第2話 起き上がったり転がったり
彼が出た先はどうやら廊下のようだった。部屋と同じく木造で、その長い廊下にはたくさんのドアが付いている。
彼の部屋はちょうど廊下の突き当たりのようで、反対側の突き当りには階段が見える。多分そこが一階に続く階段だろう。
「……やっぱり、見覚えがない……」
彼はそう呟きながらも階段に向かった。足元はふらふらとおぼつかないが、物が多い訳ではないから転ぶ事はないだろう。
ここは宿屋とかアパートみたいな所なのかな、と彼は思う。
沢山のドアがあるが、それぞれのドアについている飾りは個性的な物ばかりだ。
きっとここに住んでいる住人の物だろう、と彼は思考を短かめにくくった。
「それにしても、すごいな……」
彼は辺りを見回して、理由の分からないため息を吐く。
それぞれの部屋に続くであろうドア。誰か分かるようになのか、それとも個人の趣味なのか。そのドアには目印のような物がそれぞれ付いていた。
猫のドアノブや可愛いデザインのネームプレート、盾のようなドア飾りだったり、壁掛けの花瓶に入ったポトスだったり――伝言用なのだろうか、小さなメモ帳が貼ってあるドアもあった。
「あれ、床とかにも置いていいんだ――ってうわっ!?」
『それ』に気付いて、彼の背筋の血が一気に抜ける。彼は情けない声を上げて後ろに後ずさった。
床に居たのは――灰色の鷹だった。爪も嘴も鋭く、襲われたら浅い傷では済まないだろう。動く様子は無いが、鋭いその眼が彼を睨んでいて――と、そこまで理解して彼は気づく。
これ、石像だ。
「な、なななんだ石像か……」
緊張の糸が一気に解れてゆく。力が抜けるのを抑えきれず彼は床にしゃがみこんだ。
はぁ、と力の抜けた息が溜息のように口から漏れる。
「……にしても、こんなの置いてて夜中とかどうするんだろう……怖くないのかな、これ」
彼はぼやきながらその像の横を通り過ぎる。もちろん視線はその像から離さないままで。
「……よし」
彼は像をじっくり見て動かないか確認した後、像に背を向けてまた歩き出す。
階段はもう目の前だ。
彼が安心しきって階段へ一歩踏み出した所で――
「こんなのとか言うでない! 若造が!」
「うあああっ!?」
後ろからとんできた声に彼は驚いて、そのまま階段を踏み外した。
あ、と思った瞬間にはもう遅く、彼の体はそのまま転がって踊り場の壁に激突する。
がしゃん、と音がして壁にかかっていた絵が彼の頭に落ちた。
「い、痛った……」
彼は頭を押さえて起き上がる。声の主を探そうと階上の廊下を見てみたがそこに人の姿は無い。ドアの閉まる音も無いのにどこに行ったんだ、と彼は不思議に思い首を傾げた。
おかしいな、ドアはそんな薄い訳ないし――そういえば、開ける音も無かったような……。
――そこまで思考が進んで、彼の体の芯が凍った。
「……す、すみませんでしたあぁ!」
嫌な思考を振り切るように彼は階段を駆け下りる。
いやいやありえないありえない、きっとドアの向こうから叫んだんだそうに違いないそうじゃないと石像が喋ったってことになってまずいしいやなにがまずいんだってそうだ怖いし呪われるかもだしでも謝れたからいいのかってそうじゃなくて!
彼の思考はごちゃごちゃのまま、とりあえず人の居る所へ、と急いで一階へ向かう。足が何回かもつれて転びそうになったが、今度は踏み外す事はなかった。
多分数十秒もかからなかっただろう。幸いアゼリアは階段の近くに居たようで、彼はすぐさま彼女の名を呼ぶ。
「あ、ああアゼリアさん!」
「ん……あぁ、ちょっと待ってくれ、今用意する――って、どうしたんだ」
振り返った彼女は彼の慌てた様子を見て首をかしげる。せ、せせ石像が、と噛み噛みの彼の説明を聞いて内容を理解する事が果たしてできたのか。
とりあえず、彼女は大丈夫だ、と彼をなだめていた。
「謝ったのなら大丈夫。さぁ、昼食にしよう。降りてきたということは…腹が減ったんだろう?」
「………そういえば、そうでした……」
思えば、かなり自分勝手な思考だった気がする。
何から何まですみません、と彼は小さく謝る。
「大丈夫、『何事も助け合い』がここの信条みたいなものなんだ」
ここはギルドだから、当然。
そう付け足して彼女はキッチンへと向かう。彼はギルドって何なんだったけ、と首を傾げて彼女について行った。
「アゼリア、あんたにしては起きるのが遅いね、……って、あ、起きたの、彼」
「遅くなってすみません、サンドウィッチとかお願いできますか?」
「任せておきな! あ、彼の分もいるだろ?」
「お願いします」
アゼリアさんがキッチンに居た女性に語りかける。女性の姿はよく見えなかったが、声からしてきっとまだ若いのだろう。
キッチンのドアを開けて、別の部屋へと入る。
出たのは食堂のような、料理店のような場所だった。部屋の木の色は一層深くなっており、カーテンがはためく窓から差し込んでくるわずかな日光が、いくつかのテーブルとイスを照らしている。
「ここは若おかみさんのお店なんだ。おかみさんは私達のギルドマスターの妹さんだから、私達みたいなギルドメンバーはお世話になっている。まぁ、言うなら常連さん、って所か」
「は、はぁ……」
ギルドマスターに続き、ギルドメンバー。当然彼には意味が分からない。
えっと……ギルドマスターは、ギルドのマスターってことだから、多分店長的な役職なのかな……ギルドメンバーはギルドに所属している人ってことだとは思うけど……。
「……座らないのか?」
「へっ? あ、はい!」
考え事をしている間に、アゼリアはもう席に座っていた、彼はその前の席を慌てて引く。
「失礼します……」
「ん」
彼が席に座ると、アゼリアはいつの間に持っていたのかティーポットとティーカップ二つをテーブルの上に置いて、早速お茶を淹れ始めていた。
「カタリ――いや、ギルドメンバーの一人に聞いたんだが、美味しいお茶の淹れ方というのがあるらしい」
「は、はぁ……」
「それから本を読んで自分なりに勉強してみたが、これが中々面白い。お茶というのも結構深い物なんだな」
「そうですね……」
アゼリアの話に何とか相槌を打つが、彼に話の意図は分からない。
えっと……これはどういう事なんだろう。茶の道に通ずる人生観とか語られるんだろうか。
……分からない。女の人とこんな話した事……多分無いんだろうな、きっと。
「どうぞ」
「ありがとうございます…」
アゼリアからティーカップを渡されて、彼は飲んでいいのか躊躇う。アゼリアの方を見ると、彼女は何かを期待するようにじっと彼の方を見ていた。
「頂きます」
きっとこれは飲んでほしいって事なんだ、と彼は読み取ってカップに口を付ける。
暖かいお茶のいい匂いが彼の鼻に届いた。
「あ、美味しいです! これ」
これはきっとダージリンだろう。暖かい、いい香りが彼の冷たい体に滲み渡っていく。
いい香りで、美味しいです。と、彼は思った事をすぐに伝えた。
「そうか。……なら、よかった」
そう言って彼女は嬉しそうに笑う。きっと彼女の素の笑顔なのだろう、彼はふんわりした暖かさに包まれたような気がした。
温かい紅茶の香りがゆっくりと広がっていく。
――彼女の話を聞いている間だけは、彼は自分の不安な状況を忘れる事ができるような気がした。