第0話 溺れる
――どぶん。
何かの音で、彼はやっと自分が妙な浮遊感に包まれている事に気が付いた。
彼の眼がゆっくり開いて、深く蒼い色を映し出す。
ぴりぴりと滲みて動けない左手に気付いて、彼はハッとした。
ここは、海の中だ。
「あ、わっ」
水、水!? 水は、水は嫌だ!
彼を強烈な恐怖が襲う。思わず開いた口から泡が漏れて、上の方へと上がっていった。
頭の中を言葉が埋め尽くすのを感じながら、彼は動く方の腕で必死に水をかく。
出ないと…ここから出て、水面に上がらないと!
何故かはわからないが、その直感に突き動かされて彼は水面に上がろうとする。
――足元から冷ややかに迫りくる、とたんに現実味を帯びた息苦しさと、恐れと焦り。
それにつかまった後の事は、彼には考えられない。
いや、考える事すらも『今の』彼は忘れていた。
……彼の体は、確かに上へと上がっていたはずだ。
しかし、水面は一向に近づいてこない。
まるで、鎖で縛られているように。
いつの間にか、彼はもう息ができなくなっていた。逃れようもなくなったその苦しみが、どんどん彼の視界を奪っていく。
――苦しい、息が、できな―――――。
必死に伸ばした彼の手の先に、蒼い水面が――世界が見える。
――あ、きれいだ。
妙に間延びした思考が、彼の意識の最期だった。