第1話 踏み出して
――重い。
その一心で彼は目を覚ました。涙で滲む視界の中で、カーテン越しに向こうの青空が透けて見える。
夢、だったんだ。
彼は小さくため息を吐いて、目尻に浮かぶ涙を雑に拭った。
「――ここ、どこだろ」
彼は辺りを見回す。
そこはどうやらどこかの部屋のようだった。彼の寝ているベッドと、クローゼットにタンス、それとテーブルとイス。それだけしか家具の無い、簡素な部屋だ。
何処か温かい気がするが、理由は彼には分からない。
「……どうして、ここにいるんだ……?」
そう呟いてからやっと、彼は事の深刻さに気が付いた。
ちょっと待って、と小さく呟いて、彼は頭に手を当てる。
――思い出せない。ここにいる理由も、ここに至るまでの経緯も――いや、今までの自分の過去全て。
彼には思い出せない、記憶の鱗片すらも。
―――――思い出せない。
「ど、どうしよう……」
ここは本当に何処なのだろう。何で自分はここにいるんだ。そもそも、自分は一体何者なんだ?……と彼の頭を数々の疑問が廻る。
自分の体の芯が急激に冷えてゆくのを感じながら、彼は頭を抱えた。
「と、とりあえず自分の身分を証明する――何か、名札とか……」
慌てて彼が立ち上がった瞬間、がちゃ、とタイミング良くドアが開く。
彼はその音に驚いて足元のマットを踏んでしまい、そのままバランスを崩してベッドへと倒れこんだ。
「だ、だ誰ですか!?」
彼はそう叫んでから、言った言葉が失礼であると気づく。
扉を開けたその人物――背の高い女性は案の定目を丸くしていた。
少し長めの髪に、質素な服装。動きやすそうなズボンの裾には刺し色で不思議な模様が刺繍されている。
――彼女に見とれていた事にやっと気付いて、彼ははっとした。
そ、そうだどうしよう。何とか謝らないと…!!
その一心で慌てて言葉を紡ごうとした彼に向かって、その女性は何処かほっとしたように微笑む。
「……よかった、気が付いたんだな」
「……へ?」
間抜けな声を出してしまった彼に、彼女は何かに気付いたようだ。そのまま言葉を続ける。
「あぁ、そのままでいい。……すまない、混乱するのも無理はないな。
……えっと、ここはバーミィシティ、一応この大陸の主要都市、とも呼ばれていたはずだ。私はアゼリア・シルヴェスター、ここの冒険者をやっている。ジョブは軽戦士、武器は――って、それは今関係ないか」
「え、えっと、あの」
「何だ?」
彼のおどおどとした切り出しを彼女は疑問と受け取った。首を傾げて言葉の続きを待つ彼女に、彼は小さな声で呟く。
「僕はいったいなんでここに――」
「……ここの近くに高原があるだろう? そこに倒れていたんだ。気絶していたから介抱しようと思って連れてきたんだが……その様子だと、大丈夫そうだな」
いや全然大丈夫じゃないです、主に精神面で。
彼は心で呟いたが、彼女には届いていないようだ。
彼女が何か言葉を続けようとした瞬間、廊下の奥から誰かが彼女に呼びかけた。彼女はすぐに振り返る。
「おいアゼリアー! ちょっとこっち来い!」
「あぁ、今行く。
……すまない、私は少し一階に行ってくる。じきに戻れると思うが……もし腹が空いているようだったら下に降りてきてくれ、パンぐらいなら出してもらえると思うから」
「あ、はい! ……ありがとうございます」
再度呼びかけが聞こえて、彼女は困ったように微笑むと廊下の奥へと消えて行ってしまう。
……ドアが閉じると、部屋は一気に静かになった。
窓の外で小鳥が鳴いている。窓枠にでも止まっているのだろうか、小さい筈の鳴き声が彼の耳にはちゃんと届いていた。
「……冒険者、ジョブ……?」
彼は小さく呟いて、混乱した頭を整理する。
冒険者、ジョブ……何の話なんだろう。戦士……ってことは彼女――アゼリアさんは軍隊か何かに入っているのかな? いやそれじゃあ冒険者って言わないよな。……そもそもバーミィ……ナンチャラなんて名前なんて、全く思い出せないし……。それに倒れてたって事は――僕は何かに襲われて、そのショックで記憶を失った……って事か? なら何で――って、これだけじゃあ分からないか。
彼はため息を吐いてカーテンを見る。薄いカーテンで遮られた窓が何故か眩しい。
「……どうしようか」
このままこの部屋に居てもいいけれど、アゼリアさんがいつ戻ってくるか分からない今、じっとここに居るのは少し手持無沙汰だ。かといってこの記憶の無い状態で動き回るのも危険な気がする。いきなり記憶が無いと相談しても、向こうは驚いてしまうだろうから。それなら部屋に居て大人しくしていた方がいいのだろうか。でも――
ぐぅ~。
そこまで彼が考えた所で、丁度良く腹の虫が鳴った。その音とともに、彼は自分が腹を空かせている事に気付く。
「……下にパンぐらいならあるって、アゼリアさん言ってたよな……」
彼は呟いてベッドから立ち上がった。そのままドアの所まで行って、小さく一呼吸する。
理由の分からない緊張の糸が彼の体を縛っていた。
――記憶の無い、何も知らない僕にとって、この先は未知の世界だ。どこから危険が来るかも分からない、けど――。
彼はドアノブを握って、ドアを押し開けた。きぃという音と共に、彼の体を纏う緊張の糸が一本、一本と張りつめていく。
「――進まなければ、知る事は出来ない」
そう呟くと共に、彼は廊下へと踏み出す。
――窓の外に居た小鳥が、空に向かって羽ばたいた。