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私は人形悪役令嬢の侍女です。

今回、残酷な描写を含みます。

苦手な方はご注意下さい。

タカタカとリズムよく鳴る馬の蹄の音と、カラカラと回る車輪の音が、静かな馬車の中で反響する。

僕はゆっくりと進んで行く馬車の中で、深くため息を吐いた。

そのため息が同乗者にとって、気分がいいものではないことは知っている。

しかしながら、窓の外に広がる黄金の空を眺めていると、どうにも悲しい気分になってしまうのだ。

果てしなく広がる草原と黄昏時の空は、何処までも美しい。

でも、何もない。もう、何もないなのだ。

さっきから、何も考えないようにしているのに、思うのはそればかり。

郷愁が空っぽな胸を蝕み、虚無感が僕を僕足らしめる。

けれど、いい加減に、自分があまりに女々しすぎて嫌になってしまった。

僕はそんな気分をどうにか忘れようと、気晴らしに同乗者に向かって声をかけた。


「あんただろ。騎士さんに、僕のこと話したのは」


口から出てきたのは十年間ひた隠していた、粗野な言葉だった。

けれど、少し苛立ちが混じる今の気分には、それがとても馴染む。

僕がじっと目を細めて、彼を睨むと、彼はそんな僕とは対照的にカラカラと笑った。

まるで、僕の心を見透かすかのような、そして、揶揄うかのような。

そんな笑い声に、僕は小さく舌打ちをする。

本来なら許されないことでも、彼は私の態度を咎めたりなどしなかった。

代わりに僕の心にぐさりと刺さるような返答をする。


「必要だと思ったんだよ。君が君を捨てないために」


それはどういうことだろうか。

そんなことは聞かずともわかった。

彼は……アックス様は僕があの騎士シャインに絆されることを期待していたに違いない。

シャイン様は純粋で、素直な、とても良い人だから。

彼なら捻くれ者のアックス様には言えない、想いをきちんと伝えてくれると、そう思ったのだろう。

現に僕の心の中で今尚、彼の言葉は残っている。

生きて戻れ、という願いを含むあの言葉が。

でも、それが叶わないのは誰よりも明白に、僕たちが知っていた。

だから、皮肉を返すのだ。

もう、未練など残さないと強がるために。


「生憎、そう器用じゃないんでね。無理な相談だ」


僕は己の手の中を覗いた。

この手にはもう、お嬢様の手はない。

けれど、代わりに一つの約束が残っていた。

不器用なあの人が残してくれた、最後の約束だ。

僕はそれを未だに握り潰せずにいる。

それが、何よりも僕の心の中に矛盾を生んでいた。






話は少しばかり遡る。

私とお嬢様は卒業式が無事に終わり、永遠の騎士の儀式も終えて、午後の春の暖かな陽だまりの中、二人で対峙していた。

私の手には少しばかりの荷物が入ったカバン。

背後には質素ながらも、きちんと整備されているであろう馬車が止まっていた。

まだ少し肌寒い空気に、馬は時折ブルルと震えたが、厚めに着込んだ私たちはそれが気にならない。

それよりも私たちの心を占めるのは、別れが迫る予感だ。

私は今、旅立とうとしている。

王太子殿下やクレア様を筆頭とするお嬢様のご友人方、同室のアリアには挨拶は済ませ、後は馬車に乗り込むだけ。

お嬢様の目の前から去るだけだった。

なのに、その最後の段階がどうしても踏み出せずにいる。

私とお嬢様は暫しの間、互いに見つめあっていた。

何か言わなければ、と思うのに中々に言葉は出てこない。

これで、本当に最後の最後。

そう思うと、絶対に後悔すると決まっているのに、湧き上がるのは悲しみばかりで、声に出ない。

ともすれば、泣き出してしまいそうだった。

泣いてはいけない。ただ、お嬢様の幸せを祝福さえすれば良い。

自分にそう言い聞かせていると、先に口を開いたのはお嬢様の方だった。


「行って、しまうのね」


別れのことは随分前から覚悟していた。

なのに、その言葉がお嬢様の口から零れた時、胸にずっしりと重くのしかかってきた。

ああ、これで最後なのだ。という実感が、より迫ってくる。

お嬢様はとても寂しげに笑っていた。

先程泣かない決意を再度固めたせいか、少し声が震えていたものの、涙は流さない。

でも、その笑顔は殊更に私の心を締め付けた。

私は声が出ないながらも、頷く。

それが今出来る精一杯のことだった。


「あなたは」


お嬢様は何かを言いかけて、一度止めた。

何かを飲み込むかのように、一間をおいて、もう一度仕切り直す。

お嬢様は震えを抑え込むかのように、そっと私に尋ねた。


「あなたは、幸せだった?」

「……え?」


私は自分でも意識しないうちに、随分と間の抜けた声を上げてしまった。

一瞬、何を問われたのかわからなくなったのだ。

お嬢様はそんな私の様子を見てか、言葉を続けた。


「貴女と過ごした八年間。何も、楽しいことばかりじゃなかったわ。むしろ、悲しいこともたくさんあった。家のこともそうだし、命を狙われることもあった。それから、喧嘩もしたわね。つまらないことで意地を張り合って。でも、私は幸せだったわ」


確かに、私たちの前には苦難が多かった。

まるで、美しく、優しいお嬢様のことを神が妬んだかのように、お嬢様の前に続く道は険しかった。

私は時にそれを悔しく思ったものだが、そうでなくては私たちは出会えなかったし、今こうして対峙することもなかっただろう。

喧嘩だって、自分たちの関係を見つめ直せたいい機会だった。

それなのに、お嬢様は至極当然のことを、少し不安げに尋ねてきた。


「ねぇ。もう一度、聞くわ。貴女も私といて、幸せだった? ほんの少しでも、そう思ってくれた?」


お嬢様のオレンジ色の瞳は水面に映る夕日のように揺れていた。

私はそんな瞳に呑まれそうになりながらも、大きく息を吐き出す。

私の深いため息に、お嬢様の肩は微かにビクリと震えた。


「……そんなの、今更愚問です」


今まで、全く出なかった言葉は、ここにきて金縛りが解けたかのように、するりと流れ出た。

その問いに対しては、答えるまでもなかった。

だって、私は常々お嬢様にそう伝え続けてきたのだし、今更疑われたくなどない。

何も難しくはない。簡単なことだった。

私がいつも言い続けてきたことを言えばいいだけなのだから。


「もちろん。幸せでした。お嬢様のそばにいる、ただそれだけで」


私は笑った。この八年間、私は本当に幸福だったのだ。

それが終わりのある平穏だとわかっていても、私の手の届くところが限りあるのだとしても、間違いなく。

それだけは偽らざる本心で、私にとっての八年間の全てだった。

笑うと、目の端からずっと我慢していた涙が伝った。

お嬢様も私に笑い返して、同じように涙する。

お嬢様はあの暖かい手で私の手をギュッと握りしめた。


「ありがとう。安心したわ。馬鹿なことを聞いて、ごめんなさい」

「本当です。いくらお嬢様でも、それだけは疑って欲しくはありませんでしたよ。それに、別れ際に問うことじゃありません」

「そう言われれば、そうね」


もしここで私が不幸だと言おうものなら、お嬢様はきっと一生立ち直れなくなっていただろう。

何しろ、それを挽回するチャンスなど、このタイミングではほとんど無いに等しいのだから。

もちろん、万が一にも、そんな回答をすることなど、あり得ないが。

それを指摘してみれば、お嬢様は可笑しそうにクスクスと笑った。

お嬢様の明るい笑顔はこの春の陽射しのように、本当に心が温かくなる。

こういう時こそ、私は幸せになれるのだ。

私のしてきたことは決して無駄なことではなかったと、そう思えるから。


「リオ」

「はい」

「今まで本当にありがとう」


お嬢様は私を抱きしめた。

視界がお嬢様の髪色である、一面の赤に染まる。

それは、この八年間、私がずっと追いかけてきた色だった。

情熱的で、鮮やかで。悪魔的で、華やかで。

いつだったか、私を取り囲んだ炎と血の色だったそれは、今や何よりも愛すべきものだった。

あの日の悪夢のことは消えない。

けれど、お嬢様は私に優しい世界を与えてくれた。

こんなにも美しいものがあるのだと、残酷なものばかりではないのだと、この人は教えてくれたのだ。

お嬢様は凛と響く声で耳元で囁いた。


「私ね、あなたがいてくれて、本当に良かった。あなたが私を暗闇の中から連れ出してくれた。諦めていた人生に光をさしてくれたの。あなたがいなかったら、私はきっとここにはいなかったわ」


それは私のセリフです。

そう言おうとしたのに、涙に飲まれて、声が出なかった。

代わりに私もお嬢様を抱きしめ返して、それに応える。

いつもならそうはしまいと堪えてきたけれど、限界だったのだ。

初めて、自分の意思で抱きしめ返した彼女の身体は、思っていたよりも小さく、力を込めれば壊してしまいそうでもあった。


「今、私は幸せよ。あなたのおかげで、幸せになれた。本当に、本当にありがとう。あなたのこと、大好きよ。ずっと。永遠に」

「僕もです。お嬢様」


思わず、口をついたのは素の一人称。

けれど、お嬢様は嫌がる様子もなく、むしろ嬉しそうに私の肩へと頰を寄せた。

私はその無防備な姿にどきりと胸を打たれる。

全く、彼女は侍女たる私までも誑かしてしまう、傾国の美女であった。


「今まで、お世話になりました」


私はもう一度、強くお嬢様を抱きしめると、彼女の頭のてっぺんに唇を落とした。

それは、この国での別れの挨拶を意味する。

彼女が永遠に幸せでいられるようにと、隠し事を押しつけるように、私は唇を寄せた。

そして、お嬢様を自分の身体から離す。

これ以上触れていると、もう離れられなくなってしまいそうだった。

私は自制するように、空いていた手にカバンを握った。


「では、そろそろ行かなくては」


それが馬車に乗り込む合図だった。

お嬢様は、さよならを言おうとはしない。

ただ、旅立とうとする私を優しく、見つめていた。

これがきっと、今の私たちの別れ方なのだ。

これが、依存という鎖から解き放たれた、私たちの在り方。

これが、自由への一歩になるのだ。

私はお嬢様に背を向け、馬車にカバンを積み込むと、自身も段差へと足をかける。

これで、終わりだ。

私と彼女が共に道を歩くのは。

そして、始まるのだ。

彼女がたくさんの人に愛されて生きる道が。


そう。その、はずだった。


「待って」


お嬢様は私を呼び止めた。

私はやっぱり彼女の声には逆らえなくて、反射的に振り向いてしまう。

すると、お嬢様は悪戯っぽく笑って、質問を投げかけて来た。

今このタイミングでどうして尋ねるのかと、疑問に思うほどの在り来たりな質問を。


「ねぇ、あなたがルルーシュ家に来たのは八年前だったわよね。そして、私付きの侍女になったのが七年前。違わない?」

「はい、そうですが?」


私は戸惑いながらも、それに肯定を返した。

嘘ばかり重ねて来た私だが、ここで嘘をつく意味は皆無である。

だが、お嬢様はそんな私の答えに満足げに頷いた。

きっと、そう言わせるのが狙いだったのだろう。

次の瞬間、お嬢様は衝撃的な言葉を放った。


「ならなぜ。我が家での騒動の前、あなたはこう言ったのかしら。『私の心は十年前から貴女のもの』と。おかしいわよね。あの場面であなたが間違えたとも思えないもの」

「それは……」


私はグッと言葉に詰まった。

あの場面ではお嬢様を説得するのに、私も必死だったのだ。

それに、嘘をつき続けることにも罪悪感を覚えていた。

だから、その中でホロリと漏れた真実に、気がつく余裕などなかった。

でも、あの時のことは私もしっかりと覚えているのだから、尚更タチが悪い。

こうして反応してしまった以上、誤魔化すこともできないだろう。

現に、お嬢様の目は確信を持って、輝いていた。


「やはり、そうだったのね。私とあなたはそれ以前に会っていた。これで、確信が持てたわ」

「お嬢様は私は!」


私は必死に弁明しようとした。

決して、騙すつもりはなかったのだと。

これが、適切な距離を保つ為には必要だったのだと。

しかし、そう口を開こうとして、私は歩み寄って来たお嬢様に、口の前で人差し指を立てられた。

まるで、これ以上を話す必要はないと言わんばかりに。


「弁明は結構よ」

「ですがっ……」

「その代わり。次に会った時にあの少年が誰だったのか、教えて。あの夜、私を助けてくれた彼に改めてお礼を言いたいの」


私は目を見開いた。

お嬢様は間違いなく、答えを知っている。

あの夜、お嬢様をウェンデブルから連れ出したのは私なのだと。

しかし、お嬢様は次の約束と称して、私に告白させなかった。

もうありもしない、次。

それにお嬢様でさえも縋った。


「お願いよ。あなたに次がないことは私もわかっているわ。けれど、あなたが最後まで生きようと足掻けるように、どうか約束させてちょうだい。私もほんの少しの可能性を、奇跡を、信じたいから」


そんなに私は生きるのを諦めているように見えるのだろうか。

いや、実際にはそうだ。

私は死ぬしかないし、死ぬことが最善だと未だに信じている。

そのことが、周りを不安にさせているのだろう。

お嬢様は懇願するように、言葉を続けた。


「あなたは私に鎖をかけないようにしていた。依存しあっていた私たちの関係をどうにか、解こうとしていた。けれど、私から鎖をかけようとするなら、あなただって拒めないでしょう? だって、私はあなたの我儘な主人なのだから」


その言葉の響きは甘美だった。

決して、溺れてはいけないと己の理性が叫ぶ。

けれど、無理だった。

私は彼女の侍女で、心の騎士だった。

つまりは、彼女のもので、彼女の思い通りなのだ。

気がつけば、私は頷いていた。

約束という名の見えない鎖を手にしてしまっていた。


「わかりましたよ。お嬢様」


困ったように笑う自分の本心は、なんなのか。

それは、己に言い訳して、鎖を手にした時点で明らかだった。

私は結局のところ、お嬢様に降参するしかなかったのだ。

私自身も、お嬢様にもう一度会いたいとは思わずいられなかった。

そして、その時は隠して来たことも全て話そうと思えていた。

その結果、この八年間の関係が崩れてしまったとしても、それは仕方のないことだし、初めから破綻していただけのこと。

おそらく、次なんてない。

けれども、お嬢様の願いなら、叶えたいとただ純粋に思った。


「じゃあ、それまではさよならね」

「ええ。さよならです」


私は馬車に乗り込んだ。

すると、馬車はゆっくりと動き出す。

お嬢様の姿が遠くなっていく。

私はどんな顔をすればいいのかわからなかったけれど、お嬢様は笑っていた。

私とお嬢様は互いの姿が見えなくなるまで、いつまでも手を振りあった。

約束はしていても、最後の別れになってしまうかもしれないのだから。

後悔なんて残さないために、精一杯手を振り続けた。






僕とお嬢様の別れは、僕の瞼の裏を走馬灯のように駆け抜けた。

僕がゆっくりと目を開けると、そこには大きな屋敷が佇んでいる。

森の中にひっそりとあるそれは、まるで人気がなかった。

壁には蔓が張り付き、屋根は壊れ、窓は割れている。

しかし、ここが僕の終焉を迎える場所だった。


「ハッ、相変わらず陰気な場所だな」


ああ、変わらない。

十年前、僕の人生を変えてしまったこの場所は、まるで変わってなかった。

きっと、普通の人にはわからないだろうが、僕にはハッキリとわかるのだ。

この場所には死と邪悪が満ちている、と。

もう二度とそんな空気は吸うまいと思っていたが、全く皮肉なものである。


僕が禍々しいそれをジッと睨みつけていると、不意にギイという軋む音がした。

おそらく、迎えであろうと思って、扉に目をやれば、そこには一人の男が立っていた。

不揃いの茶色い髪に、薄汚れた肌。ギラギラと欲望に血走る目。

十年ぶりに見る彼だったが、少し年をとった以外、何も変わらなかった。

かつて彼は、僕の元についていながら、よく命令違反を犯しては、人を散々嬲り殺していたものだ。

当時は果たして、規律に厳しい組織でやっていけるものかと思ったが、こうして見る限りでは上手くやっていたらしい。

よほど僕が舐められていた、ということだろうか。

僕はフッと笑みをこぼすと、彼に声をかけた。


「よぉ。相変わらず、いい顔してやがんな」

「……あんた、銀狼かよ?」


彼は僕の皮肉をさらっと無視すると、疑わしげに聞いて来た。

まぁ、無理もない。

当時青年だった彼ならまだしも、僕は子供だった。

十年前と似たような少年の格好はしているし、銀の髪も健在だが、成長は著しい。

僕自身も変わったという自負はあったので、衝撃的だったのだろう。

僕はニヤリと笑うと、己の腰に手を伸ばした。


「ああ、なんなら試してみるか?」


そこからは一瞬だった。

僕はタガーを引き抜くと、彼に肉薄し、その首元に刃を当てた。

彼は反応すら出来ずに、呆然と固まっている。

一対多ならともかく、一対一ならこんなもんだった。

ましてや、彼はスペードの中でも下位に属していたので大したことはない。

もちろん、衰弱による変化がないわけではない。

本当ならば、無傷で済ませる予定だったのに、彼の首筋には一筋の血が流れていた。

どうやら、少し手元が狂い、薄く切ってしまったらしい。

慣れ親しんでいたはずのタガーは今や、ただの鉄屑になってしまったかのように重く感じられた。

本当に嘆かわしい限りである。


「さっ、さっさと案内しろよ」


僕は自身のことに落胆しながらも、彼に案内を促した。

ここ数年は洗練された案内人ばかり見て来たせいか、彼の気の利かなさには辟易してしまう。

でも、そんなことを気にしていても仕方がないので、動作を再開した彼を見て、僕もタガーを収めた。

そうして、屋敷の中へと入っていく。


屋敷の中は魔法がかかっているせいか、外見とは全く違って、明るかった。

もちろん、今は入り口に近いところにいるので、位の低い粗野な者が多いせいか、清潔とはとても言えないが。

それでも、今にも崩れそうなものではなく、建物としてはしっかりしていた。

あくまでも外見はカモフラージュ。

そして、中にいる者が承認を出さなければ、中も見た目通りの汚い部屋のままだそうだ。

僕はあらかじめ承認されているおかげで、この屋敷の汚い姿を見たことはないが、きっとすぐ引き返したくなるようなものなのだろう。

まぁ、その仕組みさえ知って仕舞えば、中に入るのはなんてことないので、私も「彼ら」に承認を出す。

奴隷として売り出す者や実験体を運び込む為にも、承認はイメージだけで簡単に行えるので、怪しまれることもない。

では、なぜ今まで誰も入れなかったのかというと、ここから出るときは仲間になるか、死ぬか、満足に口のきけない奴隷になるかしかないので、情報がある程度統制されていたせいだ。

仲間になるのも何かしらを囮として取られるか、幼少期に連れ去られ、洗脳を受けて来た者ばかりなので、中々に厳しい。

そんな中で、僕は例外中の例外とも言えた。


僕とかつて部下だった男は、屋敷の奥へと進む。

この屋敷には地下があり、そこには地上の屋敷よりも広い施設があった。

地上は主に役職のない、雑用係ばかりが住むが、地下には実験施設だったり、役職のある者の生活スペースがある。

役職は全部で四つで、裏取引を得意とするダイヤ、兵器研究を得意とするクローバー、僕の属していた戦闘と諜報を得意とするスペード。そして、それら全てを束ねる幹部組織ハートがある。

僕が今連れられているのは、おそらく施設の最深部にあるハートの元だ。

きっと、ロエル卿は最高傑作たる僕が戻って来たことを直々に確かめたいはず。

それに、今度こそ逃げ出さないように首輪をつけようとするだろう。


「おい、着いたぞ」


そうこうしているうちに、僕はある部屋の前に立たされていた。

その剣に二匹の蛇が絡みついた紋章が刻まれた扉には見覚えがある。

十年以上も前、実験が成功した後に、忠誠を誓えと命じられた場所だ。

僕は大きく息を吐き出すと、その扉を開けた。

そして、ズカズカと遠慮も知らずに入り込む。

すると、中には豪奢な革張りの椅子に腰掛けた男と、側に控える彼の忠臣がいた。

まず、目に入った椅子は何故だかルルーシュ卿よりも趣味が良くて、無性にイラッとしてしまった。

次に視界に入った男は細身で、中年でありながら、整った顔立ちをしていた。

目に宿る冷たい光さえなければ、きっとさぞかし女性にモテただろう。

これにも、どうしてかイラッとしてしまう。

ロエル卿は肘掛けに肘をつき、手を組み合わせると、僕を見て笑った。

口元だけを歪める、歪な笑顔。

これを何度、想像の中で嫌って来たかわからない。

それなのに、彼は穏やかな声で僕を歓迎した。


「さて。十年ぶりだね。銀狼。よく、帰って来てくれた」

「本当は死んでも戻ってきたくはなかったがな。てめぇら、狂信者には吐き気がすんだよ」

「ふふっ。相変わらず、威勢がいいことだ。そろそろ修理が必要だと思っていたのだがね。思っていたより、よく動く」


彼は僕の挑発には全く乗らなかった。

むしろ、犬が何か吠えている程度にしかとっていないのか、始めに僕を一瞥して以降、忠臣にばかり話しかけ、こちらを見向きもしない。

まさしく、僕は彼にとって、モノに過ぎないのだろう。

だって、そうでなくては「修理」なんて言葉は人間には使わない。

彼にとって、僕は多少反抗すれど、最後には抗えぬのだから、その程度のモノでしかないのだろう。

ならば、これ以上長引かせても、仕方がない。

僕はさっさと終わらせてしまおうと、タガーを抜き放とうとした。

その時だった。


「ああ。そうそう。第二回魔導人形開発実験だがね」


ロエル卿の口から信じられない言葉が飛び出た。

僕の手も反射的に、ピタリと止まってしまう。

今、この男はなんと言ったのか。

あの忌まわしき魔導人形開発実験の第二回と言わなかったか。

固まってしまった僕を彼は愉快そうに眺めていた。


「実に残念な結果に終わってしまった。第一回の資料は全て燃やし尽くされてしまったからね。一からの手探り状態。今回は二倍の被験者を用意したけれど、残念なことに駄目だった」


二倍。あの悪夢の二倍が死んだというのだろうか。

まさか、僕が離れても止めなかったのは、それを行う為だったとでも?

信じられない。こいつらこそ、人とは思えなかった。

頭の奥が熱くなって、思わず理性を失ってしまいそうになる。

この場をあの日と同じ、色に染めてしまいたくなる。


「だから、君が帰ってきてくれて嬉しい。君は重要なサンプルだ。第三回こそ、成功するだろう」


赤。赤だ。

この醜く笑う男を、血で赤く染めてしまいたい。

炎で全て、燃やし尽くしてしまいたい。

それが、僕の同志への弔いとなるだろう。

そうだ、きっとそれがいい。


僕は再びタガーに右手を伸ばす。

そして、それをロエル卿に向かって。


「ざけんな」


罵倒と共に、投げつけた。

しかし、それはそばに控えていた忠臣によって、弾かれる。

タガーは大きく飛ばされ、離れたところに落ちた。

彼の部下は僕を鋭く睨みつけていた。

今持てる全てを出し切って、繰り出したそれが見切られてしまったのなら、最早僕になすすべはない。

そう。「僕には」だが。


「ざけんなよ。てめぇ、人をなんだと思ってやがる」

「はは。人でないものが人を語るか」

「ああ。僕は人じゃねぇだろうさ。そりゃ、承知の上だよ」

「じゃあ、お前は一体なんだ。何を以って、人を語る?」


ロエル卿は愉しげだった。

先ほど命を狙われたというのに、戯言を宣う。

この男は十年前から、こういう問答が好きだった。

彼の身は絶対的に守られているから。

今も僕の全方位に敵が潜んでいる。

でも、彼は思い違いをしていた。

彼はこんな下らないことに時間を費やしている暇などないのだ。

だって、囲まれているのは僕だけじゃない。


「じゃあ、教えてやるよ」


僕はパチン、と大きく指を鳴らした。

その瞬間、炎が周囲を燃やし尽くす。

潜んでいた敵はいきなりの火事に、慌てたように後退していた。

僕たちを中心とした炎の輪の中には、たった四人。

いや、一人は事切れて、三人になっていた。

事切れたのは雷に貫かれて胸に穴を開けた、ロエル卿の忠臣。

輪の中に立つのは、ロエル卿と私、そしてアックス様だった。

ロエル卿は突然現れたアックス様と、事切れた部下に呆然としている。

私はそんな彼をクスリと笑った。


「一体どういうことだ……」

「私の影の力。あなたも完全に理解していなかったようですね。私の影の力は人の存在を薄くすることが出来る。だから、誰もアックス様には、そして今から突入してくる王国騎士達には気づかなかったのです」

「なっ……王国騎士だと?」

「ああ。だから、あなたもここで死ぬんだ」


ロエル卿に逃げ場はない。

この火の輪の中には誰も入ってこれないし、彼自身は知略に長けていただけであって、戦闘能力は今の私にも劣る。

彼にとっては、絶体絶命と言うほかなかった。

だが、私は彼に言っておかなくてはならないことがある。

私は影の力で隠していた給仕服の裾を摘むと、微笑んだ。


「先ほど、あなたは私は一体なんだとお聞きしましたよね」

「なにを……今更」

「冥土の土産に、お答えいたしましょう。……私は」


今までで一番綺麗なお辞儀だったと思う。

きっと、一つ一つの動作に厳しい侍女長だって超えているかもしれない。

私はそれを自覚しながら、そっと頭を下げたままでいた。


「私は人形。けれども、悪役令嬢(エレナリア・ルルーシュ)の侍女です」


次の瞬間、雷光が迸った。

それは私の胸とロエル卿の心臓を同時に穿つ。

私は膝をつき、血を吐き出した。

これは胸を打たれたせいなのか、影の力を使いすぎたせいなのか。

わからない。けれど、不思議と気分は悪くなかった。

視界は未だに明瞭。

一方、全身に力が入らない。

かと思えば、まだ触覚は生きているのか、炎と己の血が暖かだった。

視界にアックス様の姿が映る。

彼は今までに見たことがないほど、冷徹な表情をしていた。

もしかしたら、ロエル卿ですら今の彼の冷たさには敵わないかもしれない。

笑って欲しいのに。

私はそんなこと思って、声を振り絞った。


「まるで、実験の日のようです」


彼はそれでも、笑わない。

でも、言ってから自分でも思う。

今のは笑えない冗談だ、と。

今日はあの日とは違う。

私は生き延びることはしないし、看取ってくれる人がいる。

包まれている同じ赤も優しい赤があることを知ってる。

今日はやっぱり、あの日ではないのだ。


「後悔は、ないね」


アックス様は静かな声でそれを問うた。

感情を含まないそれに、寂しくなりながらも、私は頷く。

彼が笑えないのなら、私が笑顔でと思って、出来るだけ笑った。

すると、彼は途端に顔をくしゃくしゃにした。

ただひたすら悲しそうに、それでも笑う。


「嘘つき」


それは、認めるしかない。

最期の最後まで私は嘘つきだった。

もう何もかもが遅すぎる今では、もうちょっと素直でもよかったかもしれない、と思う。

でも、ここまできたら、彼の前では最期まで嘘つきでいよう。

私は毎秒重くなっていく唇と瞼を、なんとか動かした。


「ありがとう、ございました」

「……何がだよ」


アックス様が私の側に崩れ落ちる。

それを最期に、私の視界は閉ざされた。


意識は遠のいていく。

悲痛な叫びが遠くで聞こえる。

炎が熱を増していく。


死はもうすぐそこまで迫っていた。

その中で、そうだな、と私は一人つぶやいた。

唇は動かないけど、心の中で決心する。

最後までずっとつき続けていた、嘘をここで一つ白状しようと思うのだ。

お嬢様は決して言えなかった、たった一言。

簡単だったけど、許されなかった一言。

私は、最期に言おうと思う。


私は、いや僕は。

お嬢様。貴女の事を、愛している。


次回、エピローグです。

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