿勢のまま、宙に浮かんでいた。
アカリはいない。今頃『まじめに』講義を受けるため大学に行っているはずだ。
「色々考えたんだ。その前にお前に言っておきたい事がある」
タカシは0Gの部屋の中を漂いながら、僕を見据えた。
「アカリの事だ。お前アカリ、好きか?」
直球だった。
僕達三人は小中高と一緒だった。タカシが五分ほど前に退学宣言をするまで、ずっと一緒だと思っていた。
そして僕に最大の問題を投げかけた。アカリについて。
僕にアカリに対しての恋愛感情があるか。ないと言えば嘘になる。
僕は迷った。タカシを傷つけない答えが思いつかない。
「俺は大学を辞めて自衛隊に入る」
タカシは僕の答えを待たず、そう宣言した。それは死と隣り合わせの世界に身を投じる事だ。僕の両親と同じ道を辿る事だ。
「そ、お前それは!」
「分かってる。だがお前がいくら止めても無駄だ。俺は既に決めている」
「いやお前は分かっていない。宇宙での戦闘行為がどんな事なのか。僕の両親の事を知らないわけじゃないだろう?」
僕は言ってから、これは卑怯かなと思った。
「知ってるさ。遺体すら残らない。戦闘機乗りは敵弾に当たっちまえば瞬時に蒸発する。そんな事分かってるさ」
「それは知識だけだろう? 実際の恐怖をお前は知らない。遺される側の気持ちをお前は分かっていないんだ」
「だから先に聞いた。お前はアカリが好きか?」
「タカシ……、お前……」
僕はタカシの『決めた事』を理解した。
タカシはアカリが好きだ。
だが先の戦闘で、このコロニーに、いやこの宇宙に安全な場所などない事を身をもって知った。知識ではない体験として知った。
ではそんな状況下でアカリを守るにはどうするか。
この世界は狭い。その手段は限られている。
「お前、そのために入隊するのか?」
「そうだ」
タカシの目に迷いはない。
純粋な感情しか宿っていない。
「だからお前に頼みがある」
タカシは僕から目を逸らさず言葉を紡ぐ。これは誓約だ。あるいは人生を賭けた選択だ。
「アカリを守って欲しい。常に側にいて欲しい。将来アカリは、俺かお前か、あるいは他の誰かを選ぶかも知れない。でもそんな事はどうだっていいんだ」
僕はタカシの真摯な目に圧倒された。これは覚悟した目だ。人間の根底にある圧倒的な力だ。
「だから約束しろ。アカリを死なせないと。俺も約束する。アカリを、皆を守る。お前もだ、リュウ」
タカシは僕を抱き寄せた。
今まで一緒にいた親友が去って行く。いや、自分の盾と矛になる。僕はそれでいいのか? タカシがそう決めたのなら、僕はそれとは違う道を見いだす必要がある。
「分かった。その約束、命を賭けて守る。ただ条件がある」
「何だ、条件って?」
「僕は月に行く」
「!」
タカシは驚いた顔をした。
僕が月に行く話は、スミカ以外誰にもしていない。
大学受験の最中に、密かに研究機関にコンタクトを取っていた事を誰も知らない。
「五年だ」
「五年?」
「ああ。今から五年後、どちらが多くの人間を救うか、勝負しないか?」
僕は覚悟を決めた。目の前の親友のように、人生を賭して信条を貫く決意をした。
その中心にはあるのは、アカリの存在だ。
だから僕は『賭け』を申し出た。
五年後にどちらが多くの人間を救ったと言う実績を残すか。
タカシは自衛隊で直接、戦争と脅威から人間を守る。それは『現実』だ。
僕は月の研究機関で人間を脅威から守る研究をする。それは『未来』だ。
救う対象は違えど、人類の未来をがかかっている事に替わりはない。
「五年後。その時お互いがまだ生きていて、まぁ僕が生きていればアカリも生きているけど、その時の結果でアカリに申し出る。もちろんアカリの気持ちは尊重する。でも、今この時点ではまだ分からない。お互い分の悪い賭けになるけど、どうだ?」
タカシはしばし僕を睨み、そして相好を崩した。
「……分かったよ。その『賭け』乗った!」
「よーし!」
僕達はがっちりと握手した。
僕とタカシの『賭け』が成立した瞬間だった。
4
「アカリを『賭けた』勝負か。ちょっと不純な動機かも知れないけど」
僕はタカシが帰った後、独り言ちた。
「僕達はまだ若いし。これくらいの勢いがあった方がいいんだ。きっと」
僕の喫緊の問題はスミカの説得だった。
「姉さんに何て言おうかな」
月に行くには、その情熱を『彼ら』に示さなければならない。
そして大学を辞めなければならない。
そこに立ちはだかる問題は、心配性な姉、スミカの説得だった。
──一番の障壁はこれかな……。
と思っていたのだが。
意外な事に、スミカは簡単に折れた。
聞けば前々から覚悟はしていたと言う。
夕食を共にしながら、スミカはあっさりと僕の『月面』行きを認めた。
「リュウが月に行きたがっていたのは知ってたし。一度ダメになったくらいで諦める人間じゃないし。いずれ話が出るとは思ってたわ」
これで障壁を一個突破した。
だが実はもう一つ懸念がある。アカリの事だ。
「アカリちゃんは大学卒業後、運営局で面倒を見る。もちろん、アカリちゃんが希望すればだけどね。それならタカシ君との約束も守れるでしょ?」
参った。この姉は全てお見通しらしい。
でもそれなら、タカシの覚悟も知っているはずだ。
「タカシ君には私からも話をする。今自衛隊に入ったって何にもならない。一機戦闘機が増えたって戦況に何の影響もない。リュウが言った『賭け』なんか成立しない」
「いやでも」
「でももへったくれもないわ。そんな約束は無効。命を賭けた約束なんてのはそもそもナンセンス。タカシ君の事は、最悪、自衛隊経由で運営局勤務になるよう働きかけてみるわ。それでも大学の退学を考え直してもらうのが一番なんだけどね」
なんたる影響力。
運営局にて就職して二年と少々。スミカは既に運営局の重鎮に収まっているようだ。
「皆が丸く収まるように努力してんのよ? ちょっとくらい労をねぎらってくれても罰は当たらないと思うわ」
そんなスミカが『月に行く』と決めた僕に贈ってくれた資料があった。
曰く「手に入れるのに苦労したのよー?」だそうだ。
その資料は『地球帰還計画』と題された『紙』の資料だった。
「きっと戦争が始まる前に製本されたんだと思う。少なくとも二〇〇年以上前の資料ね。つまり誰もそれに書かれている内容なんて覚えていない。研究対象とするには興味深いでしょ?」
運営局は万能選手しかいないのか?
僕はスミカの能力云々以前に、日本のコロニー運営局の人材レベルの高さについて、認識を改めざるを得なかった。
5
『地球帰還計画』。
『紙』で製本されたそれは、表紙は色あせ、材質である紙は日焼けし、ボロボロになりつつあった。せめてもの救いはページ抜けがない事くらいだ。
この資料には様々な予測、予想、仮定が記載されていた。宇宙への避難が完了した後、早期に宇宙戦争が勃発する事、宇宙空間での資源確保の難しさ、生存環境の過酷さなど多岐に渡った。そのほとんどは、今まさに『現実』として起きている事象だった。
「人類はこれを無視したんだ」
地球への帰還。そもそもそれが原因で始まった戦争だが、今この世界は、地球に帰還する以前に、その主導権の奪い合いに目的がすり替わっている。
「本末転倒、か」
僕は、寝室で宙に漂いながら『地球帰還計画』を手繰った。
と──。
あるページで僕の手が止まった。
「……セカンドノア?」
そのページには、人類が宇宙に『避難』した際、来たるべき『帰還の日』に向けた実験施設を遺したと記載されていた。
それは直径一〇キロのドーム状の超大型浮体式構造物。
そこには生体実験用のサンプルが、『セカンドノア』という巨大なバイオスフィアに存在していると記されていた。その記載が正しければ今もまだ稼働中らしい。
「これは……」
僕は絶句した。
生体実験用のサンプル。つまり人間だ。それをクローン技術で産み出し、耐用年数が過ぎれば投棄され、新たなサンプルが産声を上げる。
──だからノアの箱舟の名を冠しているのか……なんて壮絶な世界だ。
あらゆる禁忌を犯したその設備は、将来人類が地球に帰還するまで、サンプルのデータ収集を延々と繰り返す。
僕はその世界に思いを馳せた。
──これなら、人類を今の泥沼から救えるかも知れない。
まだ蓋を開けていないパンドラの箱が、そこにあったのだ。
入っているのは、希望か絶望か。
僕は決めた。
月にこれを持ち込む。そして『地球帰還』の道筋をつける。
僕は窓から見える虚空を睨んだ。
その隅に映る青い星──地球。
僕が挑むのは、その星、母なる大地だ。
──見てろよ、タカシ。これが僕の戦いだ。
6
それから三ヶ月。
タカシは大学を辞め、自衛隊に入隊した。そしてスミカが手を回したおかげで、今はコロニー運営局に出向している。名目は運営局と自衛隊の緊密な連携のためとされている。
タカシは前線に出られない事を嘆いているが、僕やアカリ、そしてスミカはそれで良かったと思っている。誰だって人が死ぬのは見たくない。それが友人なら尚更だ。
そしてアカリは大学に通いつつ、運営局での勤務を希望していた。
あの日のエレベータでの一件、そして高校時代のクラスメイトの死がアカリの見識を変えていた。自分や、少なくとも知り合いを守るため、コロニーの最前線での行動を希望した。もう敵の攻撃に怯え守られるだけの少女ではない。一人の人間として皆の前に立つ。それがアカリの覚悟であり決意だ。
そしてそれは、僕に向けた言葉でもあった。
「スミカさんに出来るんなら私にだって出来る。リュウだってそう思うでしょ? もう守られる側にいるのは嫌。だからあなたは月に行く。そうでしょう?」
そう言われては納得するしかない。
そして僕は今、月面にいる。例の研究機関だ。
『地球帰還計画』の再検討と『セカンドノア』なるかつての人類が遺した設備の活用。
僕はこれらをテーマに論文としてまとめ、『彼ら』に送りつけた。
回答は『Yes』だった。
汚染された地球を回復させ、人類が居住可能な星にする。
──僕は『未来』を創るんだ。
人類が宇宙に逃れて四〇〇年。僕の代では無理かも知れない。
でも、その道は遺せる。
必ず人類を地球に還す。
そう信じて。