悪役令嬢の心の騎士
今回は残酷な描写を含みますので、苦手な方はご注意下さい。
「ううっ……」
「さて、貴女はどう出るのでしょうね?」
そう言って、お嬢様は嗜虐的な笑みを浮かべた。
私はそんなお嬢様を前に、唸り、頭を抱えることしか出来ない。
やっぱり、お嬢様にチェスで勝つのは夢のまた夢らしい。
私は盤上に並べられた駒を眺めながら、途方に暮れていた。
あれから。
大広間に戻ってきた私たちは、大広間の中でも隅の方でチェスを始めた。
もちろん、その後に切り出す話は誰かに進んで聞かれたい話でもないので、影の力で人払いはしてある。
しかしながら、現在、その人払いの影の力は自分の首を絞めている元凶に他ならなかった。
なんといっても、影の力は話すのに邪魔になる人を寄せ付けない。
それは、つまり盤上の厳しい戦況にアドバイスをくれる人をも追い払ってしまうことを意味していた。
私は仕方なく一人、この先の展開をなんとか練ろうとするものの、頭の中に浮かぶ手のどれを選んでも、お嬢様に勝てるビジョンは全く見えない。
そんな絶望的な状況だからか、意識もその内、違う方へと進むようになっていた。
現在、私の頭を悩ませているもう一つのことは、お嬢様に真実をどこまで話すのか、ということだ。
アックス様は私に全ては話さなくてもいい、とそう言ってくれた。
確かに幾ら話すと決めたといっても、話していいことと悪いことがある。
そこら辺の見極めはしなくてはならない。
取り敢えずは、己が居なくなることを告白した以上は、その経緯を話すべきだろう。
そうと決めると、私は駒を進めた。
しかし、そちらの思考はまとまっても、盤上でのそれは悪手だったようで。
お嬢様は勝負を決定づける、衝撃的な言葉を放った。
「チェックメイト」
私は驚いて、再び駒の並びを見た。
お嬢様がクイーンを一つ動かした瞬間、私のキングの逃げ場はいつのまにか失われていた。
前に進もうが後ろに戻ろうが、お嬢様の白い駒が私のキングに睨みを利かせている。
それは、横や斜めも同様だ。
これは認めざるを得ない。完全なる敗北だった。
私は力なく、がっくりと項垂れると、白旗を揚げた。
「降参です。やはり、お嬢様には敵わない」
「貴女って、本当にチェス弱いわよね。勉強は出来るから、頭は悪くないはずなのに」
「基本的に私は力押しで生きてきましたからね。こういう、戦略とかはあまり考えられない性分なのですよ」
そう、元いたロエルなんて本当にそれが顕著だった。
必要とされるのは屍を積む力のみ。
もちろん、殺しが日常的に起こる世界ではあるから、その中で上手くやっていく必要はあるが、余程複雑じゃなきゃ、大抵は力押しでいけた。
やはり、裏の世界で生きてきた以上、まともな教育を受けたものは少ないからかもしれない。
ロエルの幹部である、心臓ともなれば、もちろん知略も巡らせる事もできるが、幸いにして私の部下は単純で血の気の多い奴らばかりだった。
だから、不本意ながら、私にもそれが染み付いてしまった可能性はある。
私が思わず顔をしかめていると、お嬢様はクスリと笑った。
「貴女は手先は器用な癖して、変なところでいつも不器用よね。結構、意地っ張りよ」
お嬢様にもそう見えるのだとしたら、もうそれは認めざるを得ない。
回りくどいのは私には合わないだろう。
束の間の安らぎを得た私は、ついに本題に移ることに決めた。
お嬢様もそろそろ覚悟は出来ているだろうから、単刀直入に切り出すつもりだ。
私は意を決して、盤上の勝因を分析しているお嬢様に向けて、口を開いた。
「お嬢様」
「なに?」
「実は私……この先、そう長くはない命です」
お嬢様は駒を片付けていた手を止めた。
鋭く息を吸い込み、オレンジ色の瞳で私を見据える。
その表情は一見、無に見えて、計り知れない喪失感を伴っていた。
私はお嬢様の感情をそこまで見抜けることに、自分自身呆れ返った。
しかも、最近のお嬢様は表情豊かだったから、つい懐かしくなってしまう。
私が場にそぐわないとわかっていながらも、耐えきれずに笑みを浮かべると、お嬢様は傷ついたような顔をした。
「どうして笑うの?」
「ああ、すみません。決してお嬢様を笑っているつもりでは……」
「違う。そんなことはわかっているし、別に謝って欲しいわけじゃないわ。私が言いたいのは……」
お嬢様は泣くのを堪えるように、唇を強く噛んでいた。
一方で、自分の気持ちを上手く言葉に出来ないのか、もどかしそうに視線を彷徨わせている。
しかし、数瞬の空白の後、意を決したように、私の手を両手で包み込むと、彼女は諭すように言った。
「リオ、貴女……自分が死ぬかもしれないのよ?」
「ええ、わかっています」
「なら、もっと泣いて、叫んだっておかしくはないわ。なのに、貴女はいつも笑ってる。自分の気持ちを当たり前のように蔑ろにするんだわ」
「それは……」
「私を不安にさせてしまうから、なのでしょうね。貴女はいつも私に尽くしてくれるもの。でも、もしそれが私のためだと思っているのだとしたら、貴女の考えは大間違いよ」
お嬢様は優しげな声音ではあったが、ぴしゃりと言い切った。
やはり、アックス様やクレア様の言う通りだったのだ。
お嬢様は私に隠されていたことこそ、真に怖がっていたのだ。
「だから、きちんと泣いて。辛くないはずがないもの。笑って誤魔化して、自分の気持ちに嘘をつかないで」
お願いよ、と手に力を込めたお嬢様の声音は縋るようでもあった。
言われてみれば、最近の私は確かに笑ってばかりいた。
自分の生が尽きることを予感して、これで終わりなんだと思うと、ずっと奥底に眠っていた気持ちが嫌になるくらいに溢れ出して。
でも、それをお嬢様に伝えるにはあまりに遅すぎて、出会い方もきっと最悪だった。
だから、私はそれをどうにかしたくて、笑っていたのだ。
昔は目が合えば、大抵のことがお互いにわかって、隠し事は相も変わらず多かったけれど、言いたいことは言えた。
けれど、最近はどうだったろう?
笑ってばかりで、何も分からなくなってしまったことに、お嬢様はきっと、不安を感じていたに違いない。
私たちはこの一年で決定的に変わってしまっていた。
お嬢様はずっとこちらに手を差し出していたはずなのに、私はそれを見ないふりをしてすれ違い、遠ざかった。
以前なら、お互いに強引にでも自分の方を向かせていたのに。
すっかり、それが出来なくなっていた。
「お嬢様」
「私は弱い。けれどもう、自分で歩けないほどじゃないわ。私はここで生きていくの。どんなに不安で、傷つくことがあろうとも、私を大切だと言ってくれた全ての人の為に、決して諦めたりはしない。だから」
お嬢様は顔を伏せた。
涙を見せまいと、堪えようとしているのだろう。
私はそんな彼女の頬にそっと、触れた。
そして、その顔を上げさせる。
上気し、赤くなった頬には幾筋もの涙が流れていた。
行かないで、とそう言わんばかりの悲痛な表情で、私を見つめている。
自分を想い、涙を流してくれる彼女は、とても綺麗だった。
幸せすぎて、私も泣いてしまいそうになるくらいに。
「でも、まだダメです」
「……どうして?」
「私はお嬢様に全て話すと決めたのです。泣いたら、もう話せなくなってしまいそうですから」
きっと、お嬢様は私の何を知っても嫌悪などしないだろう。
私自身が嫌っている己でさえ、お嬢様なら受け止めてくれると、その姿を見て、確信する。
もう、疑うことなどなかった。
お嬢様はそんな私の決意が伝わったのか、涙を拭って頷く。
私はどれほど嫌っても、消えてはくれない、忌まわしい己の過去について、語り出した。
「私は物心がつく前に捨てられた孤児でした」
別にそれを悲しいことだと思ったことはない。
それが私の当たり前であり、不正貴族が治めていた私の故郷では珍しい境遇でもなかった。
ただただ、飢えを凌ぐために働き、時には盗みをしていたのは僅か五歳の時。
覚えていることは少ないが、孤児たちの集まりの中で、何とか互いを助け合って生きていた。
「でも、そんな日々でさえ、長くは続きませんでした」
とても寒く、夏の収穫も不作だった為に、飢えに飢えていた六歳の冬。
私は一生懸命に過酷な環境で働いていたが、パンが貰えない日が続いていた。
誰かから盗もうとしても、集まりの中でも一番幼く、力のない私では上手くいくはずもなく、幾度となく足蹴にされた。
そしてある日、私はついに力尽きてしまったのだ。
寂れた街の、誰も足を踏み入れない路地裏で。
私は一度、死にかけた。
あの時のことは今でも鮮明に覚えている。
意識が薄れていく感覚。
体に降り積もる冷たい雪。
一人で死ぬという孤独。
幼心に私は間違いなく、死を確信した。
悪いことを一杯してしまったけど、神さまは許してくれるかな、なんて思いながら。
私は雪の中で、目を閉じてしまったのだった。
「しかし、私は暖かいところで目覚めました」
そう。私は死にかけのところをロエルに拾われたのだった。
初めは食べ物と屋根のある部屋で寝かせてくれる良い人たちだと思っていた。
周りにも私と同じような境遇の子供達がいて、彼らも美味しいものにありつけて、安心しきっていたように思う。
しかしながら、それは地獄への序曲だった。
まるで、食べられる前に肥やされる豚のように、私たちは一時の安寧を得ていたに過ぎなかったのだ。
そして、それはある日唐突に始まった。
「……何が起きたというの?」
「実験です。死人がたくさん出る実験」
私は敢えて、お嬢様に露骨に残酷な言葉を使った。
お嬢様の形の整った眉が、悲痛に歪む。
それでも私は話し続けた。
それが、今の私が私たる原点であるから。
どれほど醜かろうが、私の本当の姿を知ってもらわねばならなかった。
「実験の名前は『魔導人形開発実験』と言いました」
その名の通り、魔導人形を開発する実験だ。
ただし、被験体となるのは人間。
彼らは行く宛てのない孤児を使って、自律的に思考し、人を殺せる兵器を作り出そうとしていたのだ。
人間と、金属と、魔物を合成し、人ならざる人を作る実験。
その無茶に思える非道な行いで、私の周りでは人が毎日死んでいった。
来る日も来る日も、死体が目の前を通り過ぎ、自分もそれと同じようになるのを待ち続ける日々。
どれだけそれが続いたのか、未だに私にはわからない。
百を数える頃には既に半分、狂っていたような気もする。
「私はそんな実験の最後の被験者でした」
Revolution Project (革命計画)の被験者番号十番。
私はその地獄の中でそう呼ばれていた。
けれど、番号と実験される順番は一致していなかったようで。
気がつけば、連れてこられた時には沢山いた周りの子らは一人残らず居なくなっていた。
私は一人、外に捨てられるのを面倒くさがられて重なり合う、屍の中にいた。
実験に連れて行かれた時には、もう反抗するほどの気力もなかった。
実験で全身に痛みが走っても、それをどこか他人事のように思い、泣きわめくことすら出来なかった。
それでも。
「私は生き残ってしまった」
幸か不幸か、実験は成功。
私は人の形をした殺戮人形として生き残ってしまった。
私に残ったのは絶望。
ついで、湧き上がったのは実験の成功を喜ぶ研究者たちへの怒りだった。
みんなみんな、死んでしまった。
なのに、こいつらはそれを詫びるどころか、気にも留めない。
私はそれが許せなかった。
だから、怒り狂い、暴れた。
魔物の超回復力、機械による魔力と気配の感知能力、そして他の人間から奪った大人並みの思考力。
それらをすべて備えた私の怒りは、その場を赤に塗り替えた。
それは研究者の血の色と、屍と実験書類を燃やし尽くす炎の赤だ。
研究者達の正確な数は覚えていない。
しかし、何十という数であったことは確かだろう。
それが私が初めて手を汚した時のことであった。
僅か、六歳の頃のことだった。
「しかし、ロエルの奴らはそんな私を処分しませんでした。暴れまわった後の、抜け殻のようになった私に、従えと、ただそれだけを命じました。当然、私は拒絶しましたが、また同じ数の人間を実験に使うと脅されれば、奴らも人を殺すプロです。私には従う他、選択肢はありませんでした」
そうして、私はロエルの命令を聞き続けた。
地位を上げれば、いずれはロエルの心臓近づける。
そうすれば、奴らを殺す機会もあるだろうと、出来るだけ従順な態度を心がけた。
とはいえ、それが示すのは、私が奴らの言う通りに大量の人を殺してきたということ。
次第に私は罪悪感に蝕まれるようになった。
殺す相手はロエルに恨みを買っているのだから、大抵は後ろ暗いところがある者ばかりだったが、それで気が楽になるかと言えば、そうでもない。
時には罪のない者を殺すこともあったし、悪人とて人だ。
私は次第に何のために人を殺しているのか、わからなくなっていった。
復讐の為とは言え、私はまた新たな犠牲者を生み出している。
それならば、この復讐は意味がないのかもしれない。
でも、大人並みの思考力を得たとはいえ、それが特別優れているわけでもなく、明瞭な答えは出なかった。
だから、自己を嫌悪しながらも、仕事に没頭し続けたのだ。
「でも、貴女を見た時、私はその仕事を止めると決めた」
あの夜にお嬢様に出会ったことは、まだ言えない。
けれど、あの夜、お嬢様の絶望的な瞳に魅せられて、私は悟ったのだ。
屍に囲まれ、絶望しながらも、なお気高くあり続けたお嬢様を見て、己の愚かさを知った。
お嬢様に仕えるようになって、自分の罪深さと、お嬢様の優しさを知った。
だから今、ここにいる。
「奴らは出て行く私を多少は止めたものの、無理やりは止めませんでした。本来は裏切りを許さない組織ですが、見逃されました。重要なサンプルですし、首輪もつけているつもりだったのでしょう。仕事を従順にこなしていた信用もある。いざというという時にだけ呼び戻せば良いと思っていたのかもしれませんね」
「じゃあ、貴女は呼び戻されるのかしら?」
「いいえ。革命前にはお呼ばれされましたが、相手をコテンパンに返り討ちにしてやりました。そのせいで、お嬢様の元へ帰り着くのが遅くなってしまいましたが」
「そうだったの」
お嬢様はようやく、少しだけホッとした様子を見せた。
どうやら、今までその通りを話してきただけに、最後の嘘は見破られなかったようだ。
実の所、ロエルはまだ、私のことを諦めていない。
今は革命後の粛清を恐れて、なりを潜めてはいるが、それが落ち着く春には呼び戻されるだろう。
私が死ぬ前に、奴らも私を回収したいはずだ。
でも、その事実はお嬢様には必要ない。
それを話せば、聡いお嬢様は私が行った交渉にも気づいてしまう可能性がある。
そんな危険だけは犯せなかった。
「実験は成功し、私は生き残った。けれども、後遺症が残らなかったわけではないのです」
「それが、貴女が死んでしまう理由」
「ええ。私の身体は人間の形をしてはいますが、途轍もなく不安定な状態にあります。最後にどうなってしまうかは、私にも予想がつきません。しかし、私が私でいられないのは確かです」
魔物の邪悪な魔力は、人間の体には毒だ。
即効性はないものの、この十年間でじわじわと私の人間である部分は蝕まれていた。
機械とて、修理なしでずっと動き続けることは難しい。
それらを全て考慮して、持つのが春まで。
どちらにせよ、私にそう多くの選択肢は残されていなかった。
「ねぇ、リオ」
「はい、お嬢様」
「私は本当に貴女のこと、何も知らなかったのね」
お嬢様は己を責めるように言った。
隠し事ばかりしていたのは私の方で、お嬢様は少しも悪くはないのに、悔しそうに唇を噛み締めている。
私は必死で、首を横に振った。
「お嬢様は悪くありません。私が、卑しい身でありながら、お嬢様の側にいたくて、嘘を重ねたのです。申し訳ありませんでした」
「嘘に気づけなかったのなら、それは私が間抜けだったということ。私も同罪だわ。けれども、貴女は私を守ろうとしてくれていた。本当は嫌悪しているはずの、手を汚してまで。私はただ、それを知らずにのうのうと生きていた自分が許せないの」
お嬢様の瞳が潤んだ。
私はそれを見て、不謹慎にも安堵を覚えてしまう。
ああ、お嬢様はこんな私を知っても、嫌悪などしない。
むしろ、私を思って、まだ涙してくれる。
それが、わかってしまったから。
私の頬に、一粒の雫が落ちた。
ずっと堪えていたそれが、一度流れ始めると、もう止まらなかった。
拭っても拭っても、視界がぼやけてしまう。
「リオ。貴女、泣いてるの?」
「泣いてなど、いません。私はお嬢様の前では笑顔でいると決めたのですから」
「全く。意地っ張りね、貴女は」
お嬢様は立ち上がると、私の側に来てくれた。
そして、そっと私の頭を撫でてくれる。
その手は、やっぱり暖かかった。
しかし、私をいつも人にしてくれるそれは、もうそう長くは触れていられない。
いつか失う温もりなのだ。
そう思うと、手放したくなかった。
失礼で、自分勝手だと分かっていながらも、その手を取り、額に押し当てて、縋り付いてしまう。
行かないで、と叫んでしまいそうになる。
けれども、私は嗚咽にその叫びを必死で押し込んだ。
だって、どれほど私が希ったとしても、お嬢様はもう私のものにはなり得ないのだ。
お嬢様の幸せは既に違う人々の手の中にある。
私には彼らと同じものを与えられる権利はなかった。
だから。
「お嬢様、一つだけお願いがあります」
「なに? 私に出来ることなら、何でもするわ」
最後に私に残った権利、それも放棄しなくてはならない。
私はこれまで、ずっとお嬢様を守ってきた。
人を殺し慣れていた私にしか出来ないことだと思って、戦い続けてきた。
しかし、今の私は戦えない。
ならば、私の役目は終わったも同然だった。
だから潔く、次の人に託すべきなのだ。
それで、私の居場所は完全になくなる。
本当に、お嬢様の侍女でしかなくなる。
誰とでもとって変われる存在に成り下がるのだ。
私は狡猾にも、「何でも」と言うお嬢様に、そういうお願いを口にした。
「お嬢様に永遠の騎士を決めて頂きたいのです」
お嬢様が頭の上で、ハッと鋭く息を吸い込むのを聞いた。
聡明なお嬢様のことだから、それが何を意味するのか、すぐに理解したのだろう。
お嬢様は私が握っていた手を引き抜くと、震える声で呟いた。
「酷いわ」
「承知の上です」
「そんなの、嫌よ。私、まだ貴女に何もしてあげられてない。何も、まだしていないじゃない」
「いいえ。お嬢様には色んなことを教わりました。私はお嬢様のそばに居られるだけで幸せでした。これ以上は望めません」
これ以上をお嬢様に望むのはあまりにも強欲だ。
罪人たる私には過ぎたるもの。
でも、せめてお嬢様の幸せだけは未来永劫、願わせてほしかった。
それが今となっては、唯一の私の願いだから。
「どうか、お願いします」
私は椅子から降りて、その場に膝をついた。
しばらくの沈黙が互いの間に降りる。
お嬢様はきっと、頷くことによって、繋がりが立ち消えてしまうことを危惧しているのだろう。
どうすればいいかは、わかっている。
でも、そんなことはしたくない。
けれども、それも我儘になってしまうから、言えない。
お嬢様は自分の想いと私の願いの狭間で揺れていた。
「どうしても、いけませんか」
縋るようにお嬢様の顔を見上げれば、お嬢様は迷うように目を逸らした。
オレンジ色の瞳に映るのは孤独と哀しみだ。
ああ、私は決して、彼女にそんな顔をさせたかったわけじゃないのにと、今更ながらに思う。
不器用な物言いしかできない自分に苛立った。
エゴを押し付けることでしか、安心できない自分が嫌だった。
それでも。
「わかったわ」
お嬢様からようやく零れ出た一言は、涙に濡れていた。
囁くような小さな声音で、華奢な肩が壊れてしまいそうに震えていたけれど、お嬢様は約束してくれた。
きっと私はお嬢様を傷つけてしまっただろう。
なのに、私はそれに安堵を覚えて、再び泣いてしまう。
しかし、お嬢様の言葉はそこで終わっていなかった。
彼女は涙を乱暴に拭うと、赤い目でキッと私を睨みつけて、悠然と立つ。
お嬢様は私の前で最後の悪役令嬢を演じようとしていた。
最後の強がりを、精一杯こめて。
お嬢様は強気に言い放った。
「でも、あなたがいなくなる春までは嫌よ。貴女はあくまでも、私の侍女。勝手は許さないわ」
「それは、承知しております」
「それから、いなくなるまでは毎日側にいること。死ぬほどこき使ってやるわ。どうせ死ぬならね」
「はい。お嬢様のためなら喜んで」
「新しいドレスも欲しいわね。貴女、性格と違って、手は器用だもの。毎日着ても飽きないようなものを頂戴」
「出来る限りの努力は致します」
「ああ、大事なことはまだあるわね。永遠の騎士を見つけるのは貴女よ。それくらいの責任はとってちょうだい。ああ、貴女や私以上に弱い人なんて許さないわよ?」
「……我儘ですね」
「あとは。あとは……そうね。一つ、約束してちょうだい。たとえ、貴女が」
お嬢様はそこで、今までまくし立てるように紡いでいた言葉を止めた。
一度、大きく息を吸い込むと、私の目をジッと見つめる。
そして、膝をつく私の前に手を差し出した。
「死んでしまったとしても。私の心の中では貴女が私の騎士であり続けることを、約束して」
それはとんでもない申し出だった。
何しろ、他の者にどれだけ忠誠を立てられたとしても、お嬢様は形だけでは応えても、心では応えないと言っているも同然だからだ。
それは、本当ならば許されないこと。
共に禁忌を犯そうという誘いなのだ。
けれど、お嬢様はしてやったりと微笑んだ。
「あら、嫌かしら」
「嫌なはずがありません。私もどうか、共犯者にさせてください」
いずれお嬢様の騎士となる人には悪いが。
私はお嬢様の小悪魔的な誘いの前には陥落せざるを得なかった。
その手を取って、こうべを垂れる。
誓いの言葉は口にはしないが、その心はきっと通じているだろう。
私は、幸せだ。
随分長く抱え込んでいた鬱々としていた気持ちはもう、どこにもなかった。
言いたいこと、打ち明けてしまいたいことは心の奥底に眠れど、侍女としての私にはもう十分だ。
私は長いこと頭を下げていたが、やがてゆっくりと顔を上げて、お嬢様の顔を見た。
そこに強気な表情はない。
最後の悪役令嬢は役目を終えて、ただ顔をくしゃくしゃにして泣いている私の主人たる少女がいた。
彼女は私と目が合うと、耐えきれなくなったのか、私を縋り付くように抱きしめて、大泣きした。
私もその真っ赤な髪を撫でながら、涙が流れるままに泣く。
「ありがとう。リオ、本当に」
私はその言葉を噛み締めながら、永遠にこの時が続けばいいとさえ思った。
でも、ここから夜は短くなる。
まるで、闇の世界で生きてきた私の命が短くなっていくように。
しかし、お嬢様の生きていく春の世界は光に満ちていくのだ。
ならば、それでいいように思えた。
だからといって、自分が死ぬ覚悟が定まった訳ではないけれど、少なくともお嬢様の未来は悪いものじゃないと信じることが出来た。
「お嬢様、私は永遠に貴女のものです」
私は最後にそんな我儘を口にした。
けれど、お嬢様は頷く。
こうして、チェス大会の冬は過ぎて行くのだった。
これにて、冬のチェス大会編は終了です。
ちなみにリオの名前の由来はRevolution project の10番からだったりします。




