イバラ女王様の事件簿
玄関のドアを開けると、憎い女が倒れていた。
そいつはすでに死体という物体だったので少々笑えた。
目も口も大きく開き、舌がべろんと出ていた。
つんと匂うのは失禁したからだろう。
洋服は乱れ、ビニールのような茶色い髪の毛もぐしゃぐしゃ。
整形して大きくした瞳から涙が出ているが、何度も塗った真っ黒なアイラインが溶けて黒い涙を流している。
必死に玄関まで逃げてきて事切れた、と思われる。
首にはネクタイが巻き付いていたから、明らかに絞殺だ。
彼女はネクタイフェチで、何本もブランド物のいい柄のネクタイを持っていた。
そのネクタイで裸体を縛られるのが好きだった。
首を縛られるのが好きだったかどうかは知らないが、情交の果てという風情でもない。
彼女はやっかいな女だったから恨み辛みもたくさんかっていたように思う。
実際、あたしも容疑者に入る。殺してやりたいと真剣に思った事もある。
ほんの少しの理性とプライドがかろうじてあたしが殺人犯になることを止めたのだ。
どうせ警察がきたら言わなければならない。
この女は椿というペンネームでエロ小説を書いている、官能小説家だ。
売れているわけではないが、彼女は小説家という肩書きが気に入っていた。
売れるわけはない。デビュー作から盗作なのだから。
彼女はあたしの作品でデビューをはたし、ついでにあたしの夫まで盗んでいった。
憎んで憎んで、泣きながら考えた。
夫も作品もくれてやる。
だがこの女は続かないだろう。
この女は書けない。
この女と官能小説家の夫という地位に満足している男はいつか破滅する。
だが、あたしは書ける。次々と作品は書ける。
そしてあたしは離婚届けに印鑑をついてやった。
いつか二人を笑ってやる為に。
けれどこうして死体になった椿を見るはめになるとは思わなかった。
笑うどころかこっちに火の粉がふりかかってきそうだ。
死んでまでやっかいな女だ。
一瞬、このままにして帰ろうかとも思ったけれど、いずれ警察はあたしのところにもやってくるだろう。
こうなったら最後までつき合ってやるよ。
あたしは携帯電話で警察に連絡してから、椿と二人の時間を楽しんだ。
苦しかった?
醜い形相からして、椿は必死で逃れようとしたに違いない。
誰に殺されたんだろう?
初めてその疑問が頭に浮かんで考えた。容疑者はあたし、夫。他に誰かいたっけな。
椿の交友関係はあまり知らなかった。あたしから夫を盗んだ後も浮気はしていたに違いない。
彼女の携帯には椿自身もあだ名でしか知らない男でいっぱいだった。
街で声をかけられればついて行き、夜な夜なインターネットで優しい男を探す。
どいつもこいつも糞みたいな男ばっかりだ。椿は少しばかり見てくれがいい男にほいほいと股を開く女だった。
そこまで考えてからやめた。犯人探しまでしてやるこたぁない。
自業自得だよ。椿。
かわいそうな椿。
だけど自分はネクタイで縛られてる、と最後に彼女の脳裏によぎったのなら少しは救われるだろう。
「名前と年齢は?」
百八十センチはある身長。切れ長の瞳にすっとした鼻筋。
無表情がちょっと冷たそうな印象を与える。
めっちゃ好み、なのに、えっらそーな態度の警察官。
「本城美咲。二十八歳」
わざとふてぶてしく答えてみる。
警察にうらみもやましい事もないが、警察ってだけで偉そうな奴は許せない。
あたしは犯人じゃない。
見ず知らずの男に偉そうに言われる筋合いはない。
それに人に名前を聞くときは自分から名乗れ。
最初に駆けつけてきたおまわりさんに一通りの事は話した。
そしたら次に刑事を連れてきてまた同じ事をしゃべらされた。
その刑事がまたこの男を連れてきてまたあたしは最初から事情を話した。
椿の賃貸マンションには警察官が大勢やってきて、賑やかだった。
椿の夫であたしの元夫も仕事先から呼び戻されて、落ち着かない顔で立っていた。
元夫は椿の交友関係を聞かれて返答に窮していた。
浮気性の女房の相手まで把握出来るもんか、という顔で、終いにはふてくされていた。
ははは。その顔を見て、あたしはようやく元夫を許す事が出来た。
元夫が犯人でも違ってもあたしは全然構わないが、少しは懲りたろう。
人を踏みつけるような真似をすると、自分に返ってくると思い知れ!
元夫はあたしを見てからすり寄って来た。心細い時に仲間を見つけてほっとしている様子だった。
「お前が見つけたんだってな?」
「そうよ」
元夫はやっかいなという顔をした。
「あたしがみつけなくても、誰かが見つけて、どうせあたしもあんたも警察に呼び出されるのよ」
「困ったなぁ。明日から出張なんだ。よりによって…殺人事件だなんて。俺は関係ないんだけど」
あたしと結婚した頃は男前だった元夫は、ここ数年ですっかり中年になってしまっている。まだ三十になったばかりなのに、椿との生活ですっかり老けこんでいた。
それにもう少し思いやりのある男だと思っていたのに、椿の死を悼んでやるのも忘れているようだ。自分の身の振り方ばかり考えている。しょうもない男だ。
あたしはあっちこっちに指示を出している、イケメンの刑事に声をかけた。
「あのー。バイトの時間なんですけどぉ」
「バイト?」
刑事が振り返った。
「そう、バイト」
あたしは名刺を取り出した。
「ここ、バイト先。よかったら刑事さんも来てねぇ」
刑事はあたしの出した名刺をつまんで眺めた。
「…SMクラブ、ナイトビジョン…」
刑事はあたしと名刺を見比べて、
「SM嬢が仕事?」
と聞いた。
「違うわ。S嬢が仕事。あたし、女王様なの」
「…」
刑事の無表情が初めて少し崩れた。眉間にしわ。
「まあ、いいだろう。自宅とバイト先以外はしばらく遠出は控える事」
「はぁい」
とっておきの笑顔で答えたが刑事には通用しなかった。
頭の悪い尻軽のお姉ちゃんと思われたようだ。ま、いいか。
S嬢は体力勝負だ。
なにせMって奴は驚くほどにふてぶてしい体力を持っている。
いくら叩いてもののしってもやつらはへこたれないのだから。
豚のくせに、奴隷のくせに、要求だけは一人前で、もっともっとと欲しがるのだ。
あたしはデリケートな女王様だから無神経で愚鈍なMどもが本気で腹立たしい。
あたしはいつか奴隷どもを殺してしまうかもしれない、と思う。
その時にはせめて見目麗しい奴隷を選びたいものだ。
常連でいい客だがデブハゲチビで、あたしには関係ないけど婿養子で、家では肩身が狭い某会社社長よりも、ジャニーズ系の少年でも可愛がりたい。
そもそも美しい顔が苦悩するのがいいのであって、醜い顔は泣いても笑っても醜い。
脂ぎったおっさんの肌に鞭打つよりも、白くて若くて血管がすうっと透けて見えるような柔肌を蹂躙してやりたいもんだ。
いや、そうなる前に足を洗おうか。
這いつくばった醜い男をブーツの先で蹴り飛ばしながら、あたしはそんな事を考えていた。男の脂ぎった肌が赤く腫れる。
たるんたるんと揺れる腹の肉は吐き気がするほど疎ましい。
首輪に繋いだ鎖をぐいっと引っ張ると、男は哀れげな声とともに泡をふいた。
あたしを見上げる男の目が妙に潤んでいるだけでむかついた。
「お前、生意気ね」
奴隷の男は「お許し下さい、イバラ女王様」と喜々として叫んだ。
歓喜に震えるダミ声があたしの耳に侵入する。
視線も声も脂ぎった肢体も、あたしを憂鬱にさせる存在とどうして共存しなくてはいけないのだろう。
傷つけても、傷つけても、鞭をふるう度に痛いのはあたしの心。
鎖を思い切り引っ張ると、四つん這いの男がのけぞった。
喉の奥がぐえっとなったのは、男にも予想外の苦しみだったのだろう。
唾液が気管に入った様子で激しく咳き込み、涎と鼻汁を垂らして苦しそうにあえいだ。
その様子を見ていて、ふいに椿の事を思い出した。
事件からもう一週間もたつのに、何の進展もしていない。
椿殺しの犯人はまだ捕まっていないのだ。
あたしの奴隷が苦しそうに喉を鳴らしているのを見て、彼女もきっとこんな様子で苦しんだに違いないと思った。整形した顔をぐしゃぐしゃにして泣いたのだろう。
椿の首筋は細くて、きっと柔らかかったに違いない。
彼女のお気に入りのネクタイでその首を絞めたのは誰なんだろう。
あたしの豚男がぐえぐえっとあえぐ。最悪な事は豚男が発情している事だ。醜い豚男。
S部屋の中は蒸し暑くて、生臭かった。
あたしが厳しくしつけてあるので常連の奴隷達は体臭には気を使っている。
醜いのはしょうがない、けれど臭いのだけは我慢ならない。
いつもは強烈な香水の匂いなのに、今日はやたらと生臭いような気がした。
「お前、いいつけを守らなかったね。臭いよ。二度とあたしの前に顔をだすな」
そう言うと豚男は焦った様子で首をふった。
聞き取りにくい声で言い訳をして、あたしの気のせいだとぬかしやがった。
豚男を喜ばせるだけと分かっていながら、あたしは腕が上がらなくなるまで鞭をふるってやった。
豚男はうおう、うおうと言いながら身悶えた。
整形していたけど椿は綺麗だった。その綺麗な顔は見る影もなく醜い顔で死んでいた。
あたしならもっと綺麗に昇天させてあげられたのに。
他の奴に殺されたのが残念でならないよ、椿。
「イバラ女王様、お客さんよ」
控え室で休憩をしていたあたしに支配人のダミ声がかかった。
毛深い野太い不細工なおっさんのくせに、心はだれよりも可憐な支配人が無意味な長いまつげをぱちぱちとしながら控え室に入って来た。
「すっごい男前」
イケメン好きのホモのおっさんはやたらに興奮していた。
「え? 男前の客なんかついた事ないけど?」
「イバラちゃん、真性だもんね。あんま厳しすぎて、生半可な客は敬遠するよね」
ソフトS嬢の薔薇子が笑った。ゴスロリスタイルの薔薇子は鏡に向かって真っ黒なマスカラを塗りたくっていた。
真っ白な顔に真っ赤な口紅、やたらと黒く塗った目。
革のビスチェ、黒いレース。ふわりとカールした髪の毛。舌っ足らずな甘え声。
これで三十過ぎ。化け物め。
「大きなお世話よ」
「早く早く、ご指名なんだから」
支配人に急かされたせいで、レザーのビスチェのファスナーが肌に食い込んだ。
今日はついてないかもしれない。
男前にご指名される覚えもなし、支配人の目線の男前も眉唾ものだと思いながら、個室のドアを開けて中に入る。
その瞬間からあたしは女王様だ。そして客は豚、奴隷。
常連客以外は大抵がおろおろと突っ立っているだけなので、ぴしりと鞭でそこいらをたたいてやれば顔が変わる。
自ら望んでやって来たくせに怯えたような顔であたしを見る。
だが、今日の客は違った。違うも違う。客ではない。
「刑事さん」
テンションが下がるなあ。客は男前の刑事だった。
刑事は珍しそうに部屋の中を見渡していた。
S部屋といってもたいした設備があるわけではない。
壁を黒くして、一面だけ鏡張りなだけで、後はベッドとソファがあるだけである。あとはバスルーム。
もっとエキサイティングな設備をつけてくれたらいいのに。
「どうも」
と刑事が言った。
「早速来ていただいて嬉しいわぁ」
と言ってみた。Mの素質はありそうだから調教は楽しいかもしれない。見目も麗しい。
だが、違うだろう。あたしにペンペンされにやって来たのではなさそうだ。
あたしは立ったままタバコに火をつけた。
女王様は普通に座る事に向いてない。格好良く立つか、ふんぞり返って座る。
椅子に座っても偉そうに足を組まないと、膝上までのブーツが痛い。
刑事相手にふんぞり返るのも、とあたしは悪戦苦闘して、ベッドにちょこんと腰を下ろした。
「いや、庄司良子さんの交友関係をもう少し聞いておこうと思ってね」
と刑事は言った。
庄司良子は椿の本名だ。
しかしどうやら刑事はあたしを探りにきたんじゃないか、という気がした。
「さあ、あまり親しくないもので」
「そうかな?」
相変わらず刑事は無表情だった。
あの紺色のスーツを破いて、真っ白なワイシャツをずたずたに引き裂いてやったら、どんな顔するだろう、とあたしは思った。
「え?」
「君は随分と被害者を恨んでいたようだな」
「ええ、まあ、でも昔の事ですから」
「S嬢が本職かと思ったら、君も本職は作家らしいね。以前に盗作問題で被害者と揉めている。しかも被害者の夫は君の元夫。離婚の時もかなり揉めて、君は二人を恨んでいたそうじゃないか?」
あたしは肩をすくめてみせた。
「あたしを疑っているの? 冗談じゃないわ。確かに椿とは揉めたけど、昔の事よ。一冊出したっきり鳴かず飛ばずの椿と違ってあたしは順調だもの。今、椿を殺す理由はないわ」
「ご主人の事は?」
「刑事さん」
あたしはにっこりと笑った。
「あたしはこう見えても売れっ子女王様よ。あたしの崇拝者はいっぱいいるの。会社社長から青年実業家までね。甲斐性なしの浮気者の男をいつまでも恨みに思うはずないでしょう?」
あたしはあたしの奴隷達を思い浮かべた。
ハゲデブチビだろうが青年実業家だし、生理的に受けつけない男でもあたしのファンには違いない。
「確かに魅力的だがね」
刑事はあたしを頭の先から足先までじろじろと見た。
あたしは立ち上がり、
「見ただけじゃあたしの魅力は理解出来なくてよ。何事も体験してみなくちゃ」
と刑事に言った。
「なるほど、イバラ女王様の毒牙にかかったら抜け出せないと」
「あらぁ、身体に悪い物は大抵甘ぁいじゃない? 優しくしとくけど、どお?」
この時初めて刑事が笑顔を見せた。
以外にさわやかな笑顔だったのであたしはほんの少しどきまぎした。
「残念だが、勤務中なんでね」
「あら、残念」
あたしは再び腰を下ろした。
「他には?」
「被害者を恨んでいるような人物に心当たりは?」
「さあ、だんなも随分泣かされてたみたいだしね。仕事関係からも嫌われてたわね。っていうか、仕事なんかほとんどなかったんじゃない? あの子書けないもん」
「才能はなかった?」
「才能っていうか、やる気がなかったわ。あの子が夢見てたのは賞賛を受ける自分の姿だけよ。それに見合う努力もなくね。有名な作家になる、とか、セレブな生活をする、とか。そういうのばっかり言ってた。出会い系サイトとかにもはまってたから、やばい男に捕まったんじゃないの?」
「出会い系ね」
刑事はため息をついた。そんなものまで含めると容疑者はとてつもなく広がるだろう。
「でも、椿を殺したのはきっと椿の近くにいる男だと思うわ。軽いつき合いのセフレは犯人じゃない」
刑事はあたしを見て、首を傾げた。
「根拠は?」
「ネクタイがね」
「ネクタイ?」
「そう。椿はネクタイフェチだった。あの子にとってネクタイはアダルトグッズなの。セックスの時はネクタイで縛られるのが好きだったわ」
刑事はちょっとばかし赤面してから咳払いをした。
「椿を眠らせたあのネクタイは超お気に入りの奴で、ブランド品だったからとても高価なの。椿はあれをタンスの奥にしまい込んで、滅多に出さなかった。よっぽど気に入った相手にしか使わせなかったのよ」
「被害者は、その、君と同じような性癖で…?」
「そうね、椿はMだったわ」
椿とあたしは幼なじみという間柄だった。
小学校も中学校も高校も同じで、椿はいつもあたしの後ろからついて歩く子供だった。
椿のママがいつも遊んでくれてありがとう、とあたしにお菓子やジュースをくれるのでいつも椿と遊んでやっていた。
でもあたしは椿が嫌いだった。
彼女は子供の頃からいじめられるのが好きだったから。
わざとあたしを怒らせる事をしては意地悪をされたりするのが好きな子供だった。
学校のクラスメイトにも嫌われていた椿は何をされても言い返す事もしない、無口な大人しい子だった。
けれど、あたしは知っている。
椿はいつだってエクスタシーを感じていたのだ。
クラスに絶対いるいじめっ子の代表に、トイレに呼び出されて裸されてボコ殴りにされた時も、ホームルームで一人立たされて協調性がないとやり玉にあげられた時も、椿はみんなの視線を感じて、濡れていたのだ。
そういってあたしに告白した時の椿の顔が忘れられない。
あたしは全身に鳥肌が立ち、椿を突き飛ばした。
椿は嬉しそうにあたしにすり寄ってくる。
あたしは何度も何度も椿を撲った。蹴って、殴って、罵ってやったのだけれど、彼女にはそれは打ち震えるほどの甘美な時間だったのだ。
そして椿はあたしを独占したがり、あたしの他には誰もいらないかった。
あたしが小説家を夢見て上京すると追いかけてきた。
あたしの作品を盗んでみたり、夫を誘惑してあたしを怒らせる。
椿はそんな事ばかり熱心だった。
あたしはそんな女にうんざりだった。
だからわざとSMクラブでバイトを始めた。
椿だけはお断りで、他の奴隷どもを可愛がってやるのだ。
その様子をイバラ女王様のHPに逐一アップしてやれば、毎日のように掲示板が荒らされている。
椿じゃない誰かをモデルにして小説を書けば、ナイフで切り刻まれた本が郵送されてくる。
嫉妬で鬼女のようになっている椿を見るのは楽しかった。
あたしは確かにSだと思う。いじめられて喜び悶えるMが憎くてしかたがないSだ。
今度椿を相手にしてやる時には殺してしまうかもしれないと思うほどに。
あたしは椿が憎かった。彼女は醜くて、貪欲で、災いで、憎々しかった。
死んでしまえばいいのに、と思っていた。
あたしの目の前から消えて欲しかった。
「だから君が殺したのか?」
刑事の問いにあたしはつい笑ってしまった。
「あたしじゃないわ。残念ながら」
「そんなにお気に入りのネクタイを使う相手は君だったんじゃないか?」
「まあね、そりゃ、たまには相手にしてやった事もあるわ。椿は綺麗だったからね。死亡推定時刻はいつよ?」
「十二日の午後九時から十二時の間だね」
「あたしはアリバイがあるわ。お仕事中だったもの。店長に聞いてよ」
その事はすでに確認済なのだろう。刑事は軽くうなずいただけだった。
「他にお気に入りのネクタイを使う相手を知っている?」
あたしは立ち上がって、手に持っていた鞭の杖でぽんぽんと手の平をたたいた。
「ねえ、刑事さん。椿のだんなとあたし以外にも容疑者はいるんでしょ? それも有力な容疑者が」
「どういう意味かな? 君は何を知っているんだい?」
あたしはかわいそうな椿の仇をとってやらなければならなかった。
椿の事は大嫌いで、彼女に永久に消えて欲しかった。いつまでもずるずるとつきまとわれたらあたしが彼女を殺してしまっていたかもしれない。
彼女はかわいそうな子だから。
刑事はボールペンのオシリで自分のあごを掻くようなそぶりをした。
「椿は虐待されていた子よ。養父に・・・小さい頃から性的虐待を受けてた。血が繋がってないったって、仮にも父親を名乗る人間が、幼い女の子によ。しかも彼女のママはそれを知っていて一緒になって、彼女を弄んだ。だから椿は・・・自分の身を守る為に痛みを快感に変える術を子供の頃から知っていたんだわ。地獄よね」
刑事はなるほどとつぶやいた。
椿は運の悪い子だった。
違うお腹から生まれていれば、本当の父親が生きていれば、ママがもっとましな男と再婚していたら。
ほんの少しの事情で椿は普通の子供として生活できたはずだった。
椿のママは淫乱で、養父はロリコンのうえに人を傷つけるのが好きだった。
非力な子供は格好の餌食だった。
椿はそのことをたいした事じゃないもん、と言った。
「我慢していたら、気持ちよくなってくる。そしたらパパもママもいい子だねって言ってくれるの」
椿の我慢は快感に変わって、そして椿はそういう行為を自ら望むようになった。
小さな子供はどんどん大きくなって、自分で意見を言えるようになる。
いつまでも、醜悪で老人にさしかかった男と脂肪でぶよぶよに太った中年女の相手をする事もない。
あたしの上京にくっついてきて、椿は両親を捨てた。
椿に捨てられた養父は激怒した。
上京する前の晩、養父は荷物をまとめて家を出た椿を鉈を持って追いかけてきた。
殺すぞ、とかそういう言葉をたくさん吐いていたが、酒でやけた喉から出た言葉は不明瞭だったし、ふくらんだ風船がしぼんだ後みたいな肌はしわしわでみっともなかった。
それまではあたしも椿の養父が怖かったのだが、あの晩にすべてがまやかしだったと分かってしまった。大きな声も太い腕も。それらをなくした椿の養父はただの醜い老人だった。椿に捨てられるのを恐れて、心細がっているように見えた。
恨みめいた電話を時々かけてくるのよ、と言って椿が笑っていた事がある。
その笑顔は満足そうな顔だった。
「あたしは・・・椿が哀れでならなかった。親は選べない。親に逆らうには幼すぎた。でもちゃんと自分の足で立つ年頃にはもう遅かったのよ。縛られて、蹴り飛ばされて、叩かれたり、裸にされて酒瓶で殴られたり。時には養父の悪い仲間が寄ってたかって小学生の椿をおもちゃにしたわ。それを椿のママは横で見てた。そして椿はもうそれなしじゃいられなくなったの。相性の合うパートナーとでも出会えればよかったのよ。でも椿は男は嫌いだったし、彼女はあたしのパートナーになりたがった。あたしのだんなを盗んだのはあたしの気を引くためだけなの。でもね、でも。あたしは椿のパートナーにはなれない。あたしは椿が嫌いだったの。あたしは椿が気持ち悪かったの。あたしはMが嫌い。受けつけないの。おかしいでしょ? あたしは女王様なのに。あたしはパートナーなんていらないの。あたしにとって奴隷は憎んで殺してやるために存在するのよ。でも椿に同情してたのは本当。あの子が死んでくれて、あたしがこの手で殺したんじゃなくて、正直ほっとしてる」
刑事はあたしの告白を黙って聞いていたが、彼には理解出来ないだろう。
あたしがどんなに椿を憎んで哀れんでいたか。
椿はあたしを上手にSに仕立て上げた。
あたしは自分で知らない間に女王様になっていた。
椿をいじめるのがただ、楽しかった。ただの遊びだったのに。
いつの間にか、あたしは女王様だった。誰かをいじめ辱める事が上手になっていた。
椿をいじめるのが、彼女に好みの辱めをしてやるのが上手になっていた。
支配されていたのはあたし。あたしを自分の思うような女王様に創ったのは椿。
それに抵抗するように他のMどもを可愛がってやる。
どちらを向いてもあたしに似合う戦闘服は鞭とハイヒールしかなかったのだ。
刑事は「なるほど」と言って、暑そうに額を手の甲で拭った。
そしてスーツの上着をふわりと脱いだ。
かすかに匂った。
何だろう。さわやかな整髪料の匂い。
そして一つ思い出した事があった。
「犯人は椿の養父じゃない?」
とあたしは言った。
刑事はあたしがしゃべった長い話を書きとめていたが、手帳から顔をあげた。
「何か理由でも?」
「別に・・・ただ、加齢臭がしたから」
「はあ?」
「椿の部屋のドアを開けた瞬間、なんか臭かったから。忘れてたけど、あれ、加齢臭だと思う。あたし匂いには敏感なの。椿の浮気相手はいつも自分より若い男だったわ。あの娘の近くにいる年寄りは養父ぐらいだもの」
刑事はぽかんとしてあたしを見てから、敬礼をした。
急ぎ足で帰っていく刑事を見送ってからタバコに火をつけると、あたしは急激に疲れを感じた。
ああ、もう椿はいないんだ、あたしはもう女王様だって辞めていいんだ。
と思ったら、涙が出た。
大嫌いだったよ。椿。あんたが憎くて憎くて仕方がなかった。
あんたのおかげであたしの人生もめちゃくちゃだよ。
あんたと出会わなかったら、あたしは普通に恋をして普通に結婚して普通に人生を送るはずだった。
あんたが一抜けするなら、あたしももうやめていいよね。
でも、あたしはきっと今日も明日も奴隷どもを辱めて生きていくだろう。
そうしなくちゃならない。
憎くて憎くて、殺してしまいたい豚どもがあたしに殺して欲しくて今日も列をなしてやってくるのだから。
了