囚われの悪役令嬢を求めて
「ほんっとに君は不毛なことをしているよなぁ」
何処からか、聞き慣れた声がした。
それは諦めと憧憬を同時に内包したような複雑な感情を伴った声音だった。
私は視界が暗闇に包まれている中、その声に耳を傾けていた。
声の正体はわかりきっている。
けれど生憎、身体は鉛のように重いし、思考だってぼんやりしていた。
だからまだ、このままで居たい。
そんな心地よい誘惑に誘われながら、私はふわふわと微睡みの中を漂っていた。
「己の正体を隠し、秘めた想いは決して報われることはない。これだけ不毛なことってあるかい? 普通、というか、俺なら絶対に耐えられないよ。本当はもっと貪欲にだってなれるはずなのにな」
彼がどうやら私のことを言っているようだ、というのはすぐに理解できた。
不毛、というのは何度も彼に言い続けられていた言葉だからだ。
かつての私はそれをよく否定したものだが、こうして一度死に近づいて、自分の本心を改めて振り返った今ならわかる。
私がお嬢様にしているのは、ただの自己満足な献身でしかないのだ。
自分を押し殺していることで得られる安心感から逃れられない臆病者の、愚かな贖罪行為。これを不毛と言わずして、なんと言おう。
でも、私の正体のことを知ったところで、彼女にもたらせるのは不必要な罪悪感と、己の醜態のみ。得られるものなど何一つない。
なら、絶対に今のままでいた方がいいに決まっていた。
「ねぇ、リオ。君はそれで良いのかい?」
「はい。それがお嬢様の幸せとなるのなら」
私は浅い微睡みから覚醒した。
そして、不安げな表情をしているアックス様に向けて、ハッキリと己の意思を告げる。
いつまでもこうして寝ているわけにはいかなかった。
私にはまだやらねばならないことが残っている。
私はまだギシギシと痛む身体に鞭を打って、身を起こした。
正直、万全な状態とは言い難い。
もしまたロエルとでも戦闘となれば、一瞬で殺されるレベルだ。
でも、辛うじて身体を動かすことが出来る。
それさえ出来れば、今は十分だった。
己の状態をそうして確かめていると、ふと驚いた様子のアックス様と目があった。
「君、起きてたのかい?」
「ええ。ついさっき、気がつきました。それで、ここは何処ですか。随分と見慣れない場所ですが」
「ここは俺の研究室。学園の地下にあるんだ」
言われてみれば、それらしい様子だった。
広いとは言い難いこの部屋のいたるところに魔法道具の試作品や研究資料とみられる紙が散らばっている。
私が寝ていたのは仮眠用に用意されたベッドのようだった。
アックス様はその側の椅子に腰掛けて、研究資料とコーヒーを手にしていた。
ベッドの横にあるチェストの上には包帯や薬品も置かれている。それを見て、どうやら私はアックス様に助けられたらしいことを知った。
私はそれに思わず眉を顰めてしまった。
「どうして、私をここに?」
「ははっ、そんなに警戒しないでくれよ。俺はただ、君の正体を知っているだけだ。ロエルであったことも、もちろんね」
「なら、私を匿うことが危険だと、わかっているでしょう」
「それも織り込み済みさ、大丈夫。学園なら比較的安全だからね。俺の結界を破れる奴もそうそういない。それは君だって、認めてくれるだろう?」
「確かにそうですが……」
アックス様の魔力は身をもって体験したように、凄まじいものだ。
いくらロエルと言え、手出しするのは躊躇われるに違いない。
破れる者だって、それこそ限られている。
だが、私はどうにもこの状況が腑に落ちなかった。
何処から仕入れてきたのかはわからないが、情報を全て握られてしまったからだろうか。
ということは、苦労して隠し続けてきた「あのこと」もアックス様は知っているということになる。
私は深くため息を吐いて、今の最優先事項に質問の矛先を変えた。
「で、あれから何日経ちました?」
「今夜で一週間になるかな」
「それだけも……お嬢様は?」
「残念ながら、ここにはいない」
「やはり、ルルーシュ家に連れ戻されましたか」
「なんだ、知っているのか」
「いえ、それだけです。状況を聞かせてください」
やはり、お嬢様はルルーシュ家に連れ戻されたようだった。
予期していたことだが、確認が取れたことで更に不安が募る。
あれから一週間も立っていたのだとしたら、状況が動いていてもおかしくはないのだ。
革命もなされたことだろうし、尚更不安定な状況でもある。
アックス様は私のお願いに、少し困ったように頬を掻いた。
「あー、実はちょっと……いや、かなりややこしい状況にある。でも、君が今の状況を聞けば飛び出して行ってしまうだろう。俺は君に無理はさせたくない。だから、飛び出さないと約束するなら教えるけど、してくれるかい?」
「聞かないことには何も言えませんね」
「全く、君も頑固だ。でも、別に命に関わるわけじゃない。今すぐどうこう、ってわけでもない。だったら、約束してくれるかな?」
「……取り敢えず、今晩はお約束しましょう」
それは私なりの最大の譲歩だった。本当ならば、今すぐにでもルルーシュ家に戻って、お嬢様の元へと向かいたい。
けれど、助けて下さったアックス様のことを考えると、約束を無下にすることも出来なかった。
身体だって、万全な状態とはほど遠いし、今行っても逆に足手まといになってしまう可能性がある。
出来ればもう一晩休まなくては、悔しいが身体が持ちそうにないのは認めざるを得ない事実だった。
アックス様は不満気ではあったものの、取り敢えずは妥協してくれたらしい。
彼は単刀直入に今の状況を聞かせてくれた。
「エレナリア様は今、屋敷に幽閉されている」
「ッ! それで?」
ここまでは予想範囲内だった。
許しがたいことだが、あの家族ならやりかねない。
それに、ここまでなら学園が来る前にもあった。
だから、特別危険な状況というわけではない。
アックス様だって、私の情報を握れるくらいなのだから、お嬢様の情報を持っているだろうし、これくらいをややこしいとは言わないはずだ。
私は少し緊張しながら、アックス様の言葉の続きを待った。
「エレナリア様には近いうち、婚約者が作られる予定だ。それも、不正組の方とね。どうやら、もう革命側に寝返られないと知った、重大な不正をした貴族たちでの繋がりを強め、革命側に対抗しようとしてるらしい」
「殿下やクレア様はどうなさるおつもりで?」
「助けようとしている。けれど、婚約が結ばれた後になれば、正直難しいだろうね。今すぐというのは、革命直後でまだ国が混乱しているし、クレア様は手一杯だ。とはいえ、後まわしをすれば彼女をルルーシュ家から引き剥がすのは難しい。ルルーシュ家を倒す段になれば、クレア様は勢いのままに押し切ろうとするだろう。例え、エレナリア様をそれに巻き込もうとね。立場が立場だし、自由に動けないって事情がある。殿下は……うん、まぁ傷心中かな」
「はぁ?」
クレア様がお嬢様のために動けない理由には納得できた。
何せ、彼女は革命の主導者だ。
仕事に手一杯なのは、既にわかりきったことだ。
だからこそ、私にあれだけお嬢様を守るように念押ししたのだろうし、殿下を引っ付けることで他の後ろ盾も作ろうとしたのだろう。
クレア様はできる限りのことをしてくださった。
にもかかわらず、殿下の理由はどういうことなのだろうか。
あまりに突拍子もなく、情けないアックス様の答えに、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。
というか、そもそもあれだけ強靭なメンタルを誇っていた殿下が折れるなど、そうそうあることでない。
私の預かり知らぬところで何が起こったのか、非常に気になるところである。
アックス様は意外に真剣な表情をしていた。
「どうやら、こっぴどく振られたらしいよ。殿下」
「まさか。だって、お嬢様は殿下のこと、それほど嫌ってらっしゃらない……いや、むしろ好意さえ持っていたと思います。そんなはずは」
「いや、でも俺も殿下本人から聞いたんだ。もちろん、詳しくは教えてくれなかったけどね。ただ、酷い顔で振られた、とだけは告げられたよ。これから起こるであろう、婚約話も止めないでくれ、とも言われたらしい」
「そんなっ」
それでは、お嬢様の婚約を止めるための術が無くなってしまうではないか。
少なくとも、今後とも貴族社会で生きていくことを諦めない限りはほぼ不可能に近い。
一体、お嬢様が何を思ってそんなことをおっしゃったのか、私にはまるでわからなかった。
第一、お嬢様は侯爵家のことを唾棄していたし、今更救おうだなんて思うはずもないのだ。
だからこそ、学園に来て良かったと常々言っていたし、表情だって現れるようになった。
なのに、どうして。
私は気が付けば、立ち上がっていた。
ふらつく足で何とか踏ん張ると、よろよろと歩き出す。
お嬢様がどうにも心配でならなかった。
一刻も早くお嬢様の元へ訪れなくてはいけない。
そんな使命感が私の身体を突き動かす。
しかし、その歩みはわずか三歩で止まることとなった。
私の手を掴むのは、アックス様。
彼は弱り切った私を捕まえると、あっという間にベッドへと逆戻りさせた。
私はジタバタと暴れたが、彼はビクともしない。
そこで、私はどれだけ自分が衰弱しているのかに気がついて、愕然とした。
「アックス様、私をお嬢様の元へ行かせてください。お願いします」
「駄目だ。最低でも一晩は休むと約束したじゃないか。それを破らせるわけにはいかない」
「でも……」
「でも、じゃない。そもそもそんな身体で行ったところで、一体何が出来るっていうんだよ。ただでさえ不安かもしれないエレナリア様の前でぶっ倒れて、更に迷惑かける気? 婚約までは少なくともまだ一週間はある。ルルーシュ侯爵領まで一日かかるとしても、一日くらいは休んだってどうってことないだろ。とにかく、落ち着いたほうがいい」
まさにアックス様の言っていることは正論だった。
私は反論することが出来ずに、渋々ながらも抵抗するのをやめる。
すると、アックス様は満足げに頷いた。
どうやら、今晩は休む他なさそうだ。
前に戦った時だって、アックス様には危うい目を見せられたこともあるし、今の状態じゃどうやったって勝てっこない。それは一目瞭然だった。
私は深くため息をつくと、かけてあった毛布をかぶりなおした。
今のちょっとした抵抗でさえ、体力を使ってしまったようで、身体がかなりだるい。
私はゆっくりと目を閉じかけてから、ふとアックス様に聞いておきたいことがあるのを思い出した。
彼は魔法のエキスパートだし、寝ていた間に私の身体の隅々まで調べ尽くしていただろうから、きっと答えを持っているはずだ。
私は少しの緊張を覚えながら、その問いを口にした。
「アックス様」
「なんだい?」
「私、あとどれくらい持ちそうですか?」
「……わかっているんだね」
「当然です。自分の身体のことですから」
私はアックス様に微笑みかけた。
一方のアックス様は苦しげな表情をしている。
こんなお嬢様にバカがつくほど過保護で、穢れた手を持つ、どうしようもない私に彼は何かしらの価値を見出してくれていたらしい。
私は純粋にそのことが嬉しかった。
そんな彼にこんなことを聞くのは酷ではあるが、彼以上に私のことを知っている人間はそうそういない。
ロエルなんかから聞くよりも、私は彼に聞きたかった。
だから、もう一度同じ質問を繰り返す。
「アックス様、私……あと、どれくらい私のままで居られるんでしょうね?」
「……おそらく、春まで持つかどうかってところかな。君、無理しすぎだよ」
「仕方がないじゃないですか。そうせざるを得なかったんですから。でも、そうですか。春まで……なんですね」
良かった。と私は思わず胸を撫で下ろした。
春までだったら、お嬢様の行く末はどうにか見られそうだ。
その頃にはきっと全てが決着している……いや、決着させるつもりでいる。
だから、どうにか持ちこたえてくれそうだった。
安堵のため息を吐く私に、アックス様の表情は相変わらず複雑そうだ。
どうせあと少ししかないのなら、笑ってくれればいいのに、と私は思うのだが、意外にそれも難しいことなのかもしれない。
代わりに私は別のお願いをすることにした。
「アックス様、お願いがあるんですが、良いですか」
「良いよ。よっぽど無茶じゃなきゃね」
「ありがとうございます。実は、明日の屋敷へ戻る時、是非ともご同行願いたいのですが、よろしいですか? 生憎、今の私じゃ戦いも心許ないので」
「それくらいなら、喜んで。むしろ、ついていく方が安心だ。それくらいは友人だし、お願いされるまでもないよ」
「そうですか。では、よろしくお願いします」
そうして、私はもう一度眠りについたのだった。
今屋敷で一人、幽閉されているであろう、お嬢様のことに思いを馳せながら。
それから、二日後の早朝。
その頃になると、私たちはルルーシュ侯爵領へと入っていた。
昨日はアックス様との約束を守り、その期限が切れる夜まで身体を休めていた。
目が覚め、動けるようになると、私は約束の時刻が来るなり、夜の間に出発した。
アックス様にはもちろん、夜に出るのは危険だし、体調も万全ではないだろうと止められたが、最終的にはアックス様が折れる形で今ここにいる。
夜の王都を抜け出すのは警備もあり、通常は簡単なことではなかったが、影の属性故か隠密行動は得意中の得意なので、難なく抜け出すことが出来た。
それには王都を守る身のアックス様に呆れられてしまったが、私は例外である。
それはともかく、苦労したのはルルーシュ侯爵領に入ってからのことだった。
何せ、革命の波が迫る中、一番被害を被りそうなのはこのルルーシュ侯爵領である。
当然、警備にも抜け目がなかった。
無論、抜けることは不可能ではないものの、進行速度は当然遅くなる。
今すぐにでもお嬢様との再会を望む私としては、もどかしいことこの上なかった。
体調が良くないことも相まって、若干イライラしてしまう私に、アックス様は触らぬ神に祟りなしと言わんばかりにだんまりを決め込んでいる。
そんなこんなではあるものの、屋敷はすぐそこにまで迫っていた。
それにつれ、警備も厚くなったが、屋敷の背後に広がる森を利用し、草陰に隠れながら、距離を詰めていく。
屋敷の姿は遠目ながら、視界にハッキリと映る位置にあった。
「アックス様、あと少しです。ついてこれますか?」
「ああ、何とか。にしても、どうしてそんなに速く動けるんだ? 風魔法を使っているわけでもなしに」
「染み付いた動きだから、ですね。これでもゆっくりめではあるんですよ。あっ、敵です」
私はすぐそばを通った敵の背後から襲いかかった。
明け方ということもあり、薄暗い上、眠い時間帯でもあるから、警備として雇われた傭兵も気が緩んでいたのだろう。
随分とあっさりと仕留めることが出来た。
今までも苦労してきたわけではないが、中々のツワモノも見かけたために、スピードを保つためにも隠密に徹底したこともあった。
出来ればもしもの時に敵の数は減らしておきたいので、今の感じが理想ではあるが、中々どうして上手くいかない。
それに、大分金をつぎ込んだのか、それなりのツワモノと言えるものも徐々に増えてきた。
もちろん、私たちの敵にはなりそうもないが、私が万全ではない以上、もしものこともある。
戦闘回数を減らすに越したことはなかった。
「この調子だと、何とか夜が明ける前には着きそうですね」
「そうだね。ところで、気になったのだけれど、どうやって屋敷内には入るんだい? 外でこれだけの警備なのに、屋敷の中へ入るのはもっと難しいだろう?」
「あのですねぇ、アックス様。私が誰だか分かって言ってます?」
「……そう言えば君はルルーシュ家で働いていたっけ」
「今更すぎる答えですね。でもだから、あの屋敷のシステムは知っています。どうとでもなりますよ」
それでも、もちろん正面突破は難しいでしょうけどね、と私は呆れながらアックス様に答えた。
アックス様は私の正体を知っているから、そっちのインパクトが強すぎて、今の仕事のことを忘れていたのだろう。
まぁ、元は裏の仕事をしていたのだから、想像つかないのも無理はない。
それに、アックス様とは身分を気にせずに会話している節があるので、忘れがちにもなる。
それでも、まさかそんなことを答えることになるとは思わなかったが。
何はともあれ、屋敷に近づきさえすれば、中に入る手立てはあるのだ。
無論、警備をここまで徹底しているから、出入りする者の顔は逐一チェックされているだろうし、正面突破は無理だと思う。
また、窓から入るにしても、鍵がかかっているに違いない。
では、どうすれば良いのか。残る答えは一つだ。
「屋敷の中の者に手引きしてもらいます。私が頼めば、彼らが中に入れてくれるでしょう。というか、コンタクトはもうとっていますので」
「裏切られる可能性は?」
「ありえません。侯爵家の人望は限りなく低い。新しく入った者はあまりの扱いに軒並み辞めていきますしね。私のような怪しい奴が入れるくらいには、人員に困窮しています。また、残った者も皆、表には出しませんが、お嬢様側についているのです。むしろ、お嬢様を心の支えにしていると言っても過言ではない」
「なるほど。それなら確かに信用出来そうだね」
噂には聞いていたけど、侯爵の身勝手さは相当のようだね、とアックス様は神妙な表情で呟いた。
それを聞いた私は激しく首を縦にふる。
そして、溜まりに溜まった侯爵一家への愚痴をアックス様に聞いてもらった。
例えば、お嬢様にした酷い仕打ちのことや、無理難題と言って過言ではない命令のこと。
それと、裏で行っている数々の不正のことや個人的なことまで。
アックス様は私の侯爵家への怒りを目の当たりにして、顔を引き攣らせていたものの、侯爵一家の貴族として相応しくない行為の数々には厳しい意見を述べた。
アックス様の意見は次の世代の国を担う者として、至極真っ当なものばかりだ。
これなら、革命後のこの国は良くなっていきそうである。
そうしているうちに私の積もっていた鬱憤もだんだん晴れてきて、焦っていた気持ちが落ち着いてきた。
侯爵家を前にして、一度落ち着いておくことが出来たのは大きい。
お嬢様と話をするにしても、冷静でなくてはまた喧嘩してしまう可能性だってあったのだ。
今の状況で喧嘩などしようものなら、お嬢様の今後の人生でさえも壊してしまうかもしれないのだから、ここは慎重に話を進めなくてはならない。
私は大きく息を吸い込むと、既に目と鼻の先にまで迫った屋敷を睨み付けた。
「アックス様、準備はよろしいですか?」
「ああ、俺はいつでも。そっちは?」
「こちらも平気です。絶対にお嬢様をこの理不尽な運命から救い出してみせます」
そう、これ以上お嬢様が悲しむようなことがあってはならない。
彼女はもう十分すぎるほど、不幸を味わった。
だから、残りの人生ではずっと笑って生きていてほしい。
それが、私の揺らぐことのない願いだった。
「行きましょう」
「了解」
私は自身とアックス様に影の魔法を薄くかけると、気配を完全に消した。
影の魔法の多用は控えるべきなのだろうが、これくらいならまだ平気だ。
使用時間も短いし、敵の前でしか作動しないように設定してある。
気配を読むことが出来る私からすれば、使う力は微々たるものだった。
その証拠に私の心配をするアックス様も今回は何も言わない。
代わりに私の背後から離れずにしっかりとついてきた。
「裏手へ回ります。夜明けと共に裏口の警備に一時的に穴を開けてくれる約束です。鍵を開けてくれる人も中で待っています」
私は東の山の方に視線を向けた。
既に山の淵が明るく光り始めている。
約束の時は近いことを知らしめていた。
そんな中、裏口を密かに見守っていると、扉の前に立っていた見張りが突如その場を離れた。
どうやら、仲間に呼ばれたらしく、鍵が閉まっていることを確認すると、屋敷の表の方へと姿を消す。
その隙に私とアックス様は素早く扉に近づいた。
そして、事前に示し合わせていたリズムで五回、扉をノックする。
すると、中から返事が返ってきた。
「赤き花は?」
「バラこそ全て。永遠を望む」
「……いいでしょう」
これも予め決めておいた合言葉を返すと、鍵がカチリと外れる音がして、裏口が開いた。
急いで中に入ると、背後ですぐにドアが閉まる。
なんとか、無事に中に入ることが出来たようだ。
私はホッと息をついて、影の魔力を消した。
そして、ドアを開けてくれた人物に頭を下げる。
「ありがとうございます、侍女長」
「久しぶりですね、リオ。お嬢様の側にあなたがいないと分かって、心配しましたよ。よくぞ無事でした」
そこに居たのは、よく私を指導してくれた侍女長その人だった。
あれからそれなりに経つが未だ健在で、相変わらず新人には厳しい指導を続けている。
私も五年前に彼女に一人前と認められて、晴れてお嬢様付きの侍女になることを許されたのだ。
一人前と認められた後は、師弟ではなく、一人の人間として付き合うことにもなり、厳しい顔だけでなく、笑顔を見ることもあった。
今回も私がコンタクトを取ると、すぐにこの作戦に協力してくれたのである。
今も私の無事を確認して、笑顔を見せてくれた。
あの頃には考えられなかったほど、優しげな表情である。
それを見ると、やはり彼女の厳しい指導は私たちを思ってのことだったのだとより実感させられた。
「ご心配をおかけして、すみません。少し相手に手こずってしまって」
「あら、あなたが手こずるとは。やはり、気配が違うと思いましたが、もしや……」
「はい。どうやら、弱っているようです。それで、こちらのアックス様に助けて頂いたのですが、本当に危ないところでした」
「アックス様というと、ラヴィア家のお方ですか。これは、挨拶が遅れて申し訳ありません」
「いや、気にしないでほしい。この状況だし、仕方がないよ」
「そう言って頂けると、助かります」
侍女長はそう言って、深々と頭を下げた。
流石見習い侍女の手本となる人とだけあって、その所作は何処までも丁寧だ。
私もまだまだだなと思い知らされる。
アックス様は久々にこんな丁寧な対応を受けたようで、少し戸惑い気味だったが、元々はそれなりの身分であるせいか、すぐに慣れたようだった。
私としてはこういうところで身分差を感じさせられるが、アックス様は私の方を見ると、ううんと唸った。
「うん、君はやっぱりそのままが良い」
「それ、どういうことです?」
「変にへりくだってないところが似合ってるってことだよ。図々しいくらいが君にはちょうど良いと思ってね」
「あっ、あの? こんなの、アックス様だけですからね……?」
私は侍女長に聞かれていることに戦々恐々としながら、言い訳した。
とはいえ、アックス様がこちらの緊張を解こうとしてくれているのがわかっているので、強くは出れずに中途半端な答えになってしまう。
恐る恐る侍女長を振り返ると、彼女は恐ろしいまでの完璧な笑みを浮かべていた。
これは多分、お説教されるに違いない。
私は元王国最強騎士だった彼女のひそかな怒りに思わず身震いした。
あの威圧を放たれたならたまったもんじゃないのだ。
「まぁ、リオへのお説教は後にするとして、早速お嬢様の元へ参りましょうか。一刻も早く、とりあえず無事ということをお伝えせねばなりません」
「そうですね。お願いします」
私は侍女長の言葉に気を取り直して、頷いた。
すると、一時は忘れていた緊張感が再び襲いかかってきた。
とはいえ、アックス様のお陰でそう酷いものでもない。
アックス様も真剣な表情に戻ると、私と共に侍女長に着いて歩き出した。
ようやく、望み続けていたお嬢様との再会が訪れるのだ。
屋敷の中という短い距離にも関わらず、やけに遠い道のりのように私には感じられた。
「ここです」
そうして、連れられたのは屋敷の地下の薄暗い部屋の前だった。
昔は牢獄として使われていた場所らしく、松明の明かりが必要なほど暗いし、ジメジメとして不気味だ。
こんなところにお嬢様が押し込められているのかと思うと、侯爵一家に対する怒りが再びフツフツと湧いてくる。
その気持ちは侍女長も同じなのか、無表情になっただけでなく、鍵を握る手が震えていた。
「お嬢様、失礼します」
一言断って、私は部屋の中に入った。
すると、粗末なベッドの上に身を横たえたお嬢様の姿が目に入る。
私はその時、思わず悲鳴をあげそうになった。
それは、苦しげな息を零しながら眠るお嬢様があまりにも窶れていたから。
たった一週間しか経っていないのに、この変わりようは酷かった。
私は気が付けばお嬢様の元へ駆け出していた。
「お嬢様っ!」
私が声をかけると、お嬢様はハッとしたように目を開いた。
その目の焦点は合っておらず、痛々しいまでに虚ろだ。
私がもう一度呼びかけると、やがてお嬢様はゆっくりとこちらへ目を向けた。
オレンジ色の瞳に私の姿がはっきりと映る。
すると、お嬢様は信じられないと言わんばかりの表情を浮かべた。
掠れた声がお嬢様の細い喉から零れ落ちた。
「う……そ。リオ……ほんとに、リオなの?」
「はい、私です。ご心配をおかけして、申し訳ございませんでした」
私はお嬢様の手を強く握りしめた。
ここにいると、強く示すために、抱きしめるようにして冷たい手を包み込む。
お嬢様はポロポロと涙を流していた。
私の手を握り返しながら、止まらない嗚咽を漏らす。
それで、私がどれほどお嬢様に心配をかけていたのかが、痛いほどにわかった。
定められた運命でさえ捻じ曲げて、側にいたいと願ってしまうほどに。
お嬢様は私のことを想ってくださっていた。
「良かった……良かった」
私はそれから、ずっとお嬢様が泣き止むまで手を握り続けた。
そして、己の運命を呪うことしか出来なかった。




