第8話 執務官と夜の街
――夜の街は、思ったより静かだった。
青白い月が、誰も居ない道を照らしている。
黒猫が一匹、にゃおうと鳴いて、路地の薄暗い方へと駆けて行った。それを追いかけようとしたリンドウはカクタスに呼び止められて、くるり、と振り返る。
「結構、明るいんですね……」
そう言いながら、彼――ジェードはキョロキョロと辺りを見回した。
昼間ちらりとだけ見た街並みとはまた違った雰囲気に、彼の心はまた落ち着きを無くしているのだろう。
彼は首元に下げられた、あのペンダントの翡翠をぎゅ、と握る。
先ほど紐を直して、かけ直してもらったそのペンダントは、彼の胸元にしっくりとおさまっていた。
かけた直後の違和感はとうに消え、残るのは幽かな安心感。
――翡翠の石が、月光を受けて淡い光を帯びる。
「街灯があるから、多分あそこが大通りで……えっと、先に警備隊の方の本部に行くんでしたっけ?」
「あぁ。依頼承諾書の提出後、本人かどうかの確認、説明を受けてから実際に依頼開始――と書いてあるな」
手元の用紙を見ながら、アゼリアは彼にそう伝えた。
それは数日前、カクタスがアゼリアに見せた物とは違った物だった。前よりも細々とした字で集合場所や時間、誰の担当なのかが詳しく書いてある。
一応簡易的な地図も書いてあるのだが……そもそも、この街のギルドで働いているアゼリア達からしたら、無用の代物なのだろう。あまり見る事はない。
彼は、その紙をひょこと覗き込んだ。
そのまま、きょろきょろと辺りを見回して――若干迷いつつ、その足を踏み出す。
「えっと……確かこっちの道……でしたよね!」
「おいっ、逆だ逆!」
地図を見たにも関わらず、明らかに普通のルートとは別の裏路地へと進もうとしたジェードの首根っこを、カクタスは慌てて引っ張った。
……確かに、ジェードの判断もある意味間違ってはいない。
そちらの道からも行けるし、そちらからの方が早く着く事もある。
だが……正直言って、今は危険だった。
先ほど、ジェードが進もうとした裏路地。
そこは光も届かない場所で、夜になると、まるで黒インクをぶちまけたかのように暗くなってしまう。
当然、その道の先なんて見えないから……今踏み込んだらすぐに足元すら見えなくなってしまうだろう。
それほどの暗さだから、何が潜んでいるかもわからない。
そんな危険な所に、まだ街に出たばかりのジェードを放してはいけない。
迷子になるだけだ。
そう考えて、カクタスは彼を止めたのだが……その判断は、また別の意味で間違っていなかった。
「んなとこ通ろうとすんなよ。暗ぇし、危ねぇだろ?」
「え……そんな、暗いですか?」
「はぁ? お前ちゃんと見て――あぁ、そうか。お前……」
「??」
カクタスは、途中で何かに気付いたように言葉を止めた。
意味深に呟くカクタスを見て、ジェードは訳も分からず首を傾げる。
そんな、暗いかな……?
確かに足元は暗いけれど、突き当りのお店だってちゃんと見えるから、大丈夫だとは思うのに……。
そう思いながら、彼はもう一度路地を見た。
月が雲に隠れて、辺りは一気に暗くなる。街灯の光が穏やかに照らしているが、先ほどよりは薄暗い。
彼は、裏路地にある『何か』をじっと見ていた。
――――彼の翡翠色の目が、淡い光を帯びる。
「何、見てんだよ」
ぼーっとしている彼を見て、怪訝そうにカクタスは言う。
そのままカクタスは裏路地を覗き込むが、カクタスには暗すぎて何も見えない。
ジェードが何かを言おうとした瞬間、ふしゃー! と猫の威嚇が闇の中から聞こえた。
ジェードは、その声にびくぅと体を震わせる。
闇の中には、先ほどは見えなかった猫の二つの目が爛々と光っていた。先ほど、リンドウが追おうとした黒猫の物だ。
……きっとどこかへと行ってしまったのだろう。その黒猫の目は、すぐに闇に消えてしまう。
「猫、怒っちゃいましたね……」
「……あぁ。そうらしいな」
「僕達が見てたから、驚いたんでしょうか……。
気持ちよさそうに寝てたのに、悪い事しちゃったかな……」
カクタスへの言葉半分、独り言半分といった感じで彼は呟く。
しゅん、と若干寂しそうにするジェードを見て、一方のカクタスはどう伝えるべきかと頭を掻いた。
どうやら、ジェードには闇の中に居るあの真っ黒な猫が見えていたらしい。
しかも、猫の目が光ってでもいたならともかく……眠っていたというのなら、目も閉じていたのだろう。
正直言って、普通だったら信じる事はできない。
…………彼が、人間ならば。
「レブナントって、暗視能力もあったっけか……」
「へ? カクタスさん今何か……」
「何でもねぇよ」
つーか、もう行くぞ。遅刻する。
ジェードに聞こえなかったのを良い事に、それだけ言ってカクタスはずかずかと先に行ってしまう。
首を傾げているジェードを見ていたアゼリアは、にごしたな、と思いつつ小さく息を吐いた。
リンドウは状況を分かっているのか分かっていないのか。何も言わずに、たったとカクタスの後ろを付いて行く。
「あ、行きましょうか! アゼリアさん」
「……そうだな」
先に行ってしまったカクタスの方を見て、結構距離が出来てしまったのに気付いたのだろう。
彼は、少し慌てたように二人の元へ向かう。
アゼリアも、そんな彼に歩調を合わせるように歩き出した。
――雲が流れ、また月が顔を出す。
月光に照らされて、彼らの影が道に伸びた。
「……それで、理解したか?」
そう言って、目の前の男性が書類から顔を上げた。
背後の窓には、爛々と輝く月が浮かんでいる。
――警備隊の本部の執務室にて、男性とジェード達は対峙していた。
かちんかちんに固まっているジェードに、男性はちらりと目をやって、手元の資料を揃える。
その男性――警備隊執務官であるスターチスは、かっちりとした服を身に着けて、まるで試すかのように彼らを見据えていた。
流石警備隊と言ったところなのだろう。
隙の無いその話し方に、スターチス自身の鋭いグレーの目も相まって……一般の人なら、多少なりとも怖じ気づいてしまうであろう雰囲気だ。
――そんな中で、ジェードは固まりながらも、こっそり、ぱちぱちと瞬きをしていた。
勿論、眠い訳ではない。緊張も……しているが、それが理由という訳でもない。
簡単に言ってしまうと……室内を照らしている光石、それが闇に目が慣れてしまった彼にとって、かなり眩しかったのだ。
最初のうちだけならともかく、スターチスの説明が終わりかけている今になっても、眩しさはむしろ増すばかりだ。
――どうしよう。
光石の光を少し落として下さい、なんて…………言えないよなぁ。
でも、治る気配もないし、むしろ悪化してきてるし……というか光石って光落とせたっけ……?
そう考えが脱線しかけている間にも、事態が改善する様子はない。
焦って必死に瞬きをする彼の横で、カクタスはスターチスに怖じ気づく事もなく、いつもの口調で答えていた。
「よーするに、このルートの通りパトロールしてこいって事だろ?」
「まぁ、そう言い換える事も可能だが……相変わらずだな、お前は」
「……それ、どういう意味だよ?」
「いや、気にするな。
……それにしても、今回はジニアはいないのか? 珍しい」
「あぁ、他のギルドに出張中で」
「おい話逸らすなよ!? アゼリアもそのまんまスルーすんなよ!!」
カクタスが声を荒げるが、スターチスは書類にサインをしているだけで、全く反応しない。
さらさらと、羽ペンが紙の上を滑る。
ジニア? と首を傾げた彼にも気付かず、カクタスは何かを言いたげにしていたが……その内、諦めたようにがしがしと頭を掻いた。
カクタスの視線が、後ろに居たジェードとリンドウに向かう。
「ったく……ジェードは今の話分かってるよな? 後リンドウも」
「あ……はい! パトロール……ですよね? で、四つある警備隊の屯所に行ってスタンプを押してもらって、パトロールルート通りに帰ってくる、っていう……」
「……今回の新人は有望だな。心配は杞憂だったか、どこかの誰かさんと違って」
「おいその言い方なんだよ……って、これみよがしにこっち見んな!!」
沸点が急激に下がりつつあるカクタスを横目に、スターチスは左手でデスクの引き出しの中を探る。
カクタスが文句を言おうと口を開いた瞬間、丁度スターチスの手が何かを取り出した。
カクタスに何も言わせずに、スターチスはそれ――紅い鉱石が付いている腕輪をデスクに置く。
腕輪が、鈍く銀色に光った。
「これを見せてくれれば、他の警備員にも話が通じるはずだ。連絡装置でもあるから、あまり乱雑には扱うなよ。
そうだな。…………そこの新人、付けておけ」
「はっ、はいっ!」
「あ、おいちょっと待――」
「ジェード、それは――」
いきなり話をふられて、彼は慌てたのだろう。カクタスとアゼリアの制止を聞かずに、彼は腕輪を右手首に付けてしまった。
その瞬間、腕輪に付いている紅い鉱石が、くるり、と鈍く光る。
「あー……ったく。何でお前はそう自分から危険に突っ込んでくんだよ……」
「え、え……?」
カクタスの呆れたような言葉に、彼は混乱した。
何かまずかっただろうか、と視線を彷徨わせた彼に、アゼリアはどう説明すべきかと頭に手を当てる。
え、えっと……危険?
この腕輪の一体何が危険なんだろう……。
連絡装置とは言っていたけれど……もしかして、連絡する時に魔力が必要……とか!?
もしそうだったら、どうしよう……!
マイナスな方を想像したジェードの顔から、結論も出ていないのに段々と血の気が引いてくる。
その横に居るリンドウは、不思議そうにジェードの腕輪を見ていた。
……どうやら、カクタスの台詞に付いていけないのはリンドウも同じようだ。
「…………カクタス」
「俺に言うなよ、アゼリア。
何か言うんならこいつに言え」
そう言いながら、カクタスがちらりとスターチスに視線をやる。
その視線に気づいたスターチスは手元の書類を探しながら、さもなんでもない事のように告げた。
「……あぁ、念の為言っておくが、その腕輪は観測兼連絡装置でもある。怠業等の不審な行動をとると爆発するから、せいぜい注意しておけ」
一瞬、不自然な程の静寂が部屋に広がった。
「え、え……ええっ!?」
「…………!?」
彼がそう叫んでしまったのも、無理はないだろう。
まさか、自分が付けた腕輪が爆発するなんて……普通なら思わないはずだ。
リンドウは彼の叫び声と腕輪、どちらに驚いたのだろうか、らしくもなく目を丸くする。
アゼリアは、小さくため息を吐いた。
「……本来は、不審者を捕縛する為の腕輪なんだが……。マスター曰く、どうやら、この前こういった依頼を上手く……えっと、なんだ……逃げようとする奴が居たらしい。」
「そのマスターが居るってのに、俺らがサボれると思うのかって話だけどな。つか、何でマスター重要な事ばっか伝え忘れてんだよ……」
どう言えばいいか、言葉を選びながら説明するアゼリアに、カクタスが乱雑にそう言ってスターチスの方を見る。
スターチスの方はどうやら書類が中々見つからないらしい。
カクタスの不満そうな視線に気づいているのだろうか、スターチスは机の上に重ねてある書類を片っ端から捲りながら、ぽつり、と呟いた。
「……正直、俺もそうは思ってはいないのだがな。上からの指示だ。我慢してくれ」
「その割には完全初心者のジェードに渡してたよなお前」
「ギルドの隊員試験なんだろう。こういう状況にも慣れておけばいい」
「……お前の事、昔から本当に分からねぇ」
「…………それは、俺も同じだ」
諦めたように、カクタスは重いため息を吐く。
スターチスはそれを気にする事なく、目的の物らしい書類を確認した。
「『カクタス・クォーツ』、『アゼリア・シルヴェスター』、『ジェード』『リンドウ・ハロルド』……間違いはないな」
「あぁ、間違いねぇよ」
「『スターチス・ボールドウィン。これにて、上記四名の依頼受諾を許可する』
……夜は視界も狭くなる。気を付けろ」
「はいはい、分かってるっつの……」
沸点は元に戻ったのだろうか。スターチスの型式ばった許可に、脱力したような声でカクタスは答える。
一方のジェードはスターチスの言った名前の一つに首を傾げたが、聞こうとしたその名の主は、どうやら聞けるような状態じゃないようだ。
……隣の小さい少年から、無言かつ微かな圧力(彼に向けての物じゃない)を感じて、彼は若干身震いをする。
よく見れば、少年の表情も若干不機嫌そうに……見えるような、気も……する。
「つーか、俺らに至っては確認する必要もねぇだろ」
「一応、規定だからな。
では、これで依頼の説明は終了だ。
これがスタンプシートだが、くれぐれも無くさないように」
「誰が無くすか」
来たときよりも明らかに不機嫌になって、カクタスはその紙を奪い取る。
どうしていいか分からず混乱しているジェードを見て、もう退室してもいいぞ、とスターチスは言った。
そろそろ任務開始時間だ、と。
「ちゃちゃっと行ってくる」
「し、失礼しました……!」
それぞれが思うなりの挨拶をして、執務室を出ようとする。
先陣を切ったカクタスがドアノブに手を掛けた所で――ふいに、スターチスが何かに気付いたようにカクタスを呼び止めた。
「カクタス」
「今度は何だよ?」
「…………昨今、この街で不審な人物の情報が入っている。
例の盗賊の可能性もあるから、充分に気を付けるように。
……相手は容赦してこないぞ」
「…………ったく、了解」
苦くそう告げて片手を挙げると、カクタスは部屋を出ていく。
ぱたんとドアが閉まって、執務室の中は静寂で満ちた。
ぱら、ぱらぱらと紙の捲る音だけが響く中、ふと、スターチスは天窓の夜空を仰ぎ見る。
「Fortuna melioribus volo.
……至高の幸のあらんことを」
スターチスのどこか祈るような言葉は、誰にも届かず、消える。
――月は、また雲に隠れようとしていた。