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悪役令嬢と胡蝶の夢

シャンデリアが煌々と照らす、学園の大広間にて。

そこにはサマーパーティの時以来の多くの人が華やかなドレスや騎士服に身を包んで、集っていた。

しかし、そこにあるのはお喋りが繰り広げられる、和やかな様子では無い。

どこかピリピリとした緊張感と、ヒソヒソとした声。

コツコツと盤上で駒が動く音と、遠くから聞こえる剣が混じり合う金属音。

まさに此処は戦場だった。

年に一度、行われる静かな真剣勝負。

つまり、チェス大会が今繰り広げられていた。

魔道杯と対とも言われるこの大会は、夜になれば大騒ぎになるものの、昼の間はいつも厳かな雰囲気が漂うらしい。

どこもかしこも、真剣な眼差しで盤上を睨み合う人で一杯だ。

観戦する人も、二人の勝負を邪魔してはいけないと思うのか、自然とヒソヒソ声になってしまうのだった。

かくいう私もその一人であって。

壁際にひっそりと佇みながら、すぐそばで行われている試合の盤上に視線を下ろしていた。

試合を行なっているのは去年の優勝者、アックス様と準優勝者、シュエル様だった。

どちらも去年、優勝を争っただけあって、今年も注目の一戦とされている。

現に、彼らの盤は観戦を考慮した、少し大きめのものを使っているようで、私が立つ、少し離れた場所からでも見やすい。

展開は終盤。

アックス様のナイトがクイーンを倒す。

素人目に見て、形勢はアックス様の優勢であるようだった。

実際、シュエル様は苦い顔をしていた。


「全く、君という奴は。盤上では女性にも容赦がないらしい」


今まで着々と駒を進めていたシュエル様の手が止まる。

対するアックス様は面白そうにその展開を眺めていた。

そして、ライバルたる大物に軽口を叩く。


「何を仰いますか、皇子。俺はいつも女性に対して、全力ということですよ」


そう。アックス様の相手は隣国のヴァストレイア帝国からの留学生である、シュエル皇子殿下でいらっしゃった。

継承権は第三位ではあるものの、策士たる頭脳を持ち合わせているとは有名な話だ。

彼曰く、それ程王座には興味がないようで、第一位である兄王が即位した際には、それを支えて行くつもりらしい。

彼はアックス様の冗談を笑って受け流すと、盤面を見て、唸り声を上げた。

どうやら、幾ら策士と言われている皇子でも、腹黒のアックス様には手を焼くらしい。

私は軽く、シュエル様に同情を覚えた。

さて、そろそろ決着がつくだろうか。

私はそう思って、一度盤上から視線を引き離した。

そして、二人の試合を間近で見ているお嬢様と殿下へと移す。

彼らはさながら絵にでもなりそうな様相で、並び立っていた。

新緑の萌えるような鮮やかで優しい若草色のドレスに身を包んだお嬢様と、きりりと引き締まった雰囲気を醸し出す騎士服を着た殿下。

それは時折、チェスに熱中する人々の目を奪う程の魅力に溢れていた。

普段見慣れているはずの私でさえ、暫し見惚れていると、やはり、お嬢様のドレスの色はこれで良かったのだと思わされる。

いつもは大人びた色合いの服を着ることが多いお嬢様だが、こうして見てみると鮮やかな色もよく似合う。

慌てて二着目に取り掛かったせいで、モチーフまで考えることは出来なかったが、中々どうして上手くいったのである。

私は幸せそうに、しかし、真剣な表情で目の前で繰り広げられる試合について語り合う二人を見て、ふっと笑みが零れた。

何だかんだ言っても、こうしてお嬢様が幸せなのを見ていると、醜い気持ちも起きないものだ。

その分、一人になった時が怖いのだが。

そして、これから先もずっとそうしていられる確信もない。

まだ公の場で適切な距離感を保っているおかげもあるかもしれない。

私は己の不安定な心に喝を入れると、一度新鮮な空気でも吸ってこようと、その場を離れた。

冷たい空気に晒されれば、嫌でも冷静になるだろう。


大広間を出ると、外は一面の銀世界だった。

アメリストスの冬はいつも厳しく、毎年少なくない量の雪が降る。

まだ雪が降るとされる三ヶ月のうちのはじめの月の中頃なので、足首辺りまでしか積もっていないが、これからもっと降るだろう。

私は正直、冬があまり好きではない。

お嬢様に出会ったのも、確かこの季節だったが、それは同時に自分がしてきたことを思い知らせることでもあったからだ。

冬の寒さは、お前は普通にはなれないんだよ、と囁いてくるように感じられて、毎年冬は憂鬱だった。

しかし、今年に限っては、その憂鬱な冬さえも終わらないで欲しいと願ってしまう。

この冬が終われば、来たる春。

それは私にとってのタイムリミットで、お嬢様との別れを意味していた。


「私は忠実な侍女であるだけのつもりだったのに」


あまりに多くのことを望み過ぎてしまった。

その罰が、この胸の苦しさだった。

あれだけ気高く優しいお嬢様に幸せを掴む権利はあれど、汚れ卑しい自分にはそんなもの、はなから望むことさえも烏滸おこがましい。

そんな意味で零れた呟きは、不意に後ろからかけられた声に否定された。


「でも、それをエレナリア様が望まれていたかは疑問ね」


この学園でお嬢様に使える中で、幾度となく聞いた勝気な声。

振り返ってみれば、本日は欠席の予定であったはずの侯爵令嬢がいらっしゃった。

彼女は金色の髪をはらりと後ろに払うと、私に向かってニッコリと微笑んだ。

そして、彼女は今日とて、目に鮮やかな真っ赤なドレスの裾を揺らしながら、近づいてくる。

ドレスのモチーフは言わずもがな、バラである。

きっと忙しいのもあったのだろうが、それでもやはり、赤いドレスは彼女に一番よく似合っていた。

私はそっと、頭を下げた。


「頭を上げてちょうだい。貴女はエレナリア様の侍女であって、私のものではない。そこまで、敬意を払う必要はないわ」

「ですが、クレア様」

「あー、うー。もう、それ以上は言わないで。私、普段はあんまり悪役はやりたくないんだよね。革命も終わった訳だし。私も口調崩すからさ、ちょっと大目に見て」

「くっ、クレア様?」


クレア様の口調が急激に崩れた。

まるで、町娘と話しているかのような、軽い調子に、いつもの令嬢らしさは皆無だ。

私は思わず目を点にしてしまう。

そんな私に、クレア様はこれまたニンマリと笑った。


「あっ、驚いた?」

「いえ、その……はい」

「だよね。でも、こっちが素なんだ。ここでは、人目もないし、あなたの本心も聞きたいし、許してね」

「はっ、はぁ……」


さりげなく、凄いことを暴露されたような感じだが、クレア様にそれを気にする様子はまるでなかった。

一方の私は、理解が追いつかずに、私は呆然としてしまう。

まさか、あの絵に描いたような侯爵令嬢が、こんな一面を持ってるとはきっと誰も思わない。

しかし、再びクレア様が真剣な顔に戻ると、なるほど彼女だと思わせるところがあった。

エメラルドグリーンの瞳に宿る強い意志はどんな態度であっても、変わることはなかったのだ。

クレア様は少し拗ねるような、どことなく幼い感じで尋ねてきた。


「それで? エレナリア様があなたがただただ忠実な侍女であって欲しいと願ってると思うの? 正直な今の気持ち、言っちゃってよ」

「あの、本当に?」

「本当本当。別に革命の聖女とか言われてても、私はそんな偉ぶるつもりはないから。まぁ、革命が成功した以上は、責任も取らなきゃだし、色々しなくちゃいけないことはあるけどね」

「……なら、失礼を承知で言わせていただきますが。クレア様の言葉には正直、『またか』という気分でした」

「ってことは、もう誰かに言われた後、なんだね」


多分、アックスあたりかな、と呟くクレア様の読みは当たっていた。

まぁ、私に向かってそんなことを言う人物なんて限られているから、簡単に予想はつくのだろうが。

とはいえ、彼女の口調にも次第に慣れてきた。

先程は衝撃を受けたが、少し話してみると、こちらの方がずっと自然に思える。

もしかしたら、今までの彼女は悪役令嬢を楽しんではいたのだろうけれど、あくまでも作り物だったのかもしれない。

革命の為のイメージ作り、戦略だったという予想はきっと、大きくは外れていないだろう。

私はいつのまにか、そこまで気を張らずに話すことが出来るようになっていた。


「はい。アックス様もあなたも、簡単にお嬢様に真実を話してしまえと仰る。そうすることは出来ないと言うのに」

「なんで?」

「お嬢様をまた悲しませてしまうからです。自惚れるつもりはありませんが、お嬢様は私を大切に思って下さっています。私はお嬢様の未来に、影を残したくはないのです」


お嬢様が一番恐れているのは、大切な人が居なくなることだ。

それは、殴られたり、蹴られたり、罵声を浴びせられるよりも、怖いこと。

殿下にプロポーズを受けた時でさえ、お嬢様はそう言った。

だとしたら、私はお嬢様にその「一番怖いこと」をしてしまうかもしれない。

それがどうしようもなく、怖かった。

なら、せめて嘘でも、この先長くないなんて言わないで、幸せにどこかで生きていると思われていた方が、良いのではないか。

私はずっとそう思っていた。

なのに、周りの人はそれを否定するのだ。

それこそ、お嬢様の為にはならないと。

私はもう、何が正しいのかわからなくなっていた。


「なるほどねぇ」


全ての心情を吐露すると、クレア様は考え込むように唸った。

一応は私の考えに理解を示してくれているらしい。

けれども、完全な納得はしていないようだった。

さて、クレア様もアックス様と同じようなことを言うのだろうか。

私はあまり、期待を抱けずにいた。

しかし、クレア様の言葉は予想を遥かに上回っていた。


「あのね、私。夢をみたの」

「……夢?」

「そう。幼い頃にね。此処じゃない世界で生きていたっていう夢をみたんだ」


いきなり、何を言いだすのだろうか。

私が訝しげな表情を向けると、クレア様は悪戯っぽく笑った。

取り敢えず、聞けということらしい。

私はクレア様の話の意図を掴めずにいたが、それに耳を傾ける事にした。


「そこは、魔法とか魔物とか、そんなものがない世界でね。身分制とか、そんな物も過去にしかない世界だった」

「それはまた、面白い世界です」

「うん。それでね、私はそこでも学生だった。それも、毎日ゲームをしてばっかりの不真面目な学生」

「ゲーム? チェスなどがお好きなのですか?」

「そのゲームとはまたちょっと違うかな。なんていうか……どちらかというと物語に近い。その中で、私はこの学園に通う、エレナリア様や自分の姿を見たの。まるで、予言みたいに。でも、今とは違う、エレナリア様には更に残酷な未来が待ってる話。私が幸せになるお話だった」


夢だと、そう言った割にはクレア様の話はやけに現実味を帯びていた。

まるで、本当にあったことを語るかのような。

此処とは違う世界も、お嬢様の残酷な未来も、今となっては信じがたい事だが、クレア様が語るのを聞くと、完全な妄言だとも言い切れない感じがした。

私はいつのまにか、クレア様の話に聞き入っていた。


「私はその夢を見て、この未来は本物だってわかった。その瞬間に、魂に変革が起きたような、そんな感覚がしたから。そして、これから起こる事を知って、無気力になった。これが未来なんだって、信じ込んでしまったから」

「しかし、あなたが幸せになる話では?」

「それは、あくまでもゲームでならの話だよ。幸せはゲームの中の私が望んだ事であって、現実の私が望んだ事じゃない。しかも、幸せになるには紆余曲折あって、内戦まで始まる。本当に、沢山の人が死ぬんだよ。画面越しならまだ平気だったけれど、現実ではそんな未来は耐えられない。周りにいる人がいずれ死ぬんだって思うと、誰かと仲良くなろうとも思えなかった。それに、誰が敵になるんだろうって思ったら、情けない事にビクビク怯えてしまって。周りには当たり散らしてばかりだった。ずっと、現実を見られなかったんだよ、私は」


クレア様は自嘲するように、笑った。

エメラルドグリーンの瞳がけぶり、意志の光が瞬いた。

一筋の涙が流星のように輝き、堕ちてゆく。

私はその光景をただ、立ち尽くして眺めていた。

あの夜のお嬢様の姿が僅かに重なったように思えた。


「けれど、そんな私を変えてくれたのがエレナリア様の姿だった」


しかし、その一言が、刹那の幻想をかき消した。

聞き慣れたお嬢様の名が私を現実に引き戻す。

まさかここで、お嬢様の名が出てくるとは思わなかった。

軽く頭を振って、ぼやけていた思考をクリアにすると、今度こそ聞く態勢を整えた。


「お嬢様が、ですか」

「うん。なにもかも諦めつつも、『令嬢らしく』が板についてきた頃、私はこの学園に来たエレナリア様に目を奪われた。ああ。なんて、この人はこんなに儚くも、美しいんだろうと」


あなたが、エレナリア様ですね、とそう言ってお嬢様の前に立ったクレア様の姿を思い出す。

確か、編入を果たした初日だったはずだ。

その日も当たり前のようにお嬢様の側で控えていた私もその場には居合わせた。

初めは少し高圧的な態度に、何事かと思ったが、持ちかけられた話はそれ以上に度肝を抜いた。


「お初にお目にかかりますわ、エレナリア様。私はノルヴィス家のクレア。同じ侯爵家の者同士、仲良くしてくださいませ。ところで、悪役に興味はございません?」


確か、こんな感じだったと、クレア様はあの日の挨拶を再現して見せた。

それだけ見れば、やはり令嬢にしか見えないが、いかんせん言っていることが凄い。

しかし、それがお嬢様とクレア様の出会いだった。

ある意味、お嬢様の幸せの第一歩だった。


「あの時は単純に、ゲームの中でのエレナリアの役回りが本物かどうか、確かめるつもりだったの。無表情、冷徹の侯爵令嬢かどうかをね」

「でも、実際は違ったと」

「そうだね。エレナリア様は優しかった。それはもう、優しすぎて自分を傷つけてしまうくらいに。そして、今にも消えてしまいそうだったけれど、ゲームの中には居なかったあなたがいて、なんとかこの世界にしがみついていた。逆境に立ち向かおうとしていた。だから、それに魅せられると同時に、気づいたんだよ。この世界の運命はまだ決まってないんだって」


それで、芸術祭の時にクレア様が言っていた言葉の意味が繋がった。

きっと、彼女は運命を変えられると知って、この革命を起こしたのだろう。

不正組貴族が力を集めてしまう前に、叩くことで、起こるかもしれなかった内戦を事前に阻止する。

彼女は強い意志を持って、たった半年でそれを成し遂げたのだ。

私は全ての糸が繋がって行く中、ふと気になることがあった。


「もし、クレア様の予言通りになっていたら、お嬢様の運命はどのようなものだったのです?」

「最終的には一家諸共、処刑。それまでは学園での立場が悪くなったり、内戦でその……酷い目にあったりと、過程も中々に残酷なものだよ」

「それは……本当になくて、良かった」


もしそんなことが本当にあったら、私は耐えられなかっただろう。

いや、その予言の中には私は存在していなかったのだったか。

だとしたら、お嬢様の運命が変わった理由は私?

いや、まさか。でも、仮に私だとしても、何故?

クレア様は私の内心を見透かしたかのように、深く頷いた。


「そう、それなんだよね。運命が変わった理由はわからないけれど……でも、私が夢を見た時点で、それは元からあった運命は違っていたんだよ」

「なら、他にも変わっていても不思議じゃない、と」

「多分ね。でも、私が言いたいのはそんなことじゃない。芸術祭の時も言ったとは思うけど、重要なのは、あなたの意思が運命を変えたという事。エレナリア様を幸せにしたという事だよ」


私はかつて、何処か消えてしまいそうなお嬢様をここに留めておきたくて、幸せにしようと決意した。

その為には命さえ捨てるつもりで、動いてきた。

そして、それは今、達成されている。

これは、私がお嬢様を幸せにしたと、誇っても良いのだろうか。

少しくらい、自分が変えた運命、というものを信じてしまっても良いのだろうか。


「夢の中で悲惨な運命を見てきた私だから言える。あなたがエレナリア様を変えたということ。だからこそ、あなたに問う」


クレア様は一度、目を閉じた。

そして、大きく息を吸い込み、目を開く。

そこには、先ほどまでの少し幼い少女はいなかった。

いつもの傲慢に笑う悪役令嬢が、私を挑戦的に見つめていた。


「あなたが変えた少女は、あなたの抱える真実を知ったくらいで、ダメになってしまうような人だったかしら? それとも、あなたが魅せられた少女は所詮、そんなもの? あなたが与えた幸せだって、彼女にとっては取るに足らないものなのね」

「そんなことっ!」

「あら、よくわかってるじゃない」


咄嗟にしかけた反論。

それが、まさに答えだった。

私はハッと、自分が今まで何をしていたのかを悟った。

クレア様はそんな私を見て、ニヤリと口の端を釣り上げた。

私は己の情けなさに、その場に座り込んでしまいそうになる。

そうか、私だったのだ。

己の死に向き合えず、逃げ出してしまいたかったのは。


「そう、でした。真実に耐えられなかったのは、私の方でした」

「まぁ、無理もないわ。あなたはあなたで追い詰められていたんだもの」

「ええ。でも、それをお嬢様のせいにしてしまったのは、不甲斐ないばかりです」

「じゃあ、全部話してしまいなさいよ。あなたのお嬢様を信じるならね」

「うっ……」


それを言われると、中々痛いところがある。

幾ら自分が原因だとわかっても、言いづらいものは言いづらい。

思わずたじろぐ私に、クレア様は言いたいことは言い切ったとばかりに、ポンと私の肩を軽く叩いた。


「まぁ、あとはあなた次第よ。精々、頑張りなさい」


そして、クレア様はいつも通りに戻って、大広間の方へと歩いて行ってしまった。

一人取り残された私は、深いため息をつく。

白い息が空気に溶けて消えていくのを見つめながら、私は虚しい気持ちを味わっていた。


「いつから、僕はこんなんになっちまったんだよ」


私は今まで、自分の命は諦めたつもりでいたのだ。

暗殺者として、命のやり取りをしていた時からずっと。

いつ死んでもおかしくはないし、そうなっても当然だとさえ思っていた。

だけれど、実際はこうだ。

私も半端者でありながら、一人の人間だったらしい。

きっと、お嬢様が私を人間にしてしまったのだ。

彼女が暖かい手で私を温め続けてくれたから、私にもその温もりが伝わってしまった。

だから、こんな穢れた命さえも惜しくなってしまった。


「お嬢様、あなたは本当に」


その先の言葉は喉の奥で消えた。

背後にこちらへ歩いてくる気配を捉えたからだ。

そして、それがこの言葉を聞かれてはならない人だということも、私は理解していた。

私は彼女に向けて、笑顔で振り返った。


「お嬢様、どうしてこんなお寒いところに?」


そこに立つのは不機嫌そうな表情のお嬢様だった。

負けず嫌いのお嬢様のことだから、チェスで負けて、拗ねているのだろうか。

私がそんな風に不思議に思っていると、お嬢様は不意に私を抱きしめた。

ふわりと優しい、春のような香りに包まれて、私は驚いて、固まってしまった。

柔らかな赤い髪に頬をくすぐられて、我を忘れそうになる私の耳元で、お嬢様はポツリと呟いた。


「居なくなってしまったかと思った」


どきり、と心臓が強く脈を打つ。

声音には不安というよりも、寂しげな響きが含まれていた。

それが、お嬢様の変化を明白に物語っている。

これが私のしたことなのだ、と強く意識した。

私はお嬢様の肩に手を置いて、そっと身体を離すと、じいっとオレンジ色の瞳を覗き込んだ。

その瞳の中にかつての不安定さはなく、ただ穏やかな哀愁が漂う。

私は再び、慰めるように微笑んだ。


「大丈夫です。お嬢様。貴女に何も言わず、いなくなるなんてことはしませんから」

「じゃあ、やっぱりいなくなるのね」

「それは……はい」


肯定の言葉は思いの外、スルリと出てきた。

お嬢様も私が否定しなかったことに驚いたようで、ハッとするような表情を浮かべている。

一度言ってしまうと、まるで魔法にでもかけられたように、心が軽くなった。

けれど、お嬢様はそうではないだろう。

お嬢様は未だ信じ難いといった様子で、恐る恐る尋ねてきた。


「リオ、本当に?」

「はい。今まで黙っていて、すみませんでした」

「……いつ?」

「おそらく、春ごろにはお嬢様の側を離れなくてはなりません」


多分、私の身体はそれくらいが限界だ。

より具体的に言えば、殿下やアックス様の卒業式あたりまで。

だから、お嬢様の卒業式、ましてや、お嬢様の卒業を待って行われる結婚式などは絶対に見られないだろう。

それが、やはり心残りだが、どうにもならない。

私は遣る瀬無さを胸の内に押し込んで、取り敢えず今は笑顔を保ち続けた。

真実を話すことと、悲しい顔をすることはまた別だ。

泣くとしたら、その時が来たら。

いや、別れだって笑顔にしたい。

だから、私はあえて、空気も読まずに、明るい声で提案した。

黙り込み、俯いてしまった彼女の気持ちを少しでも明るいものにする為に。


「そうだ、お嬢様。せっかくのチェス大会ですし、久々にやりませんか? 今日はまだ、一度も試合をしてないんです」

「えっ?」

「そんな顔されていては、私も話しづらいです。一度、気持ちをリセットしましょう。集中は出来ないかも知れないですが、気分転換です」


屋敷にいた時以来の、お嬢様とのチェス。

私は今まで、一度たりとも彼女に勝てたことがないが、今日は何故だか勝てそうな気がした。

いや、負けず嫌いなお嬢様のことだから、もしかしたらやっぱり勝てないかも。

お嬢様は私の提案に戸惑っていたようだったが、最終的には頷いた。


「そうね。私も気持ちを整理しないと。でなくては、貴女を困らせてしまいそうだわ」

「私はお嬢様に困らせられるなら、大歓迎ですがね。その為の私ですから」


私はお嬢様の肩から落ちそうになっていたショールを、掛け直すと、大広間の方へ背を押した。

こんな寒いところに長くいては、風邪を引いてしまう。

お嬢様は肩の上にあった、私の手の上に自身の手を重ねると、私を腕の中から見上げた。

そして、寂しく笑って、


「ありがとう」


と、一言零した。

果たして、それは何に対するありがとうなのか。

私は聞かなかったが、なんとなく理解していた。

心にその言葉が染み渡っていき、真実を話そうという決意がより鮮明になる。

お嬢様は再び前を向いた。

そこにあるのは、既に勝負師の顔だ。

こういう時のお嬢様に、私は大概勝てない。

今回も膨大な敗北記録がまた一つ更新されそうだ、と私は確信を深めた。

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