悪役令嬢の侍女
前回に引き続き、多少の流血表現や怪我の描写があります。
苦手な方はご注意ください。
「化け物め」
自分でも知らず識らずのうちに、声が低くなるのを押さえられなかった。
胸の内で暴れまわっていた焦りがスッと静まり、ひらすら冷たい感情だけが支配する。
かつては、日常的に触れていた感情。
しかし、お嬢様に触れるようになってからは随分と久しい思いだった。
つまりはこうだ。
「殺してやる」
その理由は単純明快。
お嬢様を傷つけたという事実が私の心に大きく響いたからだった。
自分の未熟さと、傷つけてしまった後悔がとめどなく溢れ、それが殺気に変換される。
ローナ先生と戦っていた時には押さえ込んでいたものを私は一気に周囲へ曝け出した。
魔力による威圧。
それが魔物の注意をこちらへと寄せ付ける。
赤い瞳がギラリと光り、私を鋭く睨みつけた。
それでも、一度振り上げた腕は止まらず、倒れこむお嬢様を今に殺さんと襲いかかる。
「二度もさせるか」
私は残る距離を駆け抜けた。
その速さは今までとは比にならない。
昔の感覚が次々と蘇ってくる中、私はその爪を二本のタガーで受け止めた。
「くっ」
ギインッ、と響く、剣と爪がぶつかり合う音。
熊の魔物の攻撃は今までに受けたことのないくらい重かった。
しかし、それは予想済み。
自分の気の緩みを自覚した今なら、熊の実力も把握出来る。
もちろん、攻撃も受けられないことはなかった。
魔力で体を補強しながら、その爪をギリギリのところで弾き飛ばす。
熊はそのことに驚いたように、ジリと後ずさった。
当然だろう。
この魔物の攻撃を受けて無事だったものはこの層には居なかったはずなのだから。
それが、この層に入ってから魔物の姿が見当たらなかった原因だ。
私はそれを追わずに、お嬢様と魔物を隔てるようにして立つ。
そして、じっくりと魔物を睥睨した。
魔物も一撃を防がれたためか、すぐに襲いかかってくるようなことはしない。
なにせ、こいつには厄介なことに知能がある。
奴の強さを見る限り、それは確かなことだった。
魔物はその力を増すほど、狡猾になる。
そんな話をどこかで聞いた。
街を壊してきた災害級の魔物はいつだって、甚大な被害をもたらしてきた。
その理由は単純な力が大きいためだけではない。
いくら強大な力を持ち得ようと、人間だって何百年、何千年と魔物と相対してきたのだから、そう簡単にやられるわけがないのだ。
それでも被害が出るのはやはり強力な魔物の狡猾さ故。
幾ら力を得ようと、数の暴力には勝てない。
魔物もそう知っているから、ジワジワと、やがて大きな被害になる種を蒔いていくのだ。
そして、目の前の熊もまたそうだった。
多分私たちの声をどこかで聞いたのか、まずはアナ様を殺さずにその場に放置。
次いで、そこに飛び込んできたお嬢様もろとも殺そうとする。
その上、気配を消すのも上手い。
純粋に力を手に入れることばかり考えている獣とは思えない動きぶりだった。
今でもそう。
無闇に飛び込んでくることはなく、自らの攻撃を防いで見せた私をじっくりと探るように見つめている。
先ほどの攻撃の強さを見る限りだと、災害級の一歩前か、今まさに手をかけんとしているところといったところか。
この層に魔物が少ないのも、多分こいつのせいであろうし、強力であるに違いなかった。
「少し、厳しいか?」
さすがに相手は軍隊まるまる一つで相手するような強力な魔物だ。
幾ら自分の強さが人並みではないと自負していても、流石にこいつを単騎で相手取るのは厳しかった。
それに私は元々対人専門。
魔物の知識は一般的なもの程度しか知らない。
そこらへんは魔物倒しのエキスパート、王国騎士たちの方が詳しいだろう。
その上、背後の怪我人二人を守りながらというのはなかなかに難易度が高い。
無理、とまではいかないが不安があるのは否めなかった。
さて、どう動いていくべきか。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
取り敢えず、魔物から目を離さぬままお嬢様の今の状態を確かめることにした。
傷はそんなに深くはなさそうだったが、動けるかは微妙なところである。
しかし、意外にもお嬢様の返事ははっきりとしていた。
「ええ、大丈夫よ。アナ様を支えながらでもなんとか動けるわ。さすがに戦うのは難しいけれど」
「本当ですか? 無理はしていないでしょうね?」
「平気。少しアナ様同様、出血が激しいけどそこまで。あの熊の魔物の爪は少し特殊みたい……って、来るわ!」
「わかってます!」
私の意識がお嬢様との会話にわずかに引き摺られたのを魔物は見逃さなかったようだ。
今が好機、と言わんばかりに地面を蹴り肉薄してくる。
荒々しいながらも、無駄のない洗練された動き。
三メートルを越す大きな図体には似つかわしくない素早さだった。
一方で私はそれを予想していたために、爪を紙一重のところで身体を捻って交わした。
ついでにその捻った勢いをいかして、熊の鼻面に蹴りを叩き込んだ。
魔力で強化した上、私の魔法の適正「風」でさらにその速度を増した強烈な蹴りである。
返ってきたのは固い感触。
それでも、熊の身体は大きくのけぞった。
熊は苦し紛れに腕を振るうが私は宙で回転して、それを踏み台にした。
さらに上へ跳躍して、高さを稼ぐ。
そして、重力と共に一気にタガーを振り下ろした。
目がけるは額のあたり。
弱点は知らないが、頭を貫けばなんとかなるだろうと思っていた。
しかし、それは裏目に出たようで。
「っ! 魔法?」
熊が体勢を崩しながらも、カパリと開けた口の中。
急速に魔力が集中していくのを感じた。
私は嫌な予感を感じ、とっさに風魔法で自分の身体を吹き飛ばし、攻撃を無理やり止めた。
どうやらその判断は正しかったようで。
一瞬前にいたところをゴウッ、と炎を通過した。
動きの止め方が無理やりだったため、腕をかすめて飛んで行ったそれは背後の木に大きな穴を穿つ。
私の左腕にもピリリとした痛みが走り、黒く焦げ跡が付いていた。
危うく、灰になるところである。
私は吹き飛んだ影響でゴロゴロと地面を転がりながら、着地した。
背後のお嬢様を守る位置を咄嗟に陣取る。
その間に熊は仰け反った体勢を整え切っていた。
更に、絶えることなく新たな攻撃を仕掛けてくる。
「学習、するか」
今度の熊の攻撃は爪によるもの。
だが、それは今まで通りの攻撃ではなかった。
私の蹴り対策というべきか、爪に炎を纏わせてきたのである。
これで、紙一重でかわそうものなら、灰になること間違いなしだ。
接近戦には危険が伴う。
正直、接近戦がメインの私には痛い対応だった。
とはいえ、ここを退いてしまえば背後のお嬢様たちが危ない。
「リオッ!」
私は刹那の逡巡の末、ダメージ覚悟で爪を受けにいった。
背後で、お嬢様の悲痛な叫び声が上がる。
私は身体中に魔力を張り巡らしながら、風で炎を寄せ付けないようにして爪と剣を交差させる。
それでも、風の合間を縫って襲い来る炎は時々、肌を焼いた。
私はそれに歯を食いしばりながら耐えて、お嬢様に語りかけた。
「お嬢様、聞いてください」
「リオ、話している場合じゃないわ、早く逃げて!」
「いえ、平気です。むしろ、お嬢様が逃げてください。ここは危険です。早くローナ先生たちと合流し、ここのことを知らせてください」
「でも、その間にリオは」
「ここで耐えます。別に勝てない相手ではないです。ただ、少し厄介なだけであって、何てことはないです」
「嘘よ、相手は災害級の魔物よ。そんなに耐えられるはずがないわ」
事実、魔物の強さは想像以上だった。
たしかに勝てない相手ではないが、確実に勝ち切る自信など、あまりない。
今まさにこの瞬間、少しでも気を抜こうものならば、殺られることは必至だ。
お嬢様も相手の実力がわからないはずがないのだから、わかって言っているのだろう。
今すぐ逃げろ、私を置いて逃げろと逃げ道を提示してくる。
しかし、私はそれを受け入れるわけにはいかなかった。
いや、受け入れられるはずもなかった。
「何を言われようが私はどきませんよ」
目の前では火が一段と強くなった。
まるで、私の意思を否定するように。
けれど、私は体の奥底から魔力を振り絞ってそれに対抗する。
お嬢様に確固たる意思を見せつけるために。
今すぐに、ここから逃げて貰うために。
私は一層声を張り上げた。
「行ってください。出血がひどくなれば、お嬢様はここを動けなくなる。そうなれば、アナ様も危ないでしょう。とにかく、行ってください。私はここを絶対に動かない。私を死なせたくなかったら、早くローナ先生にこのことを知らせてください」
「リオ……」
「大丈夫ですから。私はお嬢様を守る使命を果たすまで、死ぬつもりはありません」
「絶対ね?」
「はい」
私はお嬢様を振り返ってニコリと笑った。
ザシュ、とわずかに爪が皮膚に食い込むものの、それに気がつかないふりをする。
お嬢様は私の決意を悟ったのか、あとは少々青ざめた顔で頷くだけだった。
そして、アナ様に肩を貸しながら、怪我していることを感じさせない足取りで歩き出す。
私はその背を見送ると、化け物に向き合った。
飢えたような獰猛な赤い瞳と、私の目がかち合う。
私は大きく腕を振るい、熊の爪を押し切った。
そこから一度距離をとって、仕切りなおすようにタガーを構える。
腕はボロボロだが、それは風で切り裂かれた魔物の腕も同じだった。
程度で言えば私の方が上になるのだろうが、どうってことはない。
これくらいの痛みには慣れている。
いや、お嬢様を守りきれないくらいなら、腕は要らない。
さしたる問題ではない。
「ふん。ようやく自由だ。おい、デカブツ。張り倒してやるよ。さっさとくたばれ」
お嬢様には聞かせられないセリフだな、と内心ぼやきつつも私は魔物に言葉をぶつけた。
それはただの気晴らしだ。
魔物に通じたとは思えないが、魔物の纏う雰囲気は一層剣呑になる。
私も、守るべきものが離れてくれたところでカチリと頭の中が切り替わった。
つまりはそう、残忍極まりない、私の穢れた部分が顕著する。
風は僅かに白に染まっていたものが、黒に変わり、タガーが鋭い光を放った。
久しく忘れていた感覚が己の中で完全に帰ってきたことを証明していた。
「切り刻んでやる」
グアラッ!
互いの咆哮が第二ラウンド開始の合図だった。
私が地面を蹴った瞬間、両者の距離がゼロに変わる。
ガキンッ、という音とともに火花が散った。
私は熊の手から洩れ出る炎をそのままの勢いですり抜け、その大きな懐に潜り込んだ。
火傷がまた一つ増えるが、冴えきった頭の中はそれを痛みと感じない。
考えるのは目の前の化け物の命の火を絶やすことのみ。
私はその心臓あたりにタガーを全身の力を使って叩き込んだ。
魔物は魔力によって身体が丈夫になっているため、あまり深い傷にはなり得なかったが、それでも小さな切り傷は刻まれる。
魔物も鬱陶しそうに、乱暴に腕を振るった。
だが、その大きさ故にどうしても、動きが大ぶりになってしまうため、中々私には当たらない。
距離が近いこともあり、炎を口から吐くこともできず、時折火花が飛んでくるくらいで、大きなダメージがないのはお互い様だった。
まさに、一進一退の攻防。
とはいえ、接近戦では体格の良い魔物の方が圧倒的に有利。
こちらはかなり繊細な動きやスピードを要求されるので気力や体力という面では私の方がガリガリと削られていく。
魔物の方もそれを理解しているのか、下手に距離をとったりすることなく私に苛烈な攻撃を続けていた。
側から見れば、お互いに常人の目に追えない程の速さで戦っているに違いない。
私の経験も伊達ではないし、相手だって災害級と呼ばれるほどの魔物だ。
一瞬でも気を抜こうものなら、それはすなわち終わりを意味する。
だから、私はお嬢様とも必ず戻ると約束した以上、私は負けるわけにはいかなかった。
たとえ、地を這いつくばってでもお嬢様の元へは帰らなくてはならない。
これ以上、あのお方を失望させるわけにはいかないのだ。
「今は、耐える。なんとしてでも」
タイムリミットまでまだあともう少し。
私は起死回生のチャンスを虎視眈々と狙いながら、武器を振るった。
一度つけた傷口を何度も抉るようにして、身体を風に乗せて踏み込む。
魔物はその度に、不機嫌そうな唸り声を上げた。
それでも本能のままに単純な動きをしないあたりは、ツワモノというべきか。
私はステップを踏みながら、周囲の気配へと意識を伸ばした。
もはや、魔物のパターンは理解している。
少々は危険だが、切り札を切るために今度は周囲の状況を理解することに努めた。
果たして、間に合うかどうか。
無論、それを見透かしたかのように魔物の爪は更に鋭くなる。
肩を浅くもサクリと切り裂かれ、血が頰に飛び散った。
確かに、お嬢様の言う通り、この熊の爪は特殊なようだ。
異常なまでに血が肩より滴り落ちる。
動くたびに出血が酷くなり、頭がクラクラとした。
「チッ、厄介な」
小さく舌打ちをしながら、意識を必死に手繰り寄せる。
負けるものか、とお嬢様の顔を思い出しながら意思を強く保とうとした。
それでも、精神論だけではやはり限界はあるようで。
「あっ、と」
遂に足元がふらつき、致命的な隙ができてしまった。
魔物の大きな口元が不気味にニッと吊り上げられる。
頭上からは炎を纏った鋭い爪が降りかかってきていた。
まさか、ここに来て。
思っていたよりも早く隙を晒してしまったことに、我ながら不甲斐なさを感じて、唇を強く噛んだ。
そして、来たるべき衝撃に備えて、頭上でタガーをクロスさせる。
さて、どうなるか。
歯を食いしばり、足に力を込め、敵を鋭く睨みつけた。
その時だった。
「来たか」
グルゥ?
不意に場違いとも言える、カランコロンという何かが転がる音がした。
今まさに攻撃しようと手を振りかざしていた魔物も何かを感じたのか、動きを止めた。
代わりに音のした方へ目を向けて、それからギョッとしたように身体を震わせた。
視線の先にあったのは、紫色の煙を吐き出す玉だった。
煙は甘いような、懐かしいような独特の芳香を漂わせて、みるみるうちにあたりに充満していく。
煙の向こうからは聞き覚えのある声が聞こえた。
「リオッ!」
「お嬢様!」
「侍女殿、無事だろうな?」
「ローナ先生も」
煙の向こうにいたのはお嬢様と、ローナ先生を筆頭とする王国騎士たちだった。
その背後にはこんなところだというのに殿下もいらっしゃり、お嬢様の肩を支えていた。
私は予想外の顔ぶれがいることに驚きながらも、取り敢えずは魔物の攻撃範囲から逃れた。
その間も魔物は何故か紫色の煙に注意を惹きつけられているようで、それをやすやすと見逃してくれる。
私はそれでも警戒を解かないまま、騎士たちの元へ駆けつけると、現状を確認した。
「リオ殿、だったか。大丈夫か? 腕はひどい怪我のようだが」
「ええ。平気です。心配には及びません。それより、ローナ先生、あの紫色の煙は一体?」
「ああ、あれか。あれは魔物が嫌う特殊な匂いを出す煙玉だ。今回は殿下も合宿に参加することもあって、万が一の事態に備えて陛下から賜った、一番強力なものだ。災害級とにことだが、暫くはアイツも動けないだろう」
「そんなものを」
「ああ。つい最近発明されたばかりのものだがな。一級品だ。取り敢えず、この先はプロの我々に任せてもらおう。幸い、ここにいるのは熟練の騎士たちだ。アイツも煙玉と君の攻撃で既に動きが鈍っている。なんとかなりそうだ」
「お願いします」
私は正直、これ以上は足手纏いでしかないと感じていた。
彼らなら、きっとあの熊の魔物の弱点も熟知しているだろうし、武器だって魔物討伐専用のものを幾つか持っているに違いない。
経験も豊富だし、もう私の出る幕はないだろう。
私はそういう考えに至って、大人しく引っ込むことにした。
腕もボロボロだし、先ほどのようにまたヘマしてしまう可能性も否めない。
お嬢様を守るという使命が達成できた今、無理する必要もないのだ。
私は騎士たちの姿を見送った後。
そこで、ようやくお嬢様とも再び目を合わすことができた。
お嬢様は少し顔が青ざめているものの、治療をちゃんと受けたのかその他は特に問題はなさそうだった。
巻かれた包帯は痛々しいが、お嬢様はまるで気する様子がない。
取り敢えず、無事、だったらしい。
私はそのことにホッと胸を撫で下ろしてお嬢様に近づいた。
「お嬢様、よくぞご無事で。安心しました」
「……」
「怪我は大丈夫ですか? 私が未熟なばかりに申し訳ありません」
「……」
「……お嬢様、どこか具合が悪いのでしょうか?」
「……」
「お嬢様?」
何度呼びかけてみても、反応がない。
私が心配になって顔を覗き込むと、お嬢様は無表情なままこちらを見返していた。
瞳には何も映っていない。
これは久しぶりに、見る表情だ。
私はその理由に思い当たって、頭を掻いた。
「お嬢様。もしかして、怒っていらっしゃいます?」
「……それ以外の何に見える?」
「やはり、ですか」
言い当てて見れば、お嬢様はようやく口を開いた。
その声音は普段以上に冷ややかで、刺々しい。
あの気の弱い令嬢方が聞けば、一瞬にして泣いて逃げ出すのではないかと思うほどだ。
私の胸にもやはり、グサリと突き刺さり、思わず俯いてしまう。
お嬢様はそんな私に追い打ちをかけるように、更に言い募った。
「馬鹿。一体、どれだけ私が心配したと思っているの」
「……」
それはお嬢様の言葉で、言うまでもなく明らかなことだった。
お嬢様はあの時、逃げ出す寸前に自分を置いてでも助かれと言ったほどだ。
私のことをどれほど思ってくださっていたのかなんて、容易に分かることだった。
だからこそ、私は何も言えずに黙り込んでしまう。
さっきのお嬢様との立ち位置は一気に逆転していた。
その中で、流石の殿下もそんな張り詰めた空気に黙り込んで、何を言うでもなく聞いている。
お嬢様の言葉は続いた。
「確かに、あなたが私を守ろうとしたのだということは分かる。私があなたに助かってほしいという思いがあるのと同じように、あなたもまたそう思っているんだってことは、きちんと理解しているつもりよ。でも、だからって」
お嬢様は私の傷だらけの腕を掴んだ。
火傷と切り傷が幾度となく重ねられた腕はあまり強くはないそれにも、大きな痛みと変わる。
私は耐えきれずに思わず顔を顰めた。
しかし、お嬢様の手を払うようなことはしない。
この痛みは、お嬢様が心配して私のために痛めてくださった心と同じ、いや、それ以上の痛みなのかもしれないのだから。
お嬢様は私の手を掴んだまま、声を震わせた。
「だからって、あなた自身の命を蔑ろにはして欲しくはないの。こんな風に、手を使えないくらいボロボロにまでさせて、無茶をして」
「……すみません」
「謝るなら、こんなことはもう止めて。あなたはいつも私に過保護すぎる。自分のことを二の次にしすぎなのよ。そんなの、私の望んでいることじゃない」
「……お嬢様」
お嬢様は本当にお優しい方だ。
と、この言葉を聞いていて思う。
汚れきってしまった私とは違って、この人はどこまでも私のことを考えてくださる。
ズルいのは私なのに。
救っていただいているのは私の方なのに。
この人はそんなことも知らないで、無条件に手を差し出してくださる。
私も本当はわかっているのだ。
この方の近くに本来、いてはいけないことくらい。
私は私の強さを証明するように、多くの人の命を手にかけたことがある。
幾人もの人の心を傷つけたことがある。
だから、この手を取る資格はないのだ。
それがいくらお嬢様の望みでも、どんなに思ってくださっていても、変えられないこと。
あってはならないこと。
私は私の使命を果たさなくてはならない。
だから、残酷なことではあるが、私は。
「申し訳ありません、お嬢様。それは止められないのです」
こう、答えなくてはならない。
お嬢様が傷つき、私のことを嫌おうとも。
私に背を向け走り去ろうとも。
それだけは曲げられないのだ。
お嬢様の「真の幸せ」を願うことは、止められないのだ。
「リオ」
すぐ隣では、王国騎士たちがようやく死闘を終えて、災害級の魔物を倒したところであった。
誰も彼もがボロボロだが、死人はいないらしい。
彼らが喜ぶ中で、私と殿下のお嬢様のいなくなった空間は対照的に重苦しい雰囲気が漂っていた。
お嬢様は二層に向けて、先に帰ってしまわれた。
私におそらく失望して。
深く傷ついて。
取り残された殿下がたまりかねたように、声をかけてくるも、私は何も答えられない。
殿下ははなから答えなど求めてはいなかったようで、一言だけ言い残し、去っていった。
曰く、
「君たちはお互いに頑固だな」
と。
自分でもそれくらいはわかっているつもりだ。
でも、後悔はしていない。
何れは、それを伝えなくてはならなかったから。
「あれ、リオ殿は一人か」
しばらくして、近づいてきたのはローナ先生だった。
一人立ち尽くす私に、お嬢様たちは帰ったのかと尋ねてくる。
私はそれに頷いて、今は魔物が少ないし、おそらく平気だろうと告げる。
強い魔物の周辺は邪悪な魔力も大量に吸い込まれるため、他の魔物は出にくいらしい。
ローナ先生はもちろん、それを知っているから、納得したようだ。
そして、ふと何かに気がついたように私の姿に目を止めた。
決して、暗い顔をしていたからというわけではない。
私は表情を取り繕っていたので、バレていないはずだ。
そして、案の定ローナ先生が口にしたのも別のことだった。
「そういえば、君の傷がマシになっているような気がするな。気のせい、か?」
「さぁ、どうでしょう」
腕は相変わらずひどい状態だった。
それでも、幾つかの傷が治り始めている。
これもまた、お嬢様に隠していることのうちの一つだったが、ローナ先生に向けては惚けておいた。
すると、先生は首を傾げながらも、それ以上は深く聞いてこなかった。
どうやら、先生も思うところがあるらしい。
そのあとは、私たちも森の入り口へと戻る運びとなり、その日は終了した。
とまぁ、何はともあれ、そんな大きなハプニングがありながらも、合宿の日々は刻々と過ぎていった。
気まずくなったお嬢様との関係は一向に戻る気配はなかったが、最終的にはそばにいても何も言われないくらいには戻った。
お嬢様は合宿期間中、鬼気迫る程剣術にのめり込み、帰る馬車でも終始無言のまま。
私だけでなく、殿下に対する態度も素っ気なかった。
言わずもがな、原因は無茶をした私のせいだろう。
私たちはこうして、気まずい空気を背負いながらも、無事に学園へと帰還するのであった。