プロローグと彼女と私の攻防
15歳になったこの国の王侯貴族の子息女が通い、多くの国を担う逸材を輩出してきた全寮制の名門校。
中には優秀な能力を持ち、領主なりなんなりの推薦を受けた庶民も在籍するが、それはまれなことだった。
とはいえ、両の手で足りる年の間に一人二人は入学してくるので極めてとは言いがたい。
実際、この学園を卒業して王宮内でそれなりの地位を確立している庶民出の役人は一定数存在する。
しかしいくら優秀な能力を持っていたとしても、それが必ずしも賢いことにイコールするかというとどうもそうではないらしい。
ちょうど、彼女のように。
「殿下?いま、なんとおっしゃいましたの?わたくしお耳の具合がよろしくないようで……もう一度おっしゃってくださいませんか」
前へと進み出て凛と背筋を伸ばし、その人を見上げる。
口元を華奢な扇に隠し、眉だけは困ったように少しだけ下げて問い直す。
―――この方はいったい何をおっしゃっているのだろうか?
時は普段であれば一限目の授業が開始されてしばらく経ったであろう、まだ朝と呼べる頃。
場所は学園主催の学年末に行われる茶会およびダンスパーティについての説明のために、全校生徒から教師、校長まで集められた大講堂。
その舞台上。
担当教師からの説明の終わりを計ったかのようにこの国の王太子であるところのサイモン殿下は声を上げ、傍らにその腕にすがるように縮こまった少女を伴いながら壇上へと立った。
そして突如聴衆へと向けて宣言をされたのである。
自分には到底理解しがたい内容ではあったがゆえに問い直し、けれど寸分たがわず再度繰り返されたその宣言。
曰く、
「本日いまこの時をもって、私とヴェルニーナ・エイスワーズとの婚約を破棄することを宣言する!」
わんと講堂内に声が響き、一瞬ののちに静寂が広がる。
それからさわさわと小さなさざめきが静けさを追いかけていく。
「で、殿下!何をおっしゃ「黙れ。発言を許した覚えはないぞ」しかし……!」
茫然から立ち直った教師が真意を問おうと口を出しかけるものの横柄な物言いに遮られ、募ろうとした言葉は鋭いひと睨みに封じられてしまった。
おかしな話だ。ここは建前とはいえ王侯貴族、果ては庶民までもが学びの前では平等であると謳っている学園のはずなのに。
「殿下」
「……なんだ、ニーナ。撤回の願いなら聞かないぞ」
「それよりも理由を伺いたいのですが。なんの説明もなくいきなり婚約の破棄だなんて、いくらなんでも酷いのでありませんか」
「酷い?お前がそれを言うのか白々しい。第一このままこの場で、かまわないのか?今後嫁のもらい手がなくなって困るのはお前だぞ」
「あら、なんのことをおっしゃっているのかはわかりかねますが、それこそ殿下がそれをおっしゃいますの?皆様お揃いの中で婚約の破棄を宣言なさっておいて、わたくしの嫁ぎ先のご心配をしてくださっていらしたと?」
冗談でしょう、とは胸中にとどめる。
だいたいこの場ではっきりさせておかなければ、弁明の機会などわざわざ与えられることはないのだ。
『婚約破棄をされた。しかも公にしがたい理由があるらしい』
こんないかにも私の方に非がありますと言わんばかりの態度でこられては、どう考えてもあらぬ誤解を受ける。
誤解どころかそんな事実はないのだからこんな仕打ちはあんまりではなかろうか。
しかし下手な噂こそ回りが早い上に撤回しがたく、そうなれば実際今後の進退に関わってくる。
ましてや家に迷惑までかかった日には目も当てられない。
いまここにいて小声でざわめいて事態を見守っているのは、例外を除いて多くの名門家に血を連ねる子息女ばかりだ。
いずれ婚約破棄の話が回るにしても、事の顛末を最初から最後まできちんと見聞して帰っていただきたい。
こちらばかりが負債を被るなどとんでもない。
つまるところ、私はこの戦い(と、あえて表現する)において負ける気はないのである。
さて、
「さ、サイモン様はお優しい方なのです!」
ハラハラと周囲が見守る中この場に似つかわしくない鼻にかかった甘い声が、脈絡があるのかないのかわからないことを言いだした。
殿下の腕にすがり身体は半分隠れた状態から、(見る人が見ればまるで小動物が精いっぱい威嚇しているかのようにも見える体で)一所懸命なにやら主張する彼女こそが現在において校内唯一の庶民出の生徒なのである。
『リスのように小さく愛らしく明るく朗らかで天真爛漫』
と一つ下の学年である彼女とどこで出会ったものか、いつだったかクラスメイトがそう評するのを聞いたことがある。
同時に、
『物怖じもせず誰にでもわけ隔てなく接する性格である』
とも。
それは美徳だと思う。同じ庶民の中でのことならば。
あるいは、この学園内に限ったことであるならば。
「お優しい方だから婚約を破棄されたニーナさんがこれから困らないようにって、ちゃんとお嫁に行けるようにって考えてくださってるのに!どうしてそれがわからないんですか!」
残念ながら彼女のそれは美徳ではなく、ただの不遜であるようだ。
私は今まで何度目かわからない溜息を扇に隠して視線をそちらへと向ける。
彼はまだ、沈黙を保っている。
「ねぇあなた」
「な、なんですか!」
「あなたはいったいどこの誰でいらっしゃいますの?」
「え!?」
本当に知らないわけではない。
この学園内において唯一の庶民である彼女は、近頃の様子も相まって良くも悪くも有名だ。
けれどもこれまで私は彼女から一度としてまともな自己紹介を受けたことがなかった。
こちらからも名乗った覚えはない。
礼儀上、知らない者同士のはずなのである。
という私の考えは、残念ながら通じなかったようだ。
「わたっ私はアンリエッタです!アンって呼んで……っなんで睨むんですか!?なんで!?いつもいつもいつもそんな風に私を睨むのはなんでなんですか!?やっぱり……やっぱり私が貴族じゃないから差別するの!?」
貴族が最も重要視する部分が彼女の自己紹介からは抜けていた。
それにしても涙を目に浮かべながらも私が殿下を、婚約者の座を奪ったから?と言わない辺りしたたかなものだと思う。
前提として問題はいくらでもあるがまず婚約者の座に重きを置いたならば、私はただの”恋人を奪われ嫉妬に狂い恋敵をそれゆえに虐める嫌な女”で終わる。
大なり小なり、それこそ貴族に関わらず庶民の間にだってままある話なのだから。
けれど、これが”貴族が庶民”を差別しているとなると、途端に話の規模が変わる。
庶民を差別する貴族は実際そこらにいくらでもい(ちゃいけないとは思うのだが、決していないとは言えない我が国の現状である)るわけだが。
暫定として私はいま将来王となる王太子殿下の婚約者で、つまるところ将来王妃となる可能性がある、という立場にいる。
未来の王妃が庶民を差別しているとあっては大問題なのだ。
それがただの建前だったとしても。
そうでなければ王も貴族も立場を失くして国が立ち行かなくなる。
国を運営しているのが王侯貴族であるなら、経済を回し田畑を耕し土台を支えているのはまぎれもない一般の国民たちなのだ。
ゆえに私を庇おうなどという人間はそうそういなくなる。
私の今後の心配を匂わすのだから、狙いはこの辺りなのだろうか。
などと一瞬思案していると、
「やはりそうなのだな……」
「やはり、なんでしょうか殿下」
「やはりお前がアンを差別し、嫌がらせをしていたというのは本当なのだな」
冷めた声がまたわけのわからないことを言う。
「いいえ、殿下。わたくしは彼女を差別してなどおりませんし、ましてや嫌がらせなどした覚えはございませんわ」
「とぼけるな。いま確かにお前はアンを睨んでいたではないか!それにアンを知らないわけもない。俺はお前に何度も彼女の話をしたはずだからな!」
瞬間大きくなるざわめき。
ちらほらと聞こえるささやき声から察するに、いまの発言によって多少こちらへ同情票が入ったようである。
主に女性の皆様方から、
『婚約者に別の気になっている女の話をするなんてどういうこと!?』
と。
それはさておき。
「だって眩しいのですもの」
「は?」
「壇上の明かりがちょうどアンリエッタ様の後ろから射してらっしゃいますの」
「つまり、睨んだわけではないと言い張るのだな?」
「でも!いつもは「えぇ。それから、確かに殿下からアン様のお話は伺っておりましたけれど、わたくしアン様と顔を合わせるのはこれが初めてなのですが?」嘘よ!初めてじゃないわ!」
「どういうことだ」
殿下の視線が下に横にと忙しなく行き来する。
あぁなんて情けない。
「だっていつも私に意地悪してたじゃない!初めて会っただなんて嘘よ!」
「まさかアンリエッタ様と殿下がおっしゃっていらした素敵なアン様が同一人物でしたなんて思いもしませんでしたわ」
「なっで、でも同一人物かは別として、私に!意地悪したことは認めるのよね!?」
「いいえ」
光に目を細めながら、きっぱりと否定を返す。
眩しいと言っているにもかかわらず動く気のない彼女は、本当にいい根性をしている。
まったくどちらが意地悪なのだか。
と、どこからか溜息が一つ。
そんなものは私が吐きたい。
「いい加減往生際が悪いんじゃないか」
「そうよ!素直に認めて謝ってくれれば私だっていつまでも怒ったりしないわ!」
「そうだぞニーナ。アンはとても優しい娘なのだ。ちゃんと頭を下げれば許してくれる」
慈悲深い笑みを貼りつけながら本気なのだろうか、この人たちは。
こんな人、だっただろうか。
私が知る殿下は……考えるだけ無駄なのだ。おそらくは。
「身に覚えのないことを謝罪せよとおっしゃられましても……」
「サイモン様に近づくなって何度も嫌味を言われたし、お茶会で転ばされた上にお茶をかけられたこともあった。これは見てた人だっていたはずだわ。それにこれ以上続くと大変なことになるって脅されたりしたもの!全部覚えてないって言うの!?」
慈悲の仮面はあっさり剥がれたらしい。
言葉遣いも最初の猫はどこへやらだ。
彼女の様子にかそれとも多少具体的になった内容にか、観衆がまたひとしきりざわめき立つ。
もうそろそろいいだろうか。
「言葉を変に省略なさらないでくださいますか。私があなたに申し上げたのは、『殿下にそのように走って近づくのはおやめなさい、はしたない。殿下の品位まで問われます』です」
「だから!サイモン様に近づくなってことでしょう!」
「違います。それからお茶の件ですが、あの時見ていらした方々はご存知でしょう?確かに彼女はわたくしの席のそばで躓いてしまわれました。その時にとっさにテーブルクロスを掴まれて、乗っていたカップが落ちそうになったのでわたくしは確かに受け止めました。彼女にかかったお茶は他にクロスに乗っていたものを被ったのではありませんか」
「でも足を引っ掛けられて…」
「わたくし大股を開くなんてそんなはしたない真似はいたしません」
「は?」
「あの時わたくしはお隣の方とお話をしておりましたの。相手の方も覚えておりますわ。それでわたくし身体ごとその方へ向いていたのです。あなたがいたらしい方とは逆の方向です。あなたに足を引っ掛けるとするならば大きく足を開いたとしても届くのかどうか。そもそもあなたがあの時そばにいたことも騒ぎが起きるまで知りもしなかったのですけれど」
「う、嘘、だって確かに誰かに足をかけられたわ!ニーナさんの他にはそれが出来る人なんていなかったもの!」
「そうでしょうね。相手の方と少し込み入ったお話をするために会場の中でも人の少ない方におりましたから。でも犯人はわたくしではありません。断言はできますが、やってもいないことの証明など疑われる側がするものではありませんわ。証拠はやられたと主張する方が差し出すものです」
「そんなのずるい!」
「そう思うのなら証拠をお見せくださいまし。ところであなた、あの時なぜお友達もいらっしゃらないような所までいらしたの?なみなみお茶の入ったカップを持って」
足をかけた証拠はあるはずもないけれど、彼女の不審な行動の証言なら実はいくらでもある。
「え、あ、なんで」
「あなたがあまりに不審な行動をなさっていたので、あとでわざわざ教えてくださった方がいましたの。わたくしこれまでも散々申し上げてきたはずですわね?お茶はカップいっぱいになるまで注いではいけません。そもそも給仕がいるのですから、ご自分で注ぐ必要はないのです。彼らの仕事を奪ってどうしようというのですか。席を立つにしてもカップを持ったまま移動するとは何事です?きちんと就いた先の席で新しいカップに新しいお茶を淹れてもらえばいいのです。それから、」
「やめてよ!顔を見ればアレをやめろ、コレはこうだ、はしたないもっと淑女らしくって、もうたくさん!なんでそんな意地悪を言うのよ!私は私のままで何が悪いの!?サイモン様だってそのままの私が好きだって言ってくれたもん!」
「あ、あぁそうだ。俺はアンがアンらしくいてくれればそれで……」
どこのメロドラマだろうか。
あの人の口からそんな言葉が出てくるとは、とか。
15歳にしてはすこし言動が幼すぎやしないか、とか。
少々逃避をしてしまいそうな頭に鞭を打つ。
周りもだいぶ事情を理解しつつあるように思われるのが救いだ。
彼女の言う”意地悪”についてだとか。
「よろしくないから言っているのです。お茶会の作法なんて五つの子供でも知っていますよ」
「それは幼い頃からそう教育されてきたからだろう」
「そうですわ。わたくしたちはそのように教育されてきました。貴族らしく、淑女らしく。そしてわたくしは殿下の婚約者に選ばれた時から、いずれ正妃らしくなるように」
「それも無駄になったな?」
無駄なものは何一つなかったと私は今でも思っているけれど、そんなことを言ったところで鼻で笑うのだろう今のこの人は。
「わたくしの彼女への嫌疑はあらかた晴れたように思われますが?」
「まだこれ以上続くと大変なことになると脅された件については聞いていない」
「それについては殿下にも同じように申し上げたはずです」
「何?」
「……近頃は個人的にお会いになってもいただけませんでしたので書状をお送りいたしましたが、その様子ですと目を通してはくださらなかったようですね」
もはや残念に思う気持ちすら私の中には残っていないらしい。
あぁ駄目だこの人と口の中で呟いた。