悪役令嬢に忍び寄る影
多少、流血表現がございます。
余り酷いものではありませんが、苦手な方はご注意ください。
ギュアアッ!
醜い、獣の咆哮が薄暗い森の中に響き渡る。
黒ずんだ靄のような邪悪な魔力が周囲に散り、犬のような真っ赤な目をした獣が前を歩くお嬢様に飛びかかった。
その体長は一メートルほどで、鋭い牙を今にもお嬢様に突き立てんと飛びかかる。
はたから見ればか弱いお姫様に怪物を襲いかかろうとしているように見えた。
「邪魔よ」
しかし、実際のところは逆だった。
お嬢様がそんなに甘いはずがない。
お嬢様は冷たく一言吐き捨てると、その場から高く跳躍した。
銀色の美しい防具と鮮やかな赤髪が宙で瞬間的に閃く。
先ほどまでお嬢様のいたところに着地した獣は標的を見失って、隙が出来た。
「さよなら」
お嬢様はそのまま落下の力を利用して、剣を獣の首に振り下ろした。
隙だらけの獣はもちろん、避けられるはずもなく。
ギュアアッ! ガアッ!
獣は剣を身に受けると、大きな慟哭とともに黒い霧となり、霧散した。
気がつけば、獣の姿はどこにもない。
辺りには再び静寂が戻ってきていた。
これが、邪悪な魔力を体に溜め込んでしまった魔物の「死」である。
可哀想なことに、魔物は大きな損傷を受けると魔力が暴走し、原型を保てなくなってしまうのだ。
時に一部分が残ることもあるが、それは稀なことである。
お嬢様は今日五体目の魔物を倒し、フッと息を吐き出した。
本当に瞬殺だった。
お嬢様は周りが助ける間も無く、本当にあっという間に倒してしまう。
これにはアックス様と見習い騎士二人が呆然としていた。
「本当に強いんですね、エレナリア様」
「ぼっ、僕感激しました!」
「俺もだ。噂に聞いてたけど、まさかここまでとはねぇ」
お嬢様の無双状態に各々の反応を見せる中、私と殿下は大して驚きはしなかった。
もちろん私は見慣れているし、此処までしたのも私自身だ。
殿下もこの二週間はやたらとお嬢様に構っていたので、その実力は幾度となく目にしている。
お嬢様の実力を再確認する面々がはしゃぐ中。
一方のお嬢様自身はなんの感慨も抱かぬまま、魔物の消えた虚空を見つめていた。
そして、一言。
「つまらない」
まぁ、当然だろう。
森は奥に入るにつれ、木々に日光を遮られ、暗くはなってきたが、まだ此処は第一層終盤。
落ち着いて対処すれば、まだ危険の少ない区域だった。
多分、一撃では葬れなくとも、この中で一番実力の低い、見習い騎士の男子生徒でも確実に倒せる。
現に全員が大した苦もなく既に二、三体を撃退していた。
確かに、そのくらいのレベルばかりの敵ではお嬢様の実力を鑑みるに、退屈なのもわからなくはない。
私としては、お嬢様に少しでも安全な場所にいて欲しいので、先に進むことはあまり望ましくないのだが。
私が深いため息をついていると、お嬢様はサッと私の方を振り返った。
そして、緩いウェーブのかかった髪を後ろへと払いのけながら、私のそんな心情を見透かしたかのように言った。
「お嬢様?」
「わかってる。無理はしないわ」
「本当ですか?」
「ええ、もちろんよ。だけど、もう少し先に進みましょう? せっかくローナ先生にも許可を貰っているのだから。大丈夫。わたくし達なら、二層でも問題はないはずでしょ。何と言っても、リオもいるんだから」
「まぁ、そうですけど」
まさにその通りなので、何も言い返せない。
もしもの時は私がいるし、彼らの実力を見ても先に進むのが妥当だ。
此処で燻っていていい方々ではない。
経験を積むことで、彼らはもっと強くなれるだろう。
私が渋々ながらも最終的に頷くと、お嬢様は心なしか満足げな表情をした。
我が意を得たりとばかりに軽い足取りで歩き出すと、ズンズンと進んでいってしまう。
その後を殿下が追いかけ、横に並んだ。
お嬢様はあいも変わらず冷たく突き放していたが、そんな彼らを微笑ましげに見習い騎士達が見守る。
そうすると、必然的にその場に残されたのは、私とアックス様だった。
アックス様は私達の今までのやり取りを見てか、軽く肩を竦めた。
「君も、過保護だなぁ」
「お嬢様の身が第一ですから」
「それはわかるけど、君は少しあの人に心酔しすぎだと思うよ。確かに彼女は美人だけど、何をそうさせてんだか」
「それがわからないうちは、まだまだということですよ。殿下の惚れた理由もそれらしいですし」
「うっひょー、怖いねぇ」
「でも、あなたならいつかは気づくことは出来ると思います」
大げさに怖がって見せるアックス様は実際、もう何かお嬢様の本質を掴み始めているに違いない。
やはり食えない彼に、私は僅かに戦慄を覚えた。
それでも、それを顔に出すことはせずに行きましょうと先を促す。
彼はこの先使えるかもしれない。
そんな気持ちが芽生え始めていたことに気が付いたから。
彼はなんでもないようにそれに頷いて、再び歩き出した。
私もその背を追う。
私達はますます影が濃くなるトレイアの森、第二層へと向けて足を踏み出した。
そうして、しばらく歩き続けること数時間。
道中に大して危険はなく、お嬢様の無双状態が続いていた。
途中他の人たちに狩りの機会を分けてみるも、彼らも少々は苦戦しながらもきちんと倒せる。
お嬢様はこれ以上進むのは私が許さないときちんと理解していたのか、第二層では半ばあたりまで進んで、位置を固定化した。
お嬢様が少し楽しめつつ、他の人の訓練になるくらいの魔物が出る区域だ。
私達はそこで狩りを続けていた。
とはいえ、この辺になるとそれなりの実力者ではないと進めない場所だ。
大人の騎士達ならともかく、生徒ではなかなか立ち入れない。
この班のレベルはそれを踏まえると、相当高いことがわかる。
卒業したら、即戦力になることは間違いない。
半数は貴族だし、その必要もないのがもったいないところではあるが。
それはともかく、私はそんなことを思い出しながら、耳に届いたかすかな異音に疑問を感じていた。
此処にはつまり、人は滅多に入ってこないということ。
少なくとも、私達以外では此処までの侵入を許された生徒はいないはずなのに。
これは。
「人の、足音?」
「リオ、どうかした?」
目の前の敵を軽く霧へと変えながら、ふと視線を遠くに向けた私を、お嬢様は怪訝そうな声音で聞いてきた。
私はお嬢様に人の足音がしたことを、そのまま伝える。
「変ね。ローナ先生かしら?」
「とりあえず、行ってみた方が良いかと。音は此処から遠くありませんし、魔物と戦っているようです。場合によっては助太刀する必要があるかもしれません」
さすがにまだそこまで近くないせいか、気配もうっすらとしか掴めない。
なので、確証はないが、ローナ先生ではないと内心では思っていた。
この、未熟な感じの足音はおそらく生徒のものだ。
場所に近づくにつれ、それは確信は深まっていた。
そして、その正体についても。
出発する前に感じていた不気味な視線と同じもの。
嫌な、予感がした。
「お嬢様、正体が掴めました」
「一体、誰?」
「すぐそこです。お嬢様にもきっとわかりますよ」
お嬢様は私の言葉に、そっと木の裏からその先を覗いた。
付いてきていた他の班の者も同様に、お嬢様の視線の先を追う。
殿下があっ、と声を上げた。
そこでギリギリの状態で戦っていたのは。
「アナ嬢、か」
そう。
まさかのアナ・ユーグ様の班であった。
誰かと問われれば、ついこのあいだまでしつこいほど殿下に付きまとっていた方である。
彼女の班は犬型の魔物の群れに囲まれ、悪戦苦闘していた。
このままではかなり危ない状況である。
お嬢様はその光景を見て、呆れられたように空を仰いだ。
オレンジ色の瞳にはごく僅かの憐愍が浮かんでいた。
「全く、あの子ね」
「彼女達は此処まで入ることを許されていないはずだけどねぇ」
「如何なさいますか、お嬢様」
「聞かれなくてもわかっているでしょう?」
「助けるしかない、か」
アックス様もやれやれという風に首を振って、剣を抜いた。
お嬢様は気だるげながらも、既に足を踏み出している。
そして、一気に駆け出すと、魔物の首を横から跳ね飛ばした。
先ずは一体。
魔物の群れの数は十体ほどだった。
次いで駆けつけた殿下が、二体目を屠る。
力強い一撃に、不意を打たれた魔物は霧となって消えていった。
その後もアックス様や残る班の騎士達も順調に魔物を打ち取っていく。
残りは一気に半数となった。
「まさか、殿下でいらっしゃいますか!?」
そこで、ようやく我に帰ったのがアナ様だ。
彼女は殿下に助けられたとわかると、こんな状況であるにも関わらず、途端に目を輝かせた。
殿下はそれに困ったように眉を潜めながらも、アナ様に飛びかかっていった魔物の首を取る。
図らずとも、アナ様を守るように立つことになってしまった殿下の手を、アナ様は背後から感激したように取った。
「君、まだ魔物が」
「殿下、私を助けに来てくださったんですね! 私、信じておりました!」
「何を言って……」
そこで、大声を出したアナ様に魔物が反応し、飛びかかってきた。
手を塞がれた殿下はそれに咄嗟の対応が出来ない。
私が片付けようか、と考えていると、視界の端にお嬢様が映った。
大方の魔物を殲滅し終えたところだったので、お嬢様の手に空きができたのだろう。
お嬢様は魔物の死角から迫ると、容易に吹き飛ばした。
まさに、華麗な一撃。
前よりも格段に技術が上がっていた。
「お見事です、お嬢様」
「ありがとう」
私が思わず賞賛の言葉を送ると、お嬢様はそれを素直に受け取った。
自分でもかなり自信のあった攻撃だったようだ。
これで、ほとんど魔物は全滅。
残った僅かな魔物も、逃げるようにして退却していった。
それを見送りながら、お嬢様はフウと軽く息を吐くと、呆然としているアナ様の元へと歩み寄った。
アナ様はお嬢様が近づくと、びくりと肩を震わせた。
そして、憎いほど可愛らしい声で、ポツリと呟いた。
「どうして、あなたが」
「それはこっちのセリフよ。どうして、許可をもらっていないあなたが、ここにいるの? 危ないじゃない」
「だって……」
アナ様はもごもごと口ごもるように俯いた。
かと思うと、次の瞬間にはキッとお嬢様を睨みつけた。
なんとも感情の起伏が激しい方だ。
私はこの状況を他人事のように見つめながら、そんなことを思った。
「あなたのせいなんだから!」
「さて? それはどういうことかしら」
お嬢様もこれには、こてりと首を傾げた。
私にも全く、意味がわからない。
話の脈絡がなさ過ぎて、何が言いたいのかさっぱりわからない。
私もいい加減、命の恩人たるお嬢様に失礼な態度を取り続けるアナ様に腹が立っていた。
私がお嬢様の後ろから威圧し続けていると、気がついたアナ様は「ヒッ」と軽い悲鳴を上げた。
しかし、最終的にはもう後には引けないという思いが勝ったのか、言葉を続けた。
「あなたが……あなたが私に殿下に近づかないでというから、私はっ! 強くならなきゃって、必死で。だから……だからっ、そう。つまりは全部、あなたのせいなんだから!」
「……馬鹿ね」
「何よ!」
「無理をしたって強さは手に入らないわよ。その前に死んでしまう。死んだら元も子もないじゃない」
「そんなこと、わかってる!」
「わかってないじゃない。だから、こういう状況になった。違う?」
まさに、正論。
アナ様は何も返せずにぐっと言葉を詰まらせた。
その瞳にみるみるうちに涙がたまっていく。
ああ、この子はこの程度で嫌味と欲望が渦巻く社交界に行けるのだろうか?
周囲が冷めた目で彼女を見る。
彼女の班のメンバーがオロオロとしだす中、お嬢様は深いため息をついた。
「こんなことくらいで、泣かないで。早く、この場から去りなさい。ここはあなたたちには危険すぎる」
「でも、殿下にせっかく会えたから」
「まだ、それを言うのかしら。あなたもいい加減に目を覚ましなさいな」
「エレナリア」
アナ様は殿下の腕を離さまいとして、ひしとしがみついていた。
お嬢様はそれにまた厳しい言葉をかけるが、それを諌めたのは意外にも殿下だった。
アナ様は殿下が庇ったことで、急に自信を取り戻し、瞳に強気な光を宿す。
先ほどまでの弱々しさが嘘のようである。
「ほらっ、殿下は!」
「アナ嬢。少し僕の話を聞いてくれないか」
「はい、なんでしょう?」
「僕もこの際だから、きっちり白黒つけようと思ってね。今まで君には悪いことをした。いくらイメージのためとはいえ、やりすぎたよ」
「気にしておりませんわ、殿下。私はずっと殿下のことを信じておりましたから」
「それなんだが」
殿下は一度躊躇うように口を閉じた。
しかし、お嬢様の方を一瞥して、自信を取り戻したのか、はっきりとした口調で、残酷な現実を突きつける。
「僕は、君とは付き合えないよ」
「えっ?」
「僕には好きな人がいる。それに、君と僕の身分差では到底無理なんだ。別に君自身を嫌っている訳ではないが、そういうことだ。わかってくれ」
殿下はそう言って、アナ様の手を振りほどいた。
そして、お嬢様の元へと向かう。
それが何を示しているのかは明白だった。
アナ様はそれでも、現実を受け入れられないのか、固まっている。
冷たく、緊張した空気がその場を支配していた。
「う、そ」
「残念ながら、これが本当のことだ。僕はエレナリアのことが好きなんだ。いや、愛している」
「殿下、やめてくださいまし。わたくしが恨みをかうことになるんですのよ? それに、わたくしは何度もお断りして……」
「そんなの、そんなのって」
最早日常と化しているやり取りを始め出す二人。
その隣で、アナ様は頭を抱え出した。
目は虚で、戯言のように何かをブツブツと呟き出す。
これは、危ないかもしれない。
私は何度かこういう風になる人間を見てきた。
その経験上、その人間は大抵突拍子もないことをしでかす。
でも、まだ今なら。
……いや、でも、どうすればいいのか私にはわからない。
愛や恋だのといった感情に振り回されてはいけない。
お嬢様と触れあうようになってからはマシになったとはいえ、そういった過去の掟が私を鈍感にさせているのだ。
何をすればいいのか、本当にさっぱりだ。
お嬢様が声をかければ、逆上するだろうし、殿下が声をかけるのも返って彼女を傷つける。
「ねぇ、アナさん。戻ろう? ここは確かに危険だわ」
「とりあえず、行かないと。辛いのはわかるけどさ」
そうこうしているうちに、彼女の仲間たちがアナ様に声をかけ始めた。
これで素直に頷いてくれれば、問題もないのだけど、そうもいかないだろう。
まるで、周囲の言葉など耳に入らないかのように、頭を振っていた。
「うそよ、嘘。こんなのって、ない」
「アナさん、大丈夫?」
大丈夫なわけがない。
恋は時に人を変えるというが、まさかここまでとは。
そして、時は訪れた。
アナ様は突如、弾かれたように立ち上がると、濁った瞳でお嬢様を睨みつけた。
これまでにない迫力で。
「許せない。絶対に、絶対に!」
そう叫ぶと、アナ様は何を思ったか森の奥へと駆け出した。
友人が止めようとして伸ばした手も虚しく空を切り、森の第二層の闇に飲み込まれてしまう。
向かう先は第三層であることは、方角から考えて間違いなかった。
まさに、自殺行為である。
このままでは彼女は死んでしまう。
「アナさん!」
アナ様と同じ班の女生徒は必死に叫ぶものの、彼女が戻ってくる気配はない。
予想はしていたが、想像以上に悪いことになった。
「このまま、では」
いけない。
狼狽する同じ班の生徒たちは、慌ててその後を追おうとする。
でも、そうなればこの子たちがアナ様の二の舞になってしまうだろう。
そこで、彼らを引き止めたのはお嬢様だった。
「待って、あなたたち」
「エレナリア様! でも、このままじゃアナさんは」
「わかっているわ。でも、あなたたちがいったところで、死んでしまうだけ。行くだけ無駄よ」
「じゃあ、彼女を見殺しにしろと?」
「そうは言ってないわ。代わりに、わたくしが行きましょう」
その発言に驚いたのは彼らのみではなかった。
私を含め、全員が唖然とする。
お嬢様は今、「わたくし」といった。
それはまさか、私は連れて行かないということか。
そんなの、許されるはずがない。
いや、私が許せない。
第三層はあくまでも、お嬢様が「生きて帰れる」レベルだ。
アナ様を探しながら進むなど、到底無理だ。
死んでしまう可能性が高すぎる。
私は黙っていられずに、声を上げた。
「お嬢様、危険すぎます」
なんとしてでも、止めなくてはならない。
なんなら、私が一人で行ったっていい。
お嬢様をあんなところに行かせるなんて、もってのほかだ。
それにはアックス様、殿下、騎士たちも懸念を示す。
「駄目だ。君だけなんて危険すぎる。エレナリア、考え直してくれ」
「そうですよ、エレナリア様。こんなの自分も間違ってると思います」
「殿下も侍女も心配してるぞ。流石にそれを許すわけには、ねぇ?」
でも、お嬢様は頑として譲る様子はなかった。
皆様の言葉にも首を振り、決して頷こうとしない。
私はその理由をなんとなく、察することができた。
「気にしていらっしゃるのですか。自分のせいだと」
「ええ。そうよ。だから、他の人を巻き込むわけにはいかない」
「そんなことを言えば、僕も同罪だろう? 責任は君だけにあるものではない。ならば、僕も行くべきじゃないか!」
「ですが、殿下は国の未来を担うお方ですわ。ついてこられるわけには参りません。私の侍女を使って、お戻りくださいませ。そして、ローナ先生にこのことをお伝えください」
「俺たちは足手まといかな?」
「アックス様。申し訳ないけど、その通りよ」
お嬢様は本気だ、この場の誰もがそう思った。
皆が黙り込んでしまうと、お嬢様はこちらに背を向けた。
早く行かなくては手遅れになってしまう。
私もそれを理解していたから、心を決めた。
意地でも、お嬢様についていくことを。
「申し訳ありませんが、私も同行させていただきます」
「リオ、でも殿下が」
「殿下の技量であれば、戻ることはさして危険ではございません。他の者もおりますし、何も心配することはございません」
そうでしょう? と私は殿下にも同意を求めた。
殿下は一瞬戸惑ったように、視線を彷徨わせたが、すぐに私の意図を理解して、大きく頷く。
この場で私の強さを知っているのは殿下とお嬢様だけだ。
騎士たちにしても、ローナ先生に勝ったことくらいは知っている。
ならば、私がお嬢様に同行すれば、少しでも安全性が上がるのは言うまでもない。
殿下はそれに少し安堵した表情を見せて、
「そうだな。僕たちもローナ先生とともにすぐに駆けつける」
と了承してくれた。
殿下が認めたからには、お嬢様もそれに従うしかない。
お嬢様は渋々ながらも、時間がないこともあり、頷いてくれた。
ただ一つ。
私にも無理をするな、と言いつけて。
こんな私のこともお嬢様はよく心配してくれる。
私は当然頷いて、お嬢様と共に森の奥へと駆け出した。
「さて、何処かしらね」
しばらくして、第三層。
ようやくたどり着いたそこは、ほとんど真っ暗だった。
持ってきた魔法の施されたランプであたりを照らし出しながら、私たちは慎重に進む。
ここまで、アナ様の気配はつかめていない。
魔物の姿も妙に少なく、交戦している様子もなかった。
もうそろそろ見つかってもいいはずだが、アナ様は何処へ行ってしまったのだろう。
私は鋭く気配を尖らせながら、お嬢様の周囲を警戒した。
ここは第三層だし、何が起こるかはわからない。
それに、ここへ来て魔物の姿が急に減ったのも気がかりだ。
今の状況で警戒しておくに越したことはなかった。
お嬢様はそんな私に、口を酸っぱくして言った。
「いいこと。あなたは私のこととなると、いつも無茶をする。だから、いざとなったら足手纏いになる私を置いて逃げるのよ」
「……お気持ちだけ、受け取っておきます」
「さっきからそればっかり」
「私にはお嬢様を見捨てることなど、出来ようはずもございませんから」
私はお嬢様に色んなことを教わった。
だから、その恩は命を張ってでも返さなくてはならない。
私はお嬢様に仕えた時からずっとそう、心に決めていたのだ。
私はお嬢様に対して、償わなくてはならないこともある。
例え、お嬢様がそれを知らなくても、私にはどうしようもなくお嬢様を守らなければならない理由があった。
私がお嬢様と出会った頃のことを思い出しながら、自嘲していると、ふと何処かで悲鳴が上がった気がした。
多分、アナ様のものである。
ここからそう遠くはないはずだ。
「お嬢様、こっちです。離れないでくださいね」
「わかってる」
木々の根を踏み越え、伸びる枝の下をくぐる。
とにかく先へ先へと急ぐ。
途中、きちんとお嬢様が付いてきていることを確かめながら、悲鳴の方角をたどった。
これで死なれていたら、お嬢様も失望されるに違いない。
もう、すぐそことなったところで、私は別の気配を捉えた。
ここまできて、ようやく気づけるレベル。
大きく、禍々しい、邪悪な魔力が空気に纏わり付いている。
これは。
「アナ様?」
私がそちらに気取られていると、お嬢様が声を上げた。
それで、ハッと顔を上げる。
視線の先ではアナ様が、肩から血を流し、木の根元でうずくまっているのを見つけた。
お嬢様は私を追い抜かし、アナ様の元へ駆けつけた。
そして、その肩を揺する。
「アナ様、しっかりなさって」
「エレナリア、様? どうして、あなたが。私……あなたに」
「そんなことはどうでもいいの。それより、あなたが早く逃げなきゃ。血の匂いは魔物を引き寄せる。今のままでは危ないわ」
お嬢様はそう言って、アナ様を立たせようとする。
アナ様は混乱している様子を見せながらも、幸いにしてまだ意識はあるようだった。
怪我もよく見てみれば、すぐに治療すれば治る程度。
ただ、出血が激しいので、貧血気味で足元がふらついている。
お嬢様はアナ様に肩を貸し、一緒に立ち上がった。
だが、私はあることに気がついて、腰から武器を抜く。
「まさ、か」
不意に私の背筋をなぞったのは気味の悪い、ゾッとするような感覚だった。
私はその気配が間近にありながらも、姿が見えないことに警戒心をますます高める。
なんだろう。
ここには長くいてはいけないと本能が警鐘を鳴らしている。
早く行きましょう。私が声をかけようとした時だった。
……視界の端に、大きな黒い影が映った。
「っ! お嬢様っ!」
私が呼びかけるのと、地面を蹴るのは同時だった。
刹那、飛び出した私と目を見開くお嬢様の視線が交わる。
その背後には赤い瞳がヌッと現れ、その鋭い「爪」を大きく振るっていた。
間に合わない。
私はゆっくりと動いて見える視界の中で歯噛みした。
決して、私が遅いわけではない。
これでも、私はどんな騎士よりも早い自信がある。
けれど、相手は「人ならざらぬもの」。
体のスペックの根本がまるで違う。
それに、お嬢様からの距離も相手の方が近い。
完全に油断していた。
もちろん、理由は多くあるが、一番はやはり私の気持ちの持ち方に問題があった。
最近は平和だったせいか、気が緩み切っていたのだ。
いつもなら最初に危ない気配を感じ取った瞬間に、引き返そうと提案していたはずだ。
なのに、私はお嬢様を止められなかった。
こんなのは、許されることではない。
今まさにお嬢様の命がかかっているのだから。
「くうっ!」
私は一か八か、腰にあったナイフを相手の腕をめがけて投げた。
今更、苦し紛れに放ったものなので、威力はあまりないが攻撃をそらすことくらいは出来るだろう。
あとは、お嬢様の動きに期待するしかないが、果たして。
ズドンッ!
私がもうすぐそこまで迫ったところで、爪は振り下ろされた。
信じられないほどの威力に地面が震え、土が宙を舞う。
私は気がはやる中、魔法で強制的に舞い上がる土をを振り払った。
そして、その先にあった光景は。
「リ……オ」
「お嬢様っ」
背中を大きく切り裂かれて倒れこむお嬢様と、その背後で二撃目を加えようと、腕を振り上げる大きな熊の魔物の姿だった。