悪役令嬢に王子の口付けを
「愛しい人……だと」
侯爵は信じられないといった様子で殿下の言葉を震える声で繰り返した。
おそらく、自分の駒でしかないと思い込んでいたお嬢様が本当に国の最重要人物にまさかそこまで大切にされてまでいるとは思いもしなかったのだろう。
彼は未だ状況が飲み込めていないのか、殿下の怒りを目の当たりにして、ただひたすらに狼狽えていた。
そして、そんな自分の焦りを誤魔化すように薄ら笑いを浮かべる。
「ははっ、何を言っている。そんなわけが。ずっと笑わなかったこいつが、傷物でしかないこいつがそんなことできるわけがっ……ううっ!」
「それ以上のエレナリアへの侮辱は許さないぞ、侯爵。これ以上言うのであれば、お前の首は無いと思え」
殿下はこんな状況に陥って尚、お嬢様を貶める侯爵の手をより強く捻り上げた。
その声は私と対峙した時よりもゾッとするほど冷たい。
アメジスト色の瞳にも圧倒的な強者たる迫力と侯爵に対する侮蔑が浮かんでいた。
侯爵はそれを真正面から受け止めて、全身を震わせていた。
いつもは傲慢にニヤつかせていた表情も今は怯え、恐怖に支配され、引きつっている。
彼はその状況を認めたく無い一心からか、腕の痛みに耐えながらも、精一杯の虚勢を張った。
それはいっそ呆れるまでの不正貴族お得意の惚けっぷりだった。
「ははっ、なにを仰いますか、殿下。全く冗談が過ぎる。突然の訪問の上、その手荒な挨拶はとても頂けませんなぁ。是非ともその手を離してもらいたい」
「僕もあなたの不正と暴力に汚れた手は確かに触れていたくはない。ただ、そうすればあなたはまたエレナリアを傷つけるだろう。それを許容することはできない」
「これはうちの問題だ。親子関係には王族であるあなたさえも介入する権利はない。こんなことの為に騎士を動かし、国税を無駄にしないで頂きたいものです」
「では、そうでない理由があればいいのだな」
「……何を?」
口を動かしているうちに侯爵は次第に緊張が解けてきたらしい。
すらすらと調子のいい言葉を並べ立てて、余裕の表情をうかがわせるようになってきた。
しかし、殿下からでた侯爵にとっては思わぬ反撃に、侯爵の表情は再度固まる。
殿下はそれを見てニヤリと獰猛に笑うと、指を鳴らして背後に合図を出した。
すると、背後の扉からは眩い甲冑を纏った数名の王国騎士と共に一人の少女がゆっくりと現れた。
一人。一見場違いにも思えるほどに目立つ少女は金色の豊かな髪にエメラルドグリーンの瞳、強気に笑う唇と、目に鮮やかな真紅のドレス。
おそらく、彼女は侯爵が今一番会いたくなかったであろう人物だった。
「殿下、レディを待たせすぎではなくて?」
「なっ、貴様っ!」
「クレア……様」
そう、現れたのは今王国で知らぬ者はいない、「革命の聖女」にして、ノルヴィス家の侯爵令嬢。そしてお嬢様のご友人、クレア様だった。
彼女は優雅に一礼すると、ことの成り行きを呆然と見守っていたお嬢様にニッコリと微笑みかけた。
そして、侯爵の憎しみを込もった視線を華麗にスルーし、ギャイギャイ騒ぎながら王国騎士に身柄を拘束される侯爵の横を通り抜ける。
クレア様はお嬢様の手をそっと握ると、もう一度微笑んだ。
「エレナリア様、ご無事でしたか」
「はい。殿下のお陰でなんとも」
「良かった。あのヘタレ王子でもなんとかあなたのためになったのですね」
「おい、クレア」
幼馴染だからだろうか、クレア様は殿下に対して容赦がなかった。
これには殿下も多少引きつった顔で諌めて、注意をこちらに向けるように呼びかける。
今は何よりもまず、侯爵のことを解決しなくてはならないからだ。
クレア様はそうされて、ようやく……それでも渋々といった様子で拘束された侯爵と殿下の方を振り返った。
「ああ、そうでした。仕事があるのでしたね」
「その面倒くさそうな顔は止めろ。曲がりなりにもお前は革命軍のトップだろう」
「お前達、私をバカにしているのか!」
こうして会話している姿を見るのは初めてだったが、クレア様と殿下は最早、犬猿の仲と言っても過言ではなかった。
きついことを言うのはお嬢様も同じのはずなのに、一向に甘い気配にはならない。
それどころか、互いに冷たい視線をバチバチと交わし合っている。
私はそれを何故なのだろうと思うと同時に、これが殿下の鋼メンタルの要因なのだと、なんとなく察した。
だが、騎士に拘束され、冷静ではない侯爵はそのやりとりが癇に障ったようで。
騎士に多少手荒に扱われながら、大声で騒ぎ立てた。
お嬢様はその声にビクリと肩を震わせるも、クレア様は全く動じない。
クレア様はお嬢様をかばうようにして立つと、火に油を注ぐようなことを言ってのけた。
「ええ、バカにしていますとも、侯爵。だって、あなたは軽蔑されるべきことをしているのですから」
「小娘、貴様っ! 証拠もなく、何を言う!」
「あなたは三歩歩けばものを忘れる鳥頭ですか? それともお耳が悪いのでしょうか。先ほど、殿下は証拠があれば、この無礼な訪問も許されるだろうと仰いませんでしたか? ならば、証拠があるに決まっているではありませんか」
全く、嘆かわしい。そうとまで言い放つクレア様はまさに、悪役令嬢そのものだった。
確かにお嬢様も悪役令嬢とは呼ばれているが、あれはあくまでも演技だ。
しかし、クレア様は本物だった。
流石はお嬢様を悪役令嬢に仕立て上げた張本人と言うべきか、彼女の口からは次から次へと侯爵を貶める言葉がすらすらと出てくる。
怒りをぶつけられても物怖じするどころか、楽しそうなその様子は最早圧巻だ。
これには侯爵も怒りのあまり、目を白黒させて、顔を真っ赤にさせていた。
「貴様ッ、言わせておけば……! 証拠などあるはずがないだろう。不正など、言いがかりだ!」
「では、これを見ても同じことが言えますか?」
不正などないと叫び続ける侯爵だったが、クレア様が侯爵の足元に投げつけた書類を目にするなり、途端に顔色を変えた。
クレア様が投げた書類、それはアックス様が屋敷から持ち出したものだった。
つまり、侯爵を黙らせるための切り札。
それを見る侯爵の怒りで真っ赤になっていた顔は今や青ざめ、水面に上ってきた魚のように口をパクパクとさせていた。
心当たりがあり、それが侯爵にとって都合の悪いものであるのは、一目瞭然だった。
クレア様は侯爵の態度が崩れたことで、ニヤリと笑った。
「どうやら、心当たりがおありのようですね」
「嘘だ……いや、こんなのは知らない。誰かが私を貶めるために作ったのだろう。私は不正などしていない!」
「では、この赤い花の紋章の判子はどう説明するのです? これはその家の当主ではなくては押せない魔法がかかっていたはず。それに、筆跡もあなたのものと明らかに一致しています。教会の上部、官僚らからもこの書類の中にあるような、税の不当な徴収や税収の虚偽の申告、国税の横領、所有禁止の薬物や人身の売買など、既に数々の証言を得ています。それでもまだ認めないおつもりで?」
「どこで、これを」
反論の余地はない。
それはその辺の事情に明るくない私にもなんとなくだが、理解できた。
侯爵は現実を受け止めきれないのか、ポロリと自認ともとれる言葉を漏らした。
出どころを聞くと言うことは、この書類が存在したということを認めるようなものだ。
だが、今の彼はそんなことに気が付けないほど、冷静ではないのだろう。
クレア様の侯爵を見る目が哀れみに変わった。
「あなたには勿体無い、有能な侍女がこれを処分せずに持っていてくれたのですよ」
「侍女? まさか、そこにいる奴か?」
「いえ、彼女もまたあなたに勿体無いのは同じですが、違います。二十年前に姿を消した、王国最強騎士、と言えば分かるでしょうか? 彼女は然るべき時に備えて、証拠を集めてくれていました」
「なっ……あの、老いぼれか!」
侯爵も今更ようやく、侍女長……もとい、カレン様の正体に気がついたようだった。
逆によくもまぁ、気付かなかったものだと思う。
彼女も少し変装していたとはいえ、二十年は最強騎士として謳われていたのだから、肖像画だってたくさんある。
もっとよく自分の利となる者だけでなく、周囲に気を配っていたのなら、気付けていてもおかしくはなかったはずなのだ。
これはどれほど侯爵が自分の領民を蔑ろにしていたかの証明でもあった。
「では、ここにあること全てをお認めになると。そういうことでよろしいですね?」
「ぐっ……貴様ッ!」
騎士たちは侯爵の罪が確定したということで、侯爵を本格的に連行し始めた。
侯爵も必死の抵抗を図るが、当然の如く日々鍛錬を重ねている騎士たちの力には敵わない。
呆気なく、ズルズルと引きずられていた。
部屋を連れ出される寸前、侯爵は最後にギロリとお嬢様を強く睨みつけた。
そして、最後の最後までお嬢様を呪う言葉を投げつける。
「お前さえ……」
いなければ。
それは決して、親が子に言ってはいけない言葉。
子供に永遠の傷を負わせる許されざること。
私はその言葉が放たれる寸前、今までの硬直が解けたようにようやく動き出した。
そして、お嬢様の耳を背後から塞ぐ。
もう、お嬢様は侯爵に縛られてはいけない。
お嬢様の羽をもぐのはあんな奴ではないと、強く思ったから。
お嬢様は言の葉の刃が過ぎ去った後で、私の手をとった。
それから、振り返って、小さく首を横に振る。
声には出さなかったが、大丈夫と言わんばかりだった。
もしかしたら、目は塞げていなかったから、口の動きでわかってしまったかもしれない。
それでも、もうお嬢様が彼に囚われることはないと、その仕草で確信できた。
「エレナリア」
嵐が過ぎ去り、私がホッと安堵の息をついていると、お嬢様の背後で声がかかった。
言わずもがな、声の主は殿下だ。
クレア様と王国騎士たちはまだ仕事があるようで、侯爵と共に出ていってしまい、ここにいるのは三人のみ。
私はこのままでは邪魔になってしまうと思い、部屋を出てから、気配を消した。
若干無茶をすることにはなるが、影の力を使っているので、これから先お嬢様と殿下が知覚することはほぼ不可能だ。
無粋とわかっていても、お嬢様の行く先をせめて見守りたい。
残された時間もそう多くない今、私は己にそんな言い訳をして、部屋を覗き込んだ。
少し気まずい空気の中、向かい合って佇む二人。
しかし、やがて殿下が一歩、前に踏み出した。
「エレナリア、遅くなってしまってすまなかった」
殿下はそう言って、お嬢様の前に跪いた。
この国ではトップの位置に立つ人物が、今や、なんの地位も無くなってしまったただ一人の少女に頭を垂れていた。
きっと、己の為に幸せを捨てようとした少女に対して、すぐには手を伸ばせなかった己の不甲斐なさを悔いているのだろう。
己の弱さに負けて、愛する少女を見失ってしまった罪悪感を背負っているのだろう。
そこにはそれ相応の覚悟があった。
諦めきれない想いがあった。
お嬢様はそれに気がついているのだろうか?
お嬢様は驚いたように目を見開いた後、すぐに膝をついた。
殿下に目線を合わせ、顔を上げるように懇願する。
「殿下、おやめ下さい。今や私はただの罪人の子。そのようなことはしてはなりません」
「いいや、違う。君は罪人の子なんかじゃない。僕にとってはただ一人の愛するヒトだ。そんな君を追い詰めてしまった以上、こうせずにはいられない」
「なんのことです? 殿下は何もなさっていない。むしろ私があなたを傷つけました。愛していると言ってくださったあなたに、私は酷いことを言った。謝らなくてはならないのは殿下ではなく、私の方です」
そこで、お嬢様は自分のしたことを思い出して、気まずくなったのか、殿下から少し距離を置いた。
もう自分に殿下に会う資格はないのだ、というように開けられた距離は、お嬢様の不安の大きさの現れでもあった。
しかし、殿下にはその距離をいとも簡単に詰めてしまった。
手を伸ばせば届くところにいるのに、お嬢様に不安を負わせてしまうという同じことは繰り返したくない。
そんな想いがあったに違いない。
今度こそは手を伸ばし……そして、遂にはお嬢様を抱きしめた。
その瞬間、私の心臓はドキリと跳ね上がった。
痛いほどに早く打つ心臓からは封じ込めていた想いが溢れてしまっている。
ああ、いけない。これで、良かったのだ。と、自分に言い聞かせるも、もうどうしようもないことは明らかだった。
だって、殿下の腕の中に収まったお嬢様の顔が酷く赤く、驚きの向こうに幸せを感じているのを見てしまったから。
「もう君を不安にはさせない」
それは強い決意を伴った声音だった。
殿下はお嬢様が持つ孤独の痛みを見抜いていた。
笑うことができても、怒ることができても、今もお嬢様がうまく引き出すことが出来ないでいた感情。
今まではそれを引き出してしまうことが許されなかった感情。
それが、愛情への渇望だった。
「嫌だったなら、突き飛ばしてくれても構わない。でも、僕は君が一人で不安でいるのを見ていられなかった。一度、君が僕を守ろうとして拒絶した時、すぐには手を伸ばせなかったから。それを死ぬほど後悔したから」
「どうして……それを」
「正直に言うと、自分では気がつけなかった。リオに言われて、ようやく気付かされた。それまでは自分の悲しみに溺れて、ヤケになって。本当、情けないったらありゃしない。でも、リオに勘違いしていると叱られて、ようやく君のことをほんの少し理解できた気がしたんだ。君はずっと孤独と戦っていた」
「そう、でしたか」
「ああ。それにしても……君は本当に無茶をした」
殿下は一度お嬢様を離すと、苦笑を浮かべた。
確かに、あと少し何かが違っていたら、お嬢様まで牢屋の中だったかもしれないのだから、そう言いたくなるのもわかる。
使用人や領民達の証言と学園内での功績、殿下の言葉、クレア様の意向といった諸々の要素が重なりあった結果がお嬢様が例外となった理由だ。
もし、どれか一つでも欠けていたら、ダメだったかもしれない。
それを考えると、お嬢様のしたことは本当に無茶極まりなかった。
しかし、お嬢様は俯いたままで、殿下の言葉にも反応しなかった。
座り込んだまま、まるで糸の切れてしまった人形のように微動だにしない。
何処か様子がおかしかった。
殿下も心配になったのか、お嬢様の肩に触れて、声をかける。
「エレナリア?」
「……殿下、私」
お嬢様は顔を上げた。
殿下はお嬢様の表情を見て、鋭く息を吸い込む。
お嬢様は泣いていたのだ。
全てが終わったと言うのに、肩を震わせ、怯えていた。
私は反射的に飛び出しそうになりながらも、必死に自分を抑える。
まだだ。まだいけない。
そう唱える私の耳に、お嬢様の弱々しい声が届いた。
「私は、怖かった」
お嬢様は告白した。
それは今までお嬢様を縛り付けていた鎖が解けた瞬間だった。
お嬢様は殿下に支えながら、これまで悪役令嬢として心のうちに封じていたものをゆっくりと言葉に変えていく。
殿下はそんなお嬢様を優しい目で見守っていた。
「私は怖かったのです。学園にいた毎日が幸せ過ぎて。普通の少女としていられる日々は私にとって、まるで夢のようでした。眠りに落ちる前、目が覚めたらまたあの屋敷にいるのではないかと、何度恐れたかわからないくらいに。私は幸せで、同時に失うことがたまらなく怖かった」
お嬢様はよく夜になると静かに泣いていた。
私にさえ知られまいと、ひっそりと。
私は気がついていたけれど、今まではあえて触れなかった。
それがお嬢様にとって必要なものであることを知っていたから。
いつかはそんな必要もなくなることが私の役目であったから。
「殿下の好意も本当に嬉しかった。一生向けられることのない感情だと思っていたから、顔には出せなくても、舞い上がってしまいそうなくらいに嬉しかった。だからこそ、少し傷つけるようなことを言って、気持ちを試してみたり。私は優しい貴方に甘えていたのです」
ごめんなさい、とお嬢様は謝った。
お嬢様はつくづく不器用な方だ。
殿下もそれがわかっているのか、お嬢様の髪を優しく撫で、微笑んだ。
そして、気にしていないという風に首を横に振る。
お嬢様は殿下の態度に安堵したように、こわばった表情を少し緩めた。
そうしているうち、いつの間にか震えも止まっていた。
「そんな中、それでも大切なものが増えていくたび、私は怖がることをやめられませんでした。私にとって本当に怖いことは大切な人がまたいなくなってしまうことでした。それは殴られたり、蹴られたり、罵声を浴びせられることよりも怖かったのです。幼き日の……あの惨劇の夜をどうしても忘れられない。私の周りではみんな死んでいった。私は……彼女たちの疫病神だったのです」
お嬢様はそこでようやく言葉を止めた。
そして、恐々と殿下の顔を見上げる。
涙に濡れ、輝く頬には自嘲するような笑みが乗せられていた。
「これが私の弱さです。永遠につきまとう影です。私はもうこれ以上、失いたくない。失ってしまうとしたら、また同じことを繰り返すでしょう。そうはならなくても、幸福の中で何処か不安を求めずにはいられなくなるでしょう。貴方には到底似合わない女です」
似合わない女、そう言っているはずなのにお嬢様は悔しげだった。
笑おうとして失敗し、一転、唇を噛む。
今更殿下の前でとり繕ったところで意味をなさないことに気がついたようだ。
殿下は何も言わない。
代わりにそっとお嬢様に身を寄せた。
二人の顔の距離がグッと縮まる。
次の瞬間だった。
「あっ……」
お嬢様が小さく声をあげた。
二人の距離がゼロになる。
ほんの一瞬、しかし永遠にも感じられたその瞬間に二人の唇は重なった。
私の目にその光景は焼きついた。
当人でもないのに心臓が大きく跳ねた。
どうしてだか、信じられなかった。
二人がもう一度離れると、お嬢様は呆然とした様子で己の唇に触れていた。
顔は熟れた林檎のように真っ赤に染まっている。
殿下は少し目元を赤くして、しかし真剣な眼差しでお嬢様を見つめていた。
「エレナリア、君に言わなくてはいけないことがある」
「言わなくては、ならないこと」
お嬢様はまだ多少混乱しているのか、確認するように殿下の言葉を繰り返した。
殿下はそれに深く頷く。
そして、お嬢様の動揺を一瞬で吹き飛ばすような強い言葉を放った。
「さっきはもう君を不安にはさせないといったが、恐らく君の話を聞く限りでは僕にはきっと無理だと思う。人間の一生には失うことは付き物だし、何が起こるかなんてわからない。それに加えて、君は幸せすら不安に思う。常に不安を何処かに求めて生きている。違わないか?」
「そう、なのでしょうね」
「なら、ここに一つ不安の種がある」
そこで私は殿下の少し残酷にも思える言葉の真意を察した。
次に発せられる問いに頷けば、お嬢様はきっと遠くへ行ってしまうのだろう。
先ほどの衝撃ですら、耐えがたく思った私がそれを受け入れられるのだろうか。
しかし、見届けなければ一生後悔してしまうような気がして、私は二人から目を離せなかった。
殿下はお嬢様を立ち上がらせると、その前に片膝をついた。
そして、お嬢様の手を取る。
これは儀式だった。
張り詰めた空気にお嬢様も緊張した様子を見せる。
殿下は愛おしげにお嬢様に呼びかけた。
「エレナリア」
「……はい」
「僕の立場は少々……いや、かなり面倒だ。そして、その隣もまた然り。いずれは国母となるその重責はあまりに重く、常に不安が付きまとう。幸せ、とはとても言い難いかもしれない」
ここでお嬢様も殿下の言わんとしていることに気がついたようだった。
驚き、喜び、そしてほんの少しの不安。
そんなお嬢様の感情が空気を伝って私のもとにも届いた。
私はぎゅっと目を瞑る。これが、私の限界だった。
「もちろん、そうならないようには努力する。それが僕の務めだからだ。出来ることならば幸せにしたい。しかし、そういうものがあるのもまた事実だ。だから、敢えて言おう。僕と共に不安を背負ってくれと。そして、その中で幸せを共に探してくれと。つまり、だ」
一瞬の沈黙。
殿下が大きく息を吸う音がする。
彼は覚悟を決めたようだった。
「僕と一緒になってくれないか。君は君のままでいい。君の強さも弱さも、僕は愛している。だから」
「……殿下」
殿下はお嬢様の手に口付けたのだろう。
それが、この国では求婚する時の決まりだから。
お嬢様の声は少し湿っていた。
しかし、そこに含まれているのは怯えでも、悲しみでもない。
抑えきれないほどの幸福だ。
決して、私では引き出せなかったもの。
お嬢様は確認するように問うた。
「後悔、なさりませんね」
「もちろんだ。僕はもう、君なしでは情けない男にしかなれないようだから」
「そうですか。では、私の負けですね」
お嬢様の笑い声に、私は再びそっと目をあけた。
すると、そこにはいつしか見た光景が広がっていた。
幸せそうに笑うお嬢様と、その肩を支える誰か。
万華鏡で見た未来は今ここで重なり、「誰か」はやはり殿下だったのだと私を確信させた。
窓からは眩しい光が差し込み、二人を祝福するように明るく照らしている。
私にはそれが眩しくてたまらなかった。
あの万華鏡の中のように手を伸ばしたってきっともう届かないのだから。
私はその場に蹲った。
力が抜けてしまって、立っていられなかった。
これで、物語は終わる。
私はそろそろ舞台から降りなくてはならない。
「よかった」
お嬢様は幸せだ。私がずっと望んでいたように。
「よかった」
私はきちんと役目を果たせた。あのメイドとの誓いも果たせたのだ。
「よかったんだ」
なのに何故だろう。
今は泣きたい気分だった。
このまま影に溶けてしまえればどれほど良いだろうと考えてしまうほどだった。
私はそんな己の考えを何とか押し込めると、無理やり立ち上がった。
物語は終われど、後片付けはまだ残っている。
私はその為にまだここにしがみついているのだ。
私は自分自身をそう叱咤するとお嬢様に背を向けた。
決して、心残りなど残してはならない。
そう、自分に言い聞かせて。




